まずは安定を優先させつつ災害の備えなどもしておかねばな
さて、姉上との話し合いの結果、当面は遠江・駿河・伊豆の安定に力を注ぐことになった。
俺としては、正直ほっとしていた。
これまで備中荏原荘や京、大坂などでは、伊勢家という名前を出せば、それなりに話を通すことができた。
朝廷の命である。
将軍家の意向である。
伊勢家の者である。
そう言えば、相手もこちらの立場を無視するわけにはいかなかったからだ。
だが、駿河の守護代を排除し、さらに伊豆の堀越公方まで打倒するという命を受けて、実際に現地へ乗り込んでみてようやく理解した。
血筋や肩書きだけでは、国を動かすことはできない。
最終的には、相手にとってこちらに従うだけの利益があるのか。
そして、従わなかった場合にこちらがどれだけの力を行使できるのか。
その二つを示さなければならない。
俺は今まで、その当たり前のことを理解していなかったのだ。
「今更だけど、俺が京で好き勝手できたのは、伊勢家という血筋の看板があってのことだったわけだな」
俺がそう言うと、大道寺重時は呆れたように笑った。
「何だ。お前さん、今頃気がついたのか?」
「ああ。実際、かなり驕っていたと思うよ」
俺は苦笑する。
「伊豆で色々とうまくいかないことがあって、ようやく気がついた」
「まあ、それに気がついたのならいいじゃないか」
大道寺は腕を組みながら頷いた。
「気がつかないまま突っ走っていたら、堀越公方や太田道灌と同じことになっていた可能性も高いからな」
「……確かにな」
権威がある。
実績がある。
だから自分の命令は通る。
そう思い込んでしまえば、現地の人間が何を考えているのかを見落とすことになる。
そして、一度こじれれば、最後に物を言うのは結局のところ兵力だ。
俺がそんなことを考えていると、風魔小太郎が口を開いた。
「我々風魔にとっては、それがありがたかったとも言えますが」
「まあ、それは否定しない」
俺は苦笑した。
「だが、これからも差別をするつもりはないさ」
「そう願いたいものです」
小太郎は淡々と答えた。
その言葉に、俺は少しだけ居心地の悪さを感じる。
風魔を麾下に加えたことで、俺自身の考え方も少しずつ変わってきた。
世間からどう見られているかと、実際に何ができるのかは別問題なのだ。
そんなことを考えながら、俺は話題を変えた。
「そういえば、すぐにというわけではないが、大きな地震や野分への備えもしておくべきだな」
俺がそう言うと、大道寺は重々しく頷いた。
「確かにな。遠江・駿河・伊豆のように海と面している国では、湊が高潮や津波に襲われれば被害は馬鹿にならん」
「ああ」
俺も頷く。
「しかも駿河や伊豆は、米を大量に作って国を支えられるような土地でもない」
「上方からの下りものを含めた交易によって、経済が潤っている部分が大きいからな」
湊が潰れれば、単純に漁師や船が被害を受けるだけでは済まない。
物資の流れそのものが止まる。
そして、俺には一つ、どうしても頭から離れない災害があった。
明応七年――一四九八年に発生する、明応大地震だ。
史実では紀伊半島から房総半島に至る広い範囲で被害を出した巨大地震。
そして、この地震で特に恐ろしいのが津波だった。
場所によっては十メートルにも達したとされる津波が太平洋沿岸を襲い、遠州灘に近い遠江、駿河、そして伊豆半島西岸にも甚大な被害をもたらしたはずだ。
しかも、津波で最も危険なのは湊である。
海と人が集まる場所なのだから、被害が集中するのは当然だ。
船が流される。
倉が壊れる。
道が寸断される。
そして何より――人が死ぬ。
「建物なら、最悪の場合は建て直せばいい」
俺は呟いた。
「でも、人はそういうわけにはいかない」
だからこそ、今のうちから避難場所を作っておく必要がある。
海沿いの集落から、いざという時に逃げ込める高台。
そこへ続く道。
そして、避難した人間が数日、あるいはそれ以上過ごせるだけの食料。
災害そのものを防ぐことはできない。
ならば、被害を受けた後にどれだけ人を生き残らせられるかを考えるしかない。
「高台に避難場所を用意するだけじゃ足りないな」
「食料か」
「ああ」
俺は頷いた。
「避難した人間が飢えれば、元からそこに住んでいた連中と揉める。そうなれば、災害を生き延びても別の問題が起きる」
災害というのは、地震や津波が収まれば終わりというものではない。
その後に飢えが来る。
病が来る。
物資の不足が来る。
そして、生き残った人間同士の争いが起きる。
そこまで考えておかなければならない。
「山間部で焼畑を行って、稗などを栽培して貯蔵できるようにするか」
俺は腕を組んだ。
「貯めたら貯めたで、今度は鼠対策をどうするかという問題も出てくるだろうけどな」
すると、小太郎が口を開いた。
「いざという時に飢えずに済むのであれば、それに越したことはございませぬ」
「ああ。確かにその通りだ」
伊豆の山間部は、農業をするには決して恵まれた土地ではない。
山地と谷が多く、場所によっては日照時間も短い。
水は豊富だが、山から流れ出る水は冷たく、水田を作るには向かない場所も多い。
だからこそ、米だけに頼るわけにはいかない。
幸い、伊豆の山間部なら焼畑という手段がある。
粟、稗、蕎麦、大豆、小豆、大麦など、米以外の作物を育てることは十分に可能だ。
もちろん、米のように炊けば食べられるわけではない。
粉にしたり、加工したりする必要があるから、その分だけ手間は増える。
だが、その手間を惜しんで飢えるよりは遥かにいい。
「水車小屋を作って、脱穀や製粉を水力でやらせるのもいいかもしれないな」
「水車ですか」
「ああ。人手だけでやるよりは楽になるだろう」
幸い、伊豆には山が多い。
つまり、川も多い。
ならば水力を利用しない手はない。
災害への備えは、単に倉に米を積んでおけば終わりではない。
普段から食料を生産し、加工し、保存する仕組みそのものを作っておく。
それが一番確実なのだろう。
ちなみに、焼畑というと、山を焼き尽くして後には荒れ地だけが残る――そんな印象を持つ人間も多い。
だが、実際には必ずしもそうではない。
木々を伐り、焼いた土地を耕作に使う期間は長くない。
数年使った後は植林して森へ戻し、別の場所へ移る。
つまり、一定の場所を休ませながら循環させるのだ。
伐った木も無駄にはしない。
薪にする。
炭にする。
建材として使う。
焼畑は、やり方さえ間違えなければ、山を完全に禿げ山にしてしまうような農法ではない。
むしろ、山の資源を利用しながら農地を確保するための一つの方法なのだ。
だから俺は、さっそく動くことにした。
「ともかく、災害時には普段から高台へ逃げられるようにしておこう」
俺は大道寺と小太郎に向かって言った。
「国人たちにも伝えてくれ。海沿いの村には避難場所を決めさせて、そこへ食料を備蓄する」
「承知した」
「それから、俺の直轄領では代官にやらせる」
「下田などですな」
「ああ。湊の近くほど念入りにな」
建物は壊れても建て直せる。
湊だって、時間をかければ復旧できる。
だが、死んだ人間は戻ってこない。
だからこそ、俺はまだ何も起きていない今のうちに手を打つことにした。
まずは修善寺周辺の山野で焼畑を始める。
そこで穀物を生産し、保存する。
水車を利用できる場所には水車小屋を作り、脱穀や製粉の負担も減らす。
そして海沿いには、逃げ込める高台と備蓄場所を整備する。
明応七年まで、まだ時間はある。
ならば、その時間を使わない理由はない。
――災害は、備えているからといって起こらなくなるわけではない。
だが。
備えていれば、死なずに済む人間は確実に増える。
俺はそう考えながら、伊豆の地図を広げたのだった。




