この頃の三河は守護不在で面倒なことになっている
さて、伊豆半島を制圧した。
これで俺は、ようやく少しばかり気楽な生活ができるようになった――。
……と思っていた。
「はあ……。伊豆も押さえたし、これでしばらくは釣りでもしながら温泉に入って、のんびり過ごせると思ったんだけどな」
俺がため息をつくと、大道寺重時が苦笑した。
「そりゃ無理だろう。お前さん、自分で朝比奈泰煕を遠江の掛川城へ送り込んだじゃないか」
「まあ、それはそうなんだが……」
俺は腕を組んで唸る。
「もともと今川上総介――義忠がやっていたことを引き継いだだけなんだけどな」
「その前に、小鹿範満を担ぎ上げた連中もいただろう」
風魔小太郎が淡々と指摘する。
「……それもそうか」
今川義忠が討ち死にしたことで、今川家の家督争いが起きた。
俺たちは最終的に龍王丸を擁立する側に回ったが、当然ながら最初から全員が龍王丸を支持していたわけではない。
小鹿範満を担いだ者たちもいたのだ。
「とはいえ、小鹿範満を討つ前に朝比奈泰煕はこちら側についているんだがな」
「それでも、最初から龍王丸を支持していた連中からすれば面白くはないだろうな」
重時の言葉に、俺も頷いた。
小鹿範満は、血筋だけを見れば決して軽い存在ではない。
今川範政の孫であり、その父・範頼は、かつて範政から今川家の家督を継ぐことを望まれていた。
だが、兄である今川範忠との家督争いの末、室町幕府の裁定によって家督を継いだのは範忠だった。
つまり小鹿範満の家系にも、「自分たちこそ今川の嫡流に近い」という意識があってもおかしくない。
だからこそ、龍王丸を支持する者たちからすれば厄介だった。
本来なら今川一門衆として同格に近い立場の者が、幼い龍王丸を差し置いて当主になろうとしたのだから。
しかも、俺が駿河へ派遣された理由も、単なる今川家内部の揉め事を収めるためだけではない。
今川家が関東からの防壁として機能しなくなれば、室町幕府にとっても大問題だった。
だからこそ、俺は駿河へ送り込まれた。
そして、その結果として伊豆まで手に入れたわけだ。
「……そう考えると、俺もずいぶん遠くまで来たものだな」
「感慨に浸るのは構わんが、問題はこれからだ」
小太郎が水を差す。
「遠江だけではない。三河も相模も、まだまだ不穏な動きを見せております」
「分かってるよ……」
俺は肩を落とした。
特に面倒なのが三河だ。
そもそも三河は、今の情勢では誰が支配しているのかすら簡単には言い切れない。
細川氏が守護を務めていたものの、備中などと同じく遠く離れた飛び地の守護領国を維持するのは難しい。
応仁の乱が始まれば、それはなおさらだった。
実際、三河守護代を務めていた東条国氏も、その混乱の中で命を落としている。
東条国氏は応仁の乱が始まると、三河の軍勢を率いて上洛。
相国寺の戦いでは、畠山政長とともに一色義直の軍勢を攻撃している。
だが、状況はあまりにも悪かった。
尾張と遠江は西軍の斯波義廉の勢力圏。
美濃も西軍側。
さらに一色義直の弟・一色義遠までが、領国である尾張知多郡に兵を集めて三河侵攻を狙っていた。
東条国氏は今川義忠と同じく、三河を確保するために下向することになった。
だが――。
結果は、敗北。
東条国氏は自害し、一色勢も細川方の反撃によって三河を維持できず撤退した。
そして、その後。
三河では守護そのものが任命されなくなった。
吉良氏の内紛も続き、その混乱の隙間から松平氏が勢力を伸ばし始める。
「……つまり、三河は今後さらに面倒になる可能性が高い、と」
「その通りですな」
小太郎が頷く。
「嫌な話だなぁ……」
俺は天井を見上げた。
伊豆を制圧した。
これで少しは落ち着けると思った。
ところが現実はどうだ。
東では相模が不穏。
西では遠江が不穏。
さらにその先の三河まで怪しい。
「俺、別に三河まで欲しいわけじゃないんだけどな……」
思わず本音が漏れる。
「ならば関わらなければよろしいのでは?」
小太郎がもっともらしく言った。
「それができるなら苦労しないんだよ」
俺は即座に言い返した。
そもそも、三河は東海道の要衝だ。
遠江を押さえれば、当然その先も無関係ではいられない。
しかも、三河が混乱すれば、その隙を狙う勢力が必ず出てくる。
そして、そんな連中が動けば――。
こちらも動かざるを得なくなる。
「……結局、伊豆を取ったくらいじゃ休めないってことか」
「最初からそう言っているだろう」
重時が呆れたように笑った。
「まあ、そうなんだけどさ」
俺は深々とため息をついた。
せっかく温泉のある伊豆まで手に入れたというのに。
俺が温泉でのんびりできる日は、まだまだ先になりそうだった。




