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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
悪役令嬢の名誉回復作戦

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17/100

辺境伯様、取材対応が下手すぎます

 神殿からの返答は、あまりにも美しい文字で書かれていた。


『聖女候補ミリア・セレス様は、昨今の心労により静養を要する状態にございます。王宮より賜りました面会のお申し出につきましては、ミリア様のお心を第一に考え、日を改めて調整させていただきたく存じます』


 丁寧。


 穏当。


 非の打ちどころがない。


 だからこそ、胃が痛い。


 私は王宮広報局危機声明管理室の机で、その書状を三回読んだ。


 三回読んでも、やっぱり胃が痛い。


「リディア、顔が『この文章はいい文章なので嫌です』って言ってるわ」


 向かいの席からセラが言った。


「よくわかりましたね」


「付き合いが長いから」


「この文章は、表面上は配慮です」


「表面上は?」


「はい」


 私は赤インクを取った。


 書状の余白に、見えた火種を書き込む。


【火種:面会延期による確認遅延】


【火種:神殿による本人保護名目の情報管理】


【火種:王宮からの圧力印象】


【火種:ミリア本人の発言機会消失】


【火種:聖女候補被害者化】


 セラが覗き込んで、静かに顔をしかめた。


「うわあ」


「うわあ、です」


「でも、体調不良なら仕方ないんじゃない?」


「もちろんです。本人が休みたいなら、面会は延期すべきです」


「なら?」


「問題は、この文章にミリア様本人の言葉が一つもないことです」


 私は書状を机に置いた。


 昨日、ミリア様から届いた非公式の手紙。


『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』


 あの一文には、震えがあった。


 定型句の奥に、小さな本人の線があった。


 けれど、今届いた神殿の返答は違う。


 整っている。


 清らかで、丁寧で、配慮に満ちている。


 そして、誰の体温もない。


「ミリア様が本当に休みたいのか、神殿が話させたくないのか、まだわかりません」


 私は言った。


「火種感知は、真実を教えてくれませんから」


 真実は見えない。


 悪意も見えない。


 相手の心も読めない。


 見えるのは、言葉がどちらへ燃えるかだけ。


 だからこそ、確認が必要だ。


 だが、確認する前に、確認そのものが延期された。


 火元へ向かおうとしたら、道に白い布をかけられたような気分だった。


 その時、危機声明管理室の扉が開いた。


 若い記録係が、いつになく青い顔で飛び込んできた。


「リディアさん!」


「はい。火事ですか、炎上ですか、それとも王族ですか」


「全部に近いです!」


「最悪の三択を一つにしないでください」


 記録係は息を切らしながら、水晶板の写しを差し出した。


 そこには、王都瓦版の速報見出しが浮かんでいる。


『聖女候補ミリア様、王宮で事情聴取か』


 私は目を閉じた。


 早い。


 早すぎる。


 まだ面会していない。


 延期されたばかりだ。


 なのに、もう「事情聴取」になっている。


 しかも、次の見出しまで出ていた。


『公爵令嬢同席予定との噂 聖女候補への圧力疑惑』


 机の上で、赤い火種がぱちぱちと弾ける。


【火種:王宮による圧力印象】


【火種:エレオノーラ再悪女化】


【火種:ミリア被害者固定】


【火種:神殿反発】


【火種:王宮隠蔽疑惑】


 セラが低く呻いた。


「面会してないのに事情聴取」


「よくある最悪です」


「よくあってほしくないわ」


「私もです」


 私は立ち上がった。


 その瞬間、胃がきゅっと痛んだ。


 朝から薬草茶しか飲んでいない。


 昨日の夜は、神殿布告と新聞記事と貴族サロンの噂を並べて火元図を作っていたら夜が消えた。


 睡眠時間は、たぶん書類の余白くらいしかない。


「リディア、顔色が本格的に紙よ」


「紙なら燃えますね」


「冗談言ってる場合じゃない」


「冗談ではなく危機評価です」


「なお悪いわ」


 セラが眉を吊り上げる。


「座って。私が行く」


「いいえ。私が行きます」


「倒れたら?」


「倒れる前提で話さないでください」


「倒れそうだから言ってるの」


 セラの声は少し強かった。


 その強さに、私は一瞬だけ言葉を詰まらせる。


 心配されている。


 それは、まだ慣れない感覚だった。


 前世では、体調が悪くても「今日だけお願い」と言われた。


 今世でも、王宮広報局はたいがい人をすり減らす職場だ。


 でも、セラは止めようとしてくれる。


 マルクさんも胃薬を分けてくれる。


 室長も、燃える前に叫べと言ってくれた。


 それだけで、少しだけ立っていられる。


「大丈夫です」


 私は言った。


「今は、火の向きだけ確認します。無理はしません」


「リディアの『無理はしません』は、王太子殿下の『少し話すだけだ』くらい信用できないわ」


「かなり信用が低いですね」


「自覚して」


「はい」


 私は記録水晶と赤インクを持った。


 廊下へ出た瞬間、外の方からざわめきが聞こえた。


 王宮正門に近い回廊だ。


 記者たちの声が混じっている。


 私は足を速めた。


 そして、角を曲がった瞬間、見た。


 黒い外套。


 灰銀の髪。


 長身。


 まるで王都の石畳に、北方の雪山が一本だけ立っているような男。


 カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯が、記者たちに囲まれていた。


「辺境伯様! 王宮が聖女候補ミリア様を拘束しているという噂は事実ですか!」


「グランフェルト公爵家と王宮広報局が、聖女候補へ圧力をかけているとの声があります!」


「エレオノーラ様を庇うため、ミリア様の証言を封じるおつもりですか!」


「北方辺境伯家は、公爵家側として王宮へ圧力をかけるのですか!」


 質問が、矢のように飛んでいる。


 いや、矢ならまだいい。


 矢は刺さる方向がわかる。


 記者の質問は、刺さった後で勝手に曲がる。


 カイル様は、記者たちを見下ろしていた。


 表情は動かない。


 眉も動かない。


 目だけが冷たい。


 そして、彼は短く答えた。


「違う」


 羽ペンが走った。


 私は心の中で叫んだ。


 足りません!


 記者が畳みかける。


「では、ミリア様は自由に発言できる状態なのですか?」


「知らん」


 さらに羽ペンが走る。


 足りません!


「辺境伯様、王宮と神殿の対立についてご見解を!」


「帰れ」


 終わった。


 いえ、まだ死んでいない。


 でも見出しは死にました。


 私の視界に、火種が一斉に浮かぶ。


【火種:威圧印象】


【火種:取材妨害】


【火種:辺境差別再燃】


【火種:聖女候補被害者化】


【火種:王宮による隠蔽疑惑】


【火種:北方武力圧力】


 記者の一人が、目を光らせた。


「今、帰れとおっしゃいましたか?」


 カイル様は無表情のまま答える。


「邪魔だ」


 増えた。


 火が増えた。


 私は走った。


「お待ちください!」


 記者たちの視線が一斉にこちらへ向く。


 カイル様も、ゆっくり私を見た。


 その目は相変わらず冷たい。


 けれど、ほんの少しだけ「またお前か」と言っているように見える。


 たぶん気のせいではない。


「王宮広報局危機声明管理室、リディア・ノートンです」


 私は記録水晶を掲げた。


「本件について、現時点で確認済みの事実と未確認情報を整理いたします」


 記者の一人がすぐに聞いてくる。


「では、辺境伯様の『帰れ』という発言は公式回答ですか?」


「いいえ」


 私は即答した。


「公式回答ではありません」


 隣でカイル様がこちらを見た。


「では非公式ならいいのか」


「よくありません」


「邪魔だ、は?」


「もっとよくありません」


「短いぞ」


「短ければよいというものではありません」


 記者席、ではなく記者の群れがざわついた。


 数人が口元を押さえている。


 笑われている。


 まずい。


 いや、少し場が緩んだのは悪くない。


 ただし、笑いの方向を間違えると「辺境伯、広報官に叱られる」になる。


 それはそれで燃える。


 なぜこの職場は、笑っても燃えるのか。


 私は咳払いした。


「改めて申し上げます。聖女候補ミリア・セレス様との非公式面会については、神殿側より日程再調整の申し入れがあり、現時点で面会は実施されておりません」


 記者たちの羽ペンが走る。


「事情聴取ではないのですか?」


「違います。非公式面会です」


「エレオノーラ様が同席予定だったという情報は?」


「関係者の安全と記録保全のため、同席者については調整中でした。確定情報ではありません」


「ミリア様への圧力では?」


「その前提は未確認です。回答前に、圧力と判断された具体的事実をご提示ください」


 記者が一瞬詰まった。


 横から別の記者が問う。


「辺境伯様はなぜこちらへ?」


 カイル様が答えようとした。


 嫌な予感がした。


 私は半歩だけ前に出た。


 しかし、遅かった。


「呼ばれた」


 短い。


 短すぎる。


 誰に、何のために、どこへ、なぜ。


 全部抜けている。


 記者が目を輝かせる。


「王宮に呼ばれたのですか? 公爵家への加勢として?」


 カイル様が眉をひそめる。


「違う」


 また一語。


 これは危険だ。


 否定だけでは、見出しが相手に委ねられる。


 私は横から補足した。


「カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯は、北方領に関わる流言の拡散状況および王都内の治安懸念について、王宮記録局との確認のため来庁されています」


 長い。


 自分でも思う。


 だが、必要だ。


 カイル様が低く言った。


「長い」


「必要です」


「信用できない」


「信用してくださいとは言っていません。切り取られにくくしています」


 カイル様は黙った。


 記者の一人が、少し笑った。


「辺境伯様は、王宮広報局の説明を信用していないと?」


 しまった。


 今のやりとりも切り取れる。


 私はすぐに答える。


「辺境伯様は、未確認情報が拡散されることについて強い懸念をお持ちです。王宮広報局としても、その点は共通しています」


 カイル様がこちらを見る。


 たぶん「そんなことは言っていない」と思っている。


 でも、言っていなくても事実に近いはずだ。


 違ったら、あとで訂正します。


 胃薬とともに。


「では、辺境伯様ご本人から一言!」


 記者が迫る。


 私は内心で叫んだ。


 やめてください。


 今、本人から一言は危険です。


 王太子殿下で学ばなかったのですか。


 一言はだいたい燃えます。


 カイル様は少し黙った。


 そして、低く言った。


「確認中だ」


 私は、思わず彼を見た。


 カイル様は続ける。


「決めつけるな」


 短い。


 でも、さっきよりずっといい。


 私は即座に言葉を足した。


「以上が、現時点での辺境伯様のご見解です。未確認情報を前提とした断定的報道はお控えください」


 記者たちの羽ペンが走る。


 今度の音は、少し違った。


 さっきまでの獲物を切り刻む音ではない。


 少なくとも、材料を整理している音だ。


 完全に安全ではない。


 でも、火力は少し落ちた。


 記者たちはなおも質問を重ねたが、私は確認済み、未確認、回答不能を分け続けた。


 カイル様は途中から黙っていた。


 黙っているだけで威圧感がある。


 記者が勝手に後ずさるくらいだ。


 便利なのか不便なのかわからない。


 最後に王都瓦版の若い記者が聞いた。


「辺境伯様。王都の報道について、どう思われますか」


 空気が、少し変わった。


 カイル様の目が冷える。


 私は止めようとした。


 だが、その前に彼は答えた。


「信用していない」


 記者たちが、また反応する。


 私は補足しようとした。


 けれど、カイル様は私を見ることなく続けた。


「王都の言葉は、北方に届くころには刃になっている」


 その声は静かだった。


 怒鳴っていない。


 威圧もしていない。


 なのに、廊下の空気が重くなった。


 記者たちの羽ペンが、一瞬だけ止まる。


 私も言葉を失った。


 それは取材対応としては危うい。


 だが、初めてカイル様自身の痛みが見えた言葉だった。


 すぐに私は、ゆっくりと補足した。


「辺境伯様は、北方に関する未確認の噂や悪意ある見出しが、領地の安全に影響してきた歴史を懸念されています。この点については、王宮としても慎重に確認を進めます」


 カイル様が、ちらりと私を見る。


 その目は、さっきより少しだけ違った。


 怒りではない。


 警戒は残っている。


 けれど、私の補足を否定はしなかった。


 記者たちはようやく引いた。


 完全に満足したわけではないだろう。


 それでも、燃料を山ほど持って帰らせる最悪の事態は避けられた。


 たぶん。


 たぶん、である。


 記者たちが去った後、廊下には疲労だけが残った。


 私は壁に手をついた。


 ほんの少し、視界が揺れる。


 まずい。


 睡眠不足と薬草茶だけの身体で、記者対応をするとこうなる。


 前世で何度もやった。


 そして何度も失敗した。


 休むべきだ。


 でも、休む前に記録を整理しなければ。


 速報の見出しも確認しなければ。


 神殿への返答も。


 ミリア様の面会再調整も。


 カイル様の発言補足も。


「おい」


 低い声がした。


 顔を上げると、カイル様が私を見ていた。


「座れ」


「いえ、まだ記録を」


「座れ」


「ですが」


「倒れる」


 私は反論しようとした。


 その前に、カイル様が無言で近くの控え椅子を指差した。


 命令というより、天候の告知に近い。


 雪が降る。


 風が吹く。


 リディアは座る。


 そういう圧だった。


 私はおとなしく座った。


 悔しい。


 でも、少し助かった。


 カイル様は外套の内側から小さな包みを取り出した。


 差し出される。


「食え」


「何ですか」


「干し肉」


「……ありがとうございます」


 恋愛小説なら、ここで花とか砂糖菓子が出るのではないだろうか。


 干し肉。


 北方。


 実用性がすごい。


 受け取ると、さらに革袋を渡された。


「飲め」


「薬草茶ですか?」


「北方の胃薬茶」


「胃薬茶」


 言葉の響きだけで胃が治りそうで、逆に怖い。


 私は礼を言って、一口飲んだ。


 苦い。


 王宮の薬草茶より苦い。


 でも、身体の奥が少し温まる。


 カイル様は私を見下ろしていた。


「お前は、王宮の人間だ」


「はい」


「だが、さっきは王宮を飾らなかった」


 私は少し考えてから答えた。


「飾る余裕がなかっただけです」


「そうか」


「はい」


「なら、飾るな」


 短い言葉だった。


 命令にも聞こえる。


 でも、不思議と責められている感じはしなかった。


 私は干し肉を握ったまま、小さく息を吐く。


「辺境伯様」


「カイルでいい」


「では、カイル様」


「様はいらん」


「職務上、必要です」


「長い」


「敬称まで短縮しないでください」


 カイル様は少しだけ眉を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 たぶん違う。


 でも、さっきより空気は硬くない。


「先ほどの取材対応ですが」


「悪かったか」


「かなり」


「そうか」


 反省しているのか、していないのか。


 表情だけではわからない。


「『違う』『知らん』『帰れ』は、すべて切り取られます」


「事実だ」


「事実でも、切り取られたら別の意味になります」


「長い言葉は信用できない」


 出た。


 カイル様の声は静かだった。


 だが、その言葉だけは、やけに重かった。


 私は彼を見る。


 灰銀の髪。


 薄青の目。


 雪山のように静かで、遠い人。


 でも、その静けさの下に、火傷の痕のようなものがある。


「長い言葉で、何かを失ったことがあるのですか」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。


 カイル様は黙った。


 廊下の向こうで、記者たちの声が遠ざかっていく。


 しばらくして、彼は言った。


「父は、王都に援軍を求めた」


 私は息を止めた。


「書状を送った。何度も」


 短い言葉。


 でも、一つ一つが重い。


「王都では、その書状より先に噂が広がった。北方が反乱の準備をしている、と」


「……」


「援軍は遅れた。父は死んだ」


 それ以上、彼は言わなかった。


 言わなくても、十分だった。


 言葉は人を救わない。


 言葉は人を殺す。


 カイル様がそう思う理由が、少しだけ見えた。


 王都の誰かが書いた噂。


 誰かが整えた報告。


 誰かが遅らせた返答。


 長い言葉のどこかに、責任が薄められた。


 そして北方で、人が死んだ。


 私は手元の記録水晶を見た。


 前世の会議室が、一瞬だけよぎる。


『事実確認中です』


『個別案件にはお答えできません』


『関係各所と連携し、適切に対応してまいります』


 便利な言葉。


 責任を薄める言葉。


 名前を消す言葉。


 私は、それを書いていた側の人間だ。


「カイル様」


 私は静かに言った。


「長い言葉が信用できないのは、わかります」


「わかるのか」


「少しだけです」


 全部わかる、とは言えない。


 それは嘘になる。


「でも、短すぎる言葉は、他人に続きを書かれます」


 カイル様が私を見る。


「『違う』だけでは、何が違うのかを書かれます」


「……」


「『知らん』だけでは、隠していると書かれます」


「……」


「『帰れ』は、威圧と書かれます」


「邪魔だ、は?」


「取材妨害です」


「そうか」


「はい」


 私は、干し肉を机代わりの膝の上に置き、赤インクを取り出した。


 手近な紙に書く。


『確認中だ。決めつけるな。』


「これは?」


 カイル様が問う。


「先ほどの言葉です。短いですが、比較的燃えません」


「比較的」


「絶対はありません」


「長いな」


「二文です」


「十分長い」


「辺境伯様の基準が厳しすぎます」


 私は次の紙に書いた。


『本件は確認中であり、未確認情報を前提とした評価は差し控える。』


 カイル様が見た瞬間、顔をしかめた。


「長い」


「公式文です」


「眠い」


「起きてください」


「読まれない」


「読まれにくいです」


「なら、さっきのでいい」


 カイル様は最初の紙を指差した。


『確認中だ。決めつけるな。』


「これなら言える」


 私は、その文字を見た。


 短い。


 飾らない。


 けれど、逃げていない。


 不思議だ。


 王太子殿下の長い謝罪文より、カイル様の二文の方がずっと危険が少ない。


 もちろん、このまま公式声明にするには補足が必要だ。


 でも、芯がある。


 言葉の中心に、本人がいる。


「では、今後は取材時にそれを基本回答にしましょう」


「わかった」


「ただし、記者に『帰れ』と言いたくなった時は?」


「確認中だ。決めつけるな」


「よろしいです」


「邪魔だと思った時は?」


「確認中だ。決めつけるな」


「殴りたくなった時は?」


「そもそも殴らないでください」


 カイル様は黙った。


「黙らないでください。そこは了承してください」


「努力する」


「努力ではなく確約を」


「長い」


「確約」


「……わかった」


 私はほっと息を吐いた。


 その時、遠くからエレオノーラ様の声がした。


「リディア」


 振り向くと、彼女が回廊の端に立っていた。


 深い青のドレス。


 優雅な姿勢。


 けれど、その目は少し心配そうだった。


 私の手元の干し肉と胃薬茶を見て、彼女は一瞬だけ目を細める。


「まあ。北方式の看病ですの?」


「看病ではない」


 カイル様が即答する。


「補給だ」


「戦場扱いですわね」


「ここは戦場だろう」


「否定できませんわ」


 エレオノーラ様は私の顔を見た。


「リディア、顔色がよろしくありません」


「少しだけです」


「その『少し』は、王宮広報局基準でしょう」


「はい」


「つまり重症ですわ」


 なぜ皆さん、今日だけ私の言葉の裏を読むのが上手いのですか。


 普段からそれくらい読み取ってくれれば、王太子殿下の失言も減るのでは。


「エレオノーラ様、ミリア様の面会は延期になりました」


「ええ。聞きましたわ」


 彼女の表情が静かになる。


「神殿らしいやり方です。清らかな布をかければ、中に何があるか見えませんもの」


「はい」


「けれど、布を乱暴に剥がせば、今度はこちらが悪役になる」


「その通りです」


「厄介ですわね」


「非常に」


 エレオノーラ様はカイル様を見た。


「それで、あなたは記者に何と?」


「違う。知らん。帰れ」


 エレオノーラ様は扇を口元に当てた。


「まあ」


「今は改善しました」


 私は慌てて言った。


「確認中だ。決めつけるな」


 カイル様が言う。


 エレオノーラ様は数秒黙った。


 そして、私を見た。


「リディア。よくここまで育てましたわね」


「まだ発芽です」


「発芽」


「水やりを間違えると枯れます」


「俺は植物か」


 カイル様が低く言う。


「雪山よりは管理しやすいです」


「雪山は管理しない」


「だから困るんです」


 エレオノーラ様が小さく笑った。


 その笑いは、ほんの一瞬だけ回廊の空気を柔らかくした。


 だが、水晶板が光り、現実が戻ってくる。


 速報だ。


『辺境伯、王宮内で記者に「帰れ」発言』


 私は頭を抱えた。


「間に合いませんでした」


 カイル様が水晶板を見る。


「事実だ」


「事実でも燃えます」


 次の見出しが流れる。


『北方の沈黙、王宮の隠蔽に加担か』


 火種が見える。


【火種:北方不信】


【火種:王宮隠蔽疑惑】


【火種:辺境伯威圧印象】


【火種:ミリア被害者化】


 私は深く息を吸った。


 まだ燃えている。


 消えていない。


 でも、次の水晶掲示板には、別の投稿も流れ始めていた。


【辺境伯の追加発言:確認中だ。決めつけるな】


【短いけど正論】


【帰れは駄目だろ】


【でも記者も決めつけ質問してた】


【王都は北方の噂もちゃんと確認しろ】


【確認中だ。決めつけるな←使いやすい】


 少しだけ、流れが割れた。


 燃え方が一方向ではなくなった。


 それだけでも、今は意味がある。


 カイル様は掲示板を見ていた。


 表情は変わらない。


 でも、その目の奥にあるものは、さっきより少し深かった。


「王都は」


 彼は低く言った。


「北方の言葉を聞かない」


 その一文は、静かだった。


 怒鳴っていない。


 責めてもいない。


 ただ、長い年月をかけて凍った事実のようだった。


 私は彼を見た。


 この人は、言葉を嫌っているのではない。


 聞かれなかった言葉を、もう一度差し出すことが怖いのだ。


 差し出しても無視される。


 曲げられる。


 遅れる。


 刃になって戻ってくる。


 それなら、最初から短く閉じた方がましだと、そう思っている。


 私は、膝の上の紙を握った。


『確認中だ。決めつけるな。』


 短い言葉。


 でも、そこには入口がある。


 誰かに続きを奪われないための、最初の柵がある。


「では」


 私は言った。


「聞こえる形にしましょう」


 カイル様が私を見た。


「できるのか」


「簡単ではありません」


「長いか」


「たぶん長くなります」


「信用できない」


「では、短く始めます」


 私は赤インクを取り、紙の下に一文を書き足した。


『北方の声も、確認します。』


 カイル様は、その文をじっと見た。


 長い沈黙。


 いや、彼にしては少し長い沈黙。


 やがて、短く言った。


「それなら、聞く」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 信頼ではない。


 まだ、そこまでは遠い。


 でも、拒絶だけではなくなった。


 その時、遠くで王宮の鐘が鳴った。


 神殿からの使者到着を告げる鐘。


 ミリア様の面会延期。


 王宮への圧力疑惑。


 辺境伯の取材炎上。


 火は、次々と場所を変える。


 私は立ち上がろうとして、少しふらついた。


 すぐ横から、カイル様の手が伸びる。


 腕を掴まれた。


 強い。


 でも、乱暴ではない。


「休め」


「まだ仕事が」


「倒れる者に仕事はさせない」


 その言葉は、命令のようだった。


 けれど、不思議と優しかった。


 私は反論しようとした。


 その前に、エレオノーラ様が微笑む。


「リディア。ここで倒れたら、見出しになりますわ」


「何と?」


「炎上対応係、燃え尽きる」


「休みます」


 即答した。


 カイル様が、ほんの少しだけ目を細めた。


 笑ったのかもしれない。


 今度は、たぶん本当に。


 私は記録水晶を抱え直しながら、王宮の回廊を見る。


 神殿の使者が近づいてくる。


 記者たちの足音が遠くでざわめく。


 水晶掲示板はまだ燃えている。


 でも、今日ひとつだけわかったことがある。


 無口な人の沈黙は、空白ではない。


 そこには、誰かに勝手な物語を書かれないための傷がある。


 だからこそ、言葉が必要になる時がある。


 短くても。


 不器用でも。


 逃げていない言葉が。


 私は小さく息を吸った。


 まずは、辺境伯様に取材対応を覚えていただく。


 国家規模の炎上案件の中で、なぜ私は無口な雪山に広報研修をしているのだろう。


 前世の私に教えてあげたい。


 転生しても、研修資料からは逃げられません。


 そして、水晶掲示板には新しい投稿が流れていた。


【辺境伯、短い】


【でも今回は少しわかった】


【確認中だ。決めつけるな】


【王宮広報官、生きて】


 私は心の中で返事をした。


 はい。


 生きます。


 胃薬を飲んでから。

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