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なぜか北条早雲こと伊勢盛時になってしまったが、大樹の無茶振りがひどすぎて正直しんどい  作者: 水源
文明9年(1477年)

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閑話:日野富子と細川政元のそれぞれの思惑

 日野富子は、伊豆から届けられた書状を読み終えると、思わず笑みを浮かべた。


「ほう……ようやくか」


 書状に記されていたのは、嬉しい知らせだった。


 伊勢盛時に嫁いだ、兄・日野重政の養女である姪が懐妊したという。


 富子にとっても、決して他人事ではない。


 日野家は本来、名門公家の家柄であり、その極官は大納言。


 だが、足利将軍家との縁を深めた兄・重政は、ついには従一位左大臣にまで昇った。


 もっとも――その兄も、すでにこの世にはいない。


 文明八年(一四七六年)。


 応仁の乱の余波が未だ京を覆う中、重政は薨去した。


 そして今や、将軍・足利義政と富子の夫婦仲は冷え切っている。


 そのため、将軍の実母である富子は、実質的に幕府を動かす立場にまでなっていた。


 とはいえ。


 富子一人の力で幕府を動かせるわけではない。


 細川。


 伊勢。


 赤松。


 そうした有力者たちの協力があってこそ、富子の権勢は維持されている。


 とりわけ伊勢との繋がりは、富子にとって重要だった。


 山城における伊勢一族の影響力は強く、さらに摂津国東成郡にある生玉荘も伊勢一族が管理している。


 生玉荘は、農地としてだけではない。


 大坂湾へと繋がる交通と交易の要衝でもある。


 それだけではない。


 幕府直属の軍事力である奉公衆も、その主力を伊勢一族が押さえている。


 だからこそ――。


 伊勢盛時と日野家との縁が深まることは、富子にとって悪い話ではなかった。


「それで、そなたはどう思う?」


 富子が書状を渡すと、向かいに座っていた細川政元が目を通した。


 しばらくして、政元は書状から顔を上げる。


「……おめでたいことにございますな」


「そうであろう?」


 富子は嬉しそうに頷いた。


「古河公方との和平も成立した。関東の争いも、一応は収まっている。ならば伊勢駿河守には京へ戻ってきてもらうべきではないかと思うのだが」


 だが。


 政元は静かに首を横へ振った。


「それについては、まだ時期尚早かと」


「ほう?」


「理由は二つございます」


 政元は指を一本立てた。


「一つ目は、今川龍王丸です」


「……龍王丸か」


「はい。まだ元服しておりませぬ」


 伊勢盛時は今川龍王丸の後見人として駿河にいる。


 その盛時が京へ戻れば――。


「今川は、また割れるやもしれませぬ」


「だが、龍王丸の母である北川殿もいる」


「それだけでは足りぬでしょう」


 政元は即座に答えた。


「今川家は一度、家督を巡って大きく揺らいでおります。伊勢駿河守が駿河にいるからこそ、諸勢力も迂闊には動けぬのです」


「……なるほど」


 富子は書状を手元へ戻した。


「そして二つ目は?」


「関東です」


 政元の声が少し低くなる。


「山内上杉と扇谷上杉の間には、すでに不穏な空気が流れております」


「……関東の争いは終わっていない、と?」


「はい」


 政元は頷いた。


「長尾四郎左衛門尉も、古河公方も、今は息を潜めているだけと考えたほうがよいでしょう」


「……いつまで経っても、関東の戦は終わらぬのだな」


 富子が小さく嘆息する。


 政元は、それに答えるように言った。


「そして、もし関東勢が再び西へ向かうのであれば――」


 政元は地図へ視線を落とした。


「冬に雪で閉ざされる東山道や北陸道ではなく、東海道を使うでしょう」


「……箱根か」


「はい」


「足柄もだな」


「その通りです」


 政元は頷いた。


「ゆえに箱根と足柄を押さえる者は、今後も必要になります」


「ならば、代わりの者を派遣すればよいではないか」


「それが難しいのです」


 政元は苦笑した。


「今川龍王丸の母、北川殿と血縁関係にある伊勢駿河守だからこそ、あの地を任せられる」


「……それも道理か」


 富子は納得したように頷いた。


 しかし。


 政元はさらに続けた。


「それに――」


「まだ何かあるのか?」


「伊勢駿河守は、“神憑り”だという噂もございます」


 富子の眉が僅かに動いた。


「……その噂か」


「あの者には天神や御霊が憑いている、と京雀たちが面白半分に囁いております」


「聞いてはいる」


 富子は苦笑した。


「だが、神憑りの者ならば京へ戻せぬというのも妙な話ではないか?」


「そうでしょうか?」


「ならば、京の復興を進め、朝廷へ銭を納め、途絶えている宮廷行事まで復活させようとする理由も説明できぬ」


 富子の言葉に、政元は少しだけ黙った。


「……そこまでは、私にも分かりませぬ」


「だろうな」


「ただ――」


 政元は顔を上げた。


「日野家が没落せずに済んだのは、御霊合戦に参加しなかったからだ、という噂もございます」


「京雀は好き勝手を言うものだ」


「ですが、噂には噂なりの使い道もございます」


「……なるほど」


 富子は政元の言葉の意味を察した。


 政元が恐れているのは、神そのものではない。


 **伊勢盛時という男そのものだ。**


 応仁の乱を実質的に終息へ導き。


 駿河をまとめ。


 遠江を奪還し。


 伊豆まで制圧してみせた男。


 しかも、その背後には今川家があり、日野家との縁もある。


 それが京へ戻れば――。


「しかし」


 富子はふと思ったように言った。


「少なくとも、私の姪を含め、あの者に嫁いだ女たちの身に何かあったという話は聞いておらぬぞ?」


「それは確かに」


「むしろ伊豆でも、寺社の復興を積極的に行っているというではないか」


「そのようですな」


「……神憑りにしては、妙に真面目な男だ」


 富子がそう言うと、政元も苦笑した。


「だからこそ、厄介なのです」


「ふむ?」


「狂人ならば、恐れる必要はありません」


 政元の声から笑みが消えた。


「しかし、伊勢盛時は狂人ではない。むしろ逆です」


 富子は黙って政元を見る。


「有能です」


 短い言葉だった。


 だが、その一言には政元の警戒がすべて込められていた。


「政治にも長け、戦にも強い。しかも応仁の乱を実質的に収めた実績まである」


 政元は淡々と続ける。


「そんな男が京へ戻ってきたら、どうなると思われます?」


「……伊勢がさらに強くなる」


「その通りです」


 政元は地図へ目を落とした。


「河内、大和、紀伊では、未だ畠山が争っている」


 斯波は遠江と越前を失い、尾張でも家中の争いが続いている。


「そんな彼らよりも――」


 政元は、京と大坂を押さえ、家中の大きな内紛もなく、一族の結束を保っている伊勢のほうがはるかに恐ろしい。


「伊勢と畠山の小競り合いが、伊勢による河内・大和・紀伊の制圧へ繋がる可能性もございます」


「……細川にとって、それは看過できぬな」


「はい」


 政元は静かに頭を下げた。


「ならば――」


 富子は手元の書状へ視線を落とした。


 そこには、姪の懐妊を喜ぶ言葉が並んでいる。


 本来ならば、すぐにでも京へ呼び戻したい。


 だが――。


「しばらく、伊勢駿河守には伊豆にいてもらうか」


「その方がよろしいかと」


「……せっかく姪が子を身籠ったというのに、夫には戻ってくるなと言わねばならぬとはな」


 富子は苦笑した。


 だが政元は笑わなかった。


「今は、それが最も安全でしょう」


 ――伊勢盛時は、まだ京へ戻ってはならない。


 それが細川政元の結論だった。


 そして政元自身も、まだ気づいていない。


 伊豆に留め置かれたその男が、京から遠ざけられたことによって――。


 **むしろ京の政争から自由になり、さらに大きな力を蓄え始めることを。**

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