伊豆にせよ遠江にせよそう簡単には行かなそうだ。
さて、伊豆を奪取する前に遠江を奪還してほしい。
今川庶流や遠江今川氏から繰り返し寄せられていた訴えを受け、俺はひとまず朝廷へ遠江守護の今川家への交替を上奏してみた。
だが――。
やはり、そう簡単にはいかなかった。
日野家からすれば、関東の騒乱を鎮める役に立ちそうもない斯波家から今川家へ遠江守護を替えること自体には、さほど問題はないらしい。
細川政元も同じだ。
三河で前守護の一色氏との戦いが長引いている以上、俺の助力を期待しているらしく、今川が遠江へ進出することに反対する理由はない。
問題は――それ以外だった。
当然ながら、守護職を奪われることになる斯波義寛は反対。
細川政元と貿易を巡って対立している大内政弘も反対。
駿河と国境を接する甲斐の武田信昌も、今川の勢力拡大を歓迎するはずがない。
伊豆を支配する堀越公方・足利政知も同様だ。
さらに関東の二大勢力。
俺が関東情勢へ介入することを嫌う扇谷上杉定正と山内上杉顕定も、当然ながら反対している。
そして厄介なのが、前将軍・足利義政だった。
本人がどこまで積極的に動くつもりなのかは分からない。
だが、守護たちの多くにとって、義政は事実上の盟主だ。
その義政が反対となれば、朝廷へいくら上奏したところで、そう簡単に話が進むはずもなかった。
「結局のところ……」
俺は届いた返答を眺めながら、ため息を吐く。
「遠江にしても伊豆にしても、最後は実力で奪うしかなさそうか」
政治で得られないのなら、兵を動かす。
結局、それが一番早い。
幸い、周囲の情勢は悪くない。
大内が軍事的に遠江へ干渉してくる可能性は低い。
甲斐の武田は国内で争いを抱えている。
関東も長尾景春の乱によって混乱している。
そして堀越公方も、今の状況で大軍を動かせるほど余裕があるわけではない。
ならば――。
「小太郎を呼べ」
「はっ」
しばらくして、風魔小太郎が俺の前へ現れた。
「殿、お呼びでしょうか」
「ああ。遠江について相談したい」
俺はこれまでの経緯を説明する。
朝廷への上奏。
守護たちの反応。
そして、実力行使も視野に入れざるを得なくなったこと。
話を聞き終えた小太郎は、しばらく黙っていた。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「なるほど」
「何か思いついたか?」
「であれば――斯波の支配に不満を持つ者を扇動して、一揆を起こさせるのがよろしいかと」
「一揆か」
「はい」
小太郎は地図へ視線を落とした。
「その混乱に乗じて、今川の兵を入れるのです」
「確かに……」
俺も地図を見る。
「斯波義寛も、遠江守護代の甲斐敏光も、今は越前へ兵を出している」
「すべての兵を引き連れているわけではありますまい」
「もちろんだ」
だが、それでも今この瞬間、遠江へ大規模な援軍を送る余裕がないことは間違いない。
しかも――。
「斯波の遠江支配は、そこまで盤石でもない」
「左様で」
斯波義敏と甲斐常治が対立し、越前で長禄合戦が起きた。
その余波は遠江にも及んでいる。
斯波氏の家臣団そのものが内訌を起こしているのだ。
つまり。
守護が一枚岩ではない。
家臣も一枚岩ではない。
ならば、そこへ火を放てばいい。
遠江今川氏。
天野氏。
奥山氏。
松井氏。
そして大河内氏に代表される吉良氏の勢力。
古くから今川と縁の深い国人たちもいる。
彼らを結びつければ――。
「遠江の東側から崩す」
俺が呟く。
「まず東部を押さえ、そこから中央へ進む」
「その頃には、斯波方も動かざるを得なくなりましょう」
「ああ」
問題は、どうやって最初の火をつけるかだ。
その役目を担える者は限られている。
戦場で槍を振るう武士ではない。
村へ入り。
人の不満を探り。
噂を流し。
味方を増やし。
敵の判断を狂わせる者。
つまり――。
「小太郎」
「はっ」
「うまくやってくれたなら、朝廷から官位を賜れるよう、俺から働きかけてみよう」
小太郎の目が、わずかに見開かれた。
だが、すぐに深々と頭を下げる。
「……承知いたしました」
「頼めるか?」
「無論にございます」
低い声だった。
しかし、その声にはこれまで以上の力がこもっていた。
「必ずや」
「期待している」
小太郎が去っていく。
俺はその背中を見送った。
山窩は、河原者などと同じく、武士社会では低く扱われることが多い。
だからこそ、彼らを単なる使い捨ての駒として扱う気にはなれなかった。
使える者ならば、相応の地位を与える。
功を立てた者には、功に見合った褒美を与える。
そうでなければ――。
人は命を懸けてまで、こちらのために働いてはくれない。
「さて……」
俺は再び遠江の地図へ目を落とした。
東側には、今川と縁の深い国人が多い。
天野。
奥山。
松井。
彼らならば、こちらの呼びかけに応じる可能性は高い。
ならば、まずは遠江東部。
そこから中央部へ。
伊豆へ手を伸ばす前に、遠江を押さえる。
それが今後の方針だ。
「遠江の石高そのものは、駿河ほどではない」
だが――。
俺は地図上の水田へ目を向けた。
「それでも、普通に稲作ができる土地というのは大きい」
駿河や伊豆とは違う。
山地が多く、土地の利用に制約がある両国と比べれば、遠江には広い平地がある。
米を作れる。
兵を養える。
村を増やせる。
そして何より――。
遠江を押さえれば、駿河から西へ伸びる道が開く。
「伊豆を取るだけでは足りない」
東へ進むためにも。
西へ進むためにも。
今川に必要なのは、遠江だった。
ならば――。
「奪い返すか」
俺は地図の遠江を指でなぞった。
「今川の手に」




