扇谷上杉と山内上杉の戦いが始まったか
さて、あれこれと動き回っているうちに、文明11年(1479年)になった。
月日が経つのは、本当に早いものだ。
弟の伊勢弥二郎も元服を済ませ、これまで幕府に出仕していた。
同じ伊勢一族の伊勢貞綱の養子として家を出て、奉公衆として京で様々な仕事を経験していたらしい。
史実では、後に足利義材の奉公衆となる人物でもある。
さすがに十五歳ともなれば、いつまでも子供扱いしているわけにもいかない。
そこで今度はこちらへ呼び寄せ、俺の下で働いてもらうことになった。
「兄上、これよりは兄上の下で働くことになりました。よろしくお願いいたします」
「うむ。こちらこそよろしく頼むぞ」
こうして、身内とはいえ俺を手伝ってくれる人間が一人増えた。
正直、助かる。
何しろ、やることが多すぎるのだ。
三島や沼津周辺の治水工事も、今も少しずつ進めている。
蛇行している河川は、可能な範囲で流れを直線に近づける。
洪水のたびに流路が大きく変われば、そのたびに田畑も道も壊されるからだ。
河川の合流地点には堤を築き、増水した水が周囲へあふれにくくする。
ただし、治水も農地改革も、一朝一夕で終わるような仕事ではない。
何年、何十年という時間をかけて、少しずつ土地を変えていくしかないだろう。
幸い、賦役の代わりに食わせている赤米は、稗や麦よりはずっと食べやすい。
今は農閑期ということもあり、工事に参加している者たちからも、今のところ大きな不満は出ていない。
そもそも、この時代の労働時間は日の出から日の入りまでが基本だ。
夜まで無理に工事を続けさせるようなことはしていない。
しかも、普通なら労役そのものが税の一種として無償で行われる。
それを考えれば、働いた分の食い扶持まで出るこちらのほうが、条件としてはかなり良い。
もちろん、だからといって無理をさせるつもりもない。
人間、腹が減れば不満が溜まる。
疲れれば仕事の効率も落ちる。
結局のところ、長く働いてもらいたいなら、ちゃんと食わせたほうが得なのだ。
そんな日々の中で、生まれた子供たちも無事に育っている。
長男の千代丸も、数えで二歳になった。
実際には、ようやく一歳と少し。
それでも最近は、よちよちと歩けるようになってきた。
「ととしゃ!」
「うむ、千代丸。これからも無事、健やかに育つのだぞ」
「あー!」
……まあ、まだまともに意思の疎通ができているとは言い難い。
それでも、俺の顔を見ると笑ってくれる。
それだけで十分だった。
こういう何気ない日々が、いつまでも続いてくれればいい。
――もっとも、世の中は俺の都合など待ってはくれない。
前将軍である足利義政は、正式に今川龍王丸の家督相続と遠江・駿河守護の継承を認め、本領を安堵する内書を出してくれた。
龍王丸が元服するまで、あと四年ほど。
それまでは正式な当主として振る舞えないとはいえ、元将軍である義政の内書があるのとないのとでは、周囲への説得力がまるで違う。
今川家にとっても、俺にとっても大きな意味を持つ文書だ。
だが――。
その一方で、関東の情勢はますますきな臭くなっていた。
相模と武蔵南部を拠点とする扇谷上杉定正。
そして、関東管領である山内上杉顕定。
この両者の対立は、もはや修復できないところまで深まっている。
しかも、面倒なのはそれだけではない。
扇谷上杉家の重臣である相模三浦氏でも、内紛が起きていた。
三浦氏の当主であり、扇谷上杉定正の実兄でもある三浦高救は、養父である三浦時高との関係から、実子の三浦義同へ家督を譲った。
ところが――これに三浦時高が激怒した。
結果として、高救も義同も三浦氏から追放されることになる。
上杉両家が争っているだけでも厄介だというのに、その配下まで揉め始めている。
関東の情勢は、本当にややこしい。
そして山内上杉顕定は、実父である越後守護上杉房定、さらに実兄の上杉定昌らとともに、扇谷上杉家に通じた長尾房清を攻撃。
その勢いのまま、上杉定正の本拠である相模の糟谷館を制圧しようとしているらしい。
ここで、さらに話をややこしくするのが土地の帰属問題だ。
長尾景春の乱の際、太田道灌が奪い取った土地の多くは、もともと山内上杉家の勢力圏だった。
山内上杉家からすれば、
『元々うちの土地なのだから返せ』
という話になる。
一方、扇谷上杉家からすれば、
『長尾景春の乱で山内上杉が失った土地を、こちらが戦って取り戻したのだから、こちらのものだ』
となる。
要するに――。
どちらも、自分たちの土地だと思っているわけだ。
当然ながら、そんな主張がぶつかれば話し合いで済むはずもない。
そんな状況の中、俺のところへ扇谷上杉定正から救援要請が届いた。
「で、俺には上杉定正の救援要請が来ているわけだ」
俺がそう言うと、大道寺重時が頷いた。
「糟谷館を落とされれば、そのまま西へ勢力を伸ばしてくる可能性もありますな」
糟谷館は、現代でいえば伊勢原市あたり。
「まあ、救援は出すべきだろうな」
俺も頷く。
「下手をすれば、相模の戦火が伊豆や駿河まで飛び火する。そうなれば、三島の民まで巻き込まれかねない」
相模で戦が起こるだけなら、まだいい。
だが、その戦火が東海道へ広がるとなれば話は別だ。
ようやく安定し始めた駿河と伊豆を、また戦乱に巻き込みたくはない。
「しかし、扇谷定正殿は河越にいるはずですが……あちらは、そのことを知らないのでしょうか」
風魔小太郎が口を挟んだ。
「そこなんだよな」
俺も地図を見ながら頷く。
「定正が河越にいることを知った上で、本拠を攻めているのか。それとも、本当にいないことを知らないのか」
前者なら、かなり計画的な攻撃だ。
後者なら、それはそれで問題だ。
山内上杉側の情報収集が、そこまで機能していないということになる。
どちらにせよ――こちらとしては見逃せない。
「兵は五百から千も出せば十分だとは思うが」
俺がそう言うと、弥二郎が首を傾げた。
「援軍を出して戦ったら、何かくれるのかな?」
「…………」
部屋の中が、しんと静まり返った。
そして、俺も思わず黙り込む。
……まあ、言っていることはもっともだ。
兵を出す以上、こちらにも相応の負担がある。
普通なら、見返りもなしに兵を動かすなんて話にはならない。
「それは、正直なところまだ分からんな」
俺は苦笑しながら答えた。
「陣所や、そこでの食い物くらいは、流石に用意してくれるとは思うが」
「それに――」
小太郎が静かに口を開く。
「相模の情報を集めるには、良い機会でもございますな」
「……そうだな」
俺は頷いた。
今回の援軍は、単純に上杉定正を助けるためだけのものではない。
兵を出せば、現地に人を送り込める。
兵を動かせば、道の状態も分かる。
敵味方の兵力も分かる。
どこの国人がどちらにつき、誰がどれだけの兵を動かせるのかも見えてくる。
そして何より――。
相模の情勢を、こちらの目で直接確認できる。
上杉家の内部は、かなりボロボロになっている。
いずれは相模や武蔵へ手を伸ばすことになるだろう。
だが、それは今すぐという話ではない。
今はまだ、駿河と伊豆を安定させるほうが優先だ。
だからこそ、焦る必要はない。
今のうちに情報を集めておけばいい。
どこに誰がいるのか。
どの国人が誰に従っているのか。
どの道が使えるのか。
どこに兵糧を集められるのか。
そして――誰が裏切りそうなのか。
俺は地図へ目を落とした。
「援軍を出すついでに、相模を見てこよう」
戦うだけが目的ではない。
敵の内情を知ることも、戦そのものと同じくらい重要だ。
「焦って領土を取りに行く必要はない」
俺は静かに呟いた。
「相手が勝手に弱っていくのなら――こちらは、その弱り方を見極めればいい」
関東の争いは、まだ終わらない。
むしろ――ここから、さらに酷くなっていく。
ならば俺たちは、その隙間から少しずつ情報を拾っていけばいい。
焦る必要はない。
戦乱が長引けば長引くほど、見えてくるものも増えてくる。
そしていつか、相手が自ら作り出した隙を――こちらが利用すればいいのだから。




