↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
なぜか北条早雲こと伊勢盛時になってしまったが、大樹の無茶振りがひどすぎて正直しんどい  作者: 水源
文明9年(1477年)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/172

日本全国における現状をまとめてみようか

 さて。


 室町幕府というのは、平家や鎌倉幕府、江戸幕府と比べると、実に妙な政権である。


 何年に滅亡したのか。


 これを一言で答えろと言われると、意外と難しい。


 平家なら、元暦二年/寿永四年(一一八五年)の壇ノ浦の戦いで平家が敗れたことを、滅亡の象徴として扱えばいい。


 鎌倉幕府なら、元弘三年/正慶二年(一三三三年)に六波羅探題、鎌倉、そして鎮西探題が相次いで陥落し、北条氏が滅亡した時点を挙げればいい。


 江戸幕府なら、慶応三年(一八六七年)の大政奉還から始まり、翌慶応四年/明治元年(一八六八年)に勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城が明け渡されたことを、幕府の終焉と見ることができる。


 ところが室町幕府は、そう簡単にはいかない。


 一般的には、元亀四年(一五七三年)。


 織田信長によって十五代将軍・足利義昭が京都から追放されたことで、室町幕府は滅亡したとされている。


 現代人の感覚からすれば、それでいい。


 京都から将軍が追い出された。


 幕府の実権はなくなった。


 だから幕府は滅亡した。


 実に分かりやすい。


 だが――当時の人間からすれば、必ずしもそうではない。


 足利義昭は、その後も征夷大将軍を解任されたわけではない。


 そして天正十六年(一五八八年)には、関白・豊臣秀吉に従って参内している。


 つまり、形式上ではあるが、それまで将軍であり続けたわけだ。


 要するに室町幕府というのは、


「いつの間にか実体がなくなっていた政権」


 と言ったほうが近いのかもしれない。


 そもそも、三代将軍・足利義満の時代ですら、本当に日本全国を幕府が直接支配していたのかと言われると微妙なところがある。


 守護を通じた間接的な支配。


 将軍の権威。


 朝廷との関係。


 そして有力守護大名同士の力関係。


 そういったものの上に成り立っていたのが室町幕府だ。


 だから、守護大名が将軍の命令を聞かなくなれば、幕府の力は一気に弱くなる。


 実際、十二代将軍・足利義晴も、十三代将軍・足利義輝も、近江へ逃れる羽目になったことがある。


 そして応仁の乱以降になると、その傾向はさらに酷くなった。


 幕府が持っている実力は、せいぜい山城国内で何とか通用する程度。


 それでも「将軍」という肩書きだけは残っている。


 そんな状態だった。


 そして応仁の乱は、その室町幕府の弱体化を決定的なものにした。


 何しろ、あれだけ大規模な戦争をやったというのに、明確な勝者がいない。


 東軍も西軍も完全勝利には至らなかった。


 将軍も朝廷も、諸大名を完全に従わせるだけの力を持っていなかったからだ。


 その結果、各地の守護や国人たちは、


「幕府の裁定を待つ」


 という考え方を捨て始めた。


 それを象徴するのが、将軍・足利義政の有名な言葉だ。


 ――諸国の御沙汰は毎事力法量。


 要するに、


「土地争いなんて、もう自分たちで力ずくで決めろ」


 ということである。


 ……いや、将軍がそれを言ってしまったら駄目だろう。


 幕府が土地争いを裁定するからこそ、幕府の存在意義がある。


 その役割を自ら放棄してしまえば、


「では、何のために幕府があるのか」


 という話になる。


 結果として、守護は守護代に土地を奪われる。


 守護代は国人に押し込まれる。


 国人は隣の国人と争う。


 そして守護そのものも、明確に任命されない地域が増えていく。


 こうして日本全国は、少しずつ「幕府の命令」ではなく「自分の兵力」で動く世界へ変わっていった。


 では、現在の日本がどうなっているのか。


 一度整理してみよう。


 まず九州。


 ここは大内氏の影響が非常に強い。


 豊後・筑後守護の大友政親は、大内教弘の娘を妻としていることもあって西軍に属し、京へ兵を出していた。


 肥前の少弐家はさらに複雑だ。


 少弐教頼は嘉吉の乱の首謀者である赤松満祐の弟・則繁を匿ったことで幕府から追討を受け、一時は対馬へ逃亡することになった。


 その後、舅である宗貞盛が上洛して細川勝元に赦免を願い、ようやく肥前へ戻ることができた。


 だが、大内教弘や九州探題の渋川教直との戦いでは苦戦。


 そして応仁の乱が起こると東軍の細川勝元に通じて大宰府を攻めたものの敗北し、自害した。


 家督を継いだ弟の少弐政資は筑前・豊前を奪回したものの、今度は対馬の宗氏との関係が悪化。


 そこへ大内政弘まで北九州への侵攻を再開した。


 つまり少弐家は、再びかなり苦しい。


 肥後の菊池重朝も東軍に属し、筑後方面への勢力拡大を狙ったが、こちらも思うようにはいかなかった。


 一方、薩摩・大隅では島津立久が支配を固めている。


 日向の伊東祐堯とは和睦して婚姻関係を結んだことで日向への影響力は低下したものの、その分、薩摩・大隅の経営に集中できた。


 応仁の乱でも名目上は東軍だったが、細川勝元からの出兵要請は拒否。


 さらに島津の分家である豊州家の島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。


 つまり島津は、


「どちらが勝っても家は残る」


 という構えを取ったわけだ。


 ……この時代の大名としては、非常に正しい判断だと思う。


 ただし、島津領にも問題はある。


 文明三年(一四七一年)。


 桜島が大規模な噴火を起こした。


 降灰による農地への被害は大きく、その後の領国経営を苦しくし、やがて島津一族の分家同士の争いを誘発することになる。


 九州だけ見ても、既に幕府がどうこう言っている場合ではない。


 各家が自分たちの生き残りを考えて動いている。


 そして中国地方。


 ここでは大内政弘が周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見を支配下に置き、巨大な勢力を築いている。


 だが、その大内家も決して一枚岩ではない。


 政弘が上洛している間に大内教幸が反乱を起こし、それを陶弘護が鎮圧した。


 その結果、陶弘護の発言力が大きくなり、政弘との対立が深まっている。


 つまり大内家も、


「外には強いが、内部に火種がある」


 という状態だ。


 出雲では、佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家である尼子清定が山名氏の侵攻を撃退した。


 そして、その勝利をきっかけに独立色を強めている。


 山陰の山名氏も安泰ではない。


 西軍総大将だった山名宗全の後継者・山名政豊は、赤松政則の支援によって分家領国で相次ぐ反乱の鎮圧に追われている。


 因幡守護・山名豊時や伯耆守護・山名政之を助け、何とか領国を安定させたものの、東軍についた山名是豊が失態を演じて追放されると、今度は備後や安芸の国人たちまで離反。


 かつての山名氏の勢力は大きく縮小している。


 播磨・美作・備前の赤松政則も、分家の反乱に悩まされている。


 しかも中央政界では、将軍・足利義尚と、その母である日野富子、そして大御所となった足利義政の対立に巻き込まれている。


 義政の寵臣だったことが、むしろ政則の足を引っ張っている状態だ。


 四国と淡路は細川一族の勢力圏だが、土佐や伊予まで完全に支配できているわけではない。


 丹後では一色氏と、若狭では武田氏と、それぞれ争いが続いている。


 摂津・和泉・丹波は細川一族が押さえているものの、河内・大和では畠山義就が勢力を伸ばし、紀伊では畠山政長との争いが続いている。


 東へ目を向ければ、越前では朝倉孝景が勢力を拡大。


 斯波義寛や甲斐敏光らは越前を奪い返そうとしているが、現状では朝倉側が有利だ。


 北近江では京極氏の家督争い――いわゆる京極騒乱が続いている。


 南近江では六角高頼が着々と足場を固めている。


 美濃では斎藤妙椿が多くの荘園を押領し、主家である土岐氏を凌ぐほどの勢力を築いている。


 尾張では斯波義廉と、その守護代だった織田敏広が支持勢力を失った。


 代わって守護代となったのが織田敏定。


 清洲を本拠とする織田大和守家が勢力を伸ばし、かつて本家筋だった岩倉の織田伊勢守家を上回る勢力を持つようになっている。


 伊勢に至っては、もはや群雄割拠。


 誰が「守護だから」と言って周囲を従わせられる状況ではない。


 飛騨では京極氏の被官である三木重頼と、山科家の代官である姉小路勝言・基綱らが争っている。


 加賀では富樫政親と弟の幸千代が家督を争った。


 幸千代は真宗高田派の門徒や甲斐敏光らを味方につけ、政親を加賀から追放することに成功。


 しかし政親も本願寺派の門徒らの支援を受けて、奪回を狙っている。


 越中では、畠山政長の守護代である神保長誠が、能登守護・畠山義統の攻撃を防ぎ続けている。


 信濃では小笠原氏と諏訪氏を中心に内乱が続いている。


 ……ここまで来ると、もはや「室町幕府の地方統治」という言葉自体が冗談に思えてくる。


 そして東海道。


 三河では細川氏と一色氏が撤退した隙を突き、吉良氏の内紛に乗じて松平氏が勢力を伸ばしている。


 遠江と駿河は今川家が支配。


 そして伊豆は――俺の支配下にある。


 関東では、相模と武蔵南部を扇谷上杉氏。


 越後・上野・武蔵北部を山内上杉氏。


 下総を千葉氏。


 安房を里見氏。


 上総は国人たちが群雄割拠。


 下野や常陸にも宇都宮氏や佐竹氏といった有力者はいるものの、国人たちが入り乱れている。


 さらに奥羽へ行けば、関東以西の騒乱とは比較的無縁。


 中央の政争もほとんど影響していない。


 出羽では斯波氏の分家である最上氏。


 陸奥では同じく斯波氏の分家である大崎氏。


 この二家が、それぞれ探題として大きな勢力を持っている。


 そして伊達成宗も、ここへ来て着実に勢力を伸ばしつつある。


 ――こうして並べてみると、実に分かりやすい。


 日本全国、どこもかしこも争っている。


 守護が守護代に負け。


 守護代が国人に押され。


 国人が隣の国人と争う。


 その一方で、守護家の分家が独立し、大名家の家臣が主家を凌ぎ、宗教勢力まで武力を持って介入してくる。


 そして、それを止めるはずの室町幕府は――止める力を失っている。


「……なるほどな」


 俺は改めて日本地図を眺めた。


 室町幕府が滅亡したのは、織田信長が足利義昭を京都から追放した時ではない。


 少なくとも、実質的な意味ではもっとずっと前から始まっていた。


 応仁の乱。


 そして足利義政による、


 ――諸国の御沙汰は毎事力法量。


 あの言葉。


 あれこそが、室町幕府の終わりを象徴していたのではないだろうか。


 幕府が裁定しない。


 将軍が決めない。


 朝廷も決められない。


 ならば、最後に物を言うのは何か。


 ――兵力だ。


 ――財力だ。


 ――そして、自分の領地を自分で守る力だ。


 そう考えるなら、今の日本はまだ「戦国時代が始まった」のではない。


 もう、とっくに始まっている。


 ただ誰も、それを正式に認めていないだけなのだ。


 そして俺は、その戦国時代のど真ん中で伊豆を手に入れた。


「……さて」


 俺は地図から目を離した。


「次は、どこまで取るかだな」


 室町幕府が力を失った今。


 俺たちが生き残るためには、こちらも力を持つしかない。


 そして――。


 どうせ力を持つのなら、少しでも暮らしやすい国を作ったほうがいい。


 俺はそう考えながら、次の一手を考え始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。