俺が命じられているのは伊豆の奪取だが、今川分家は遠江の奪還を優先してほしいらしい
さて。
足柄の風魔を麾下に加えることにも成功し、駿河国内の諸勢力も、ほぼこちらの勢力下に置くことができた。
ひとまず、駿河については一段落したと言っていい。
――そう思っていた。
だが。
次に問題になったのは、遠江だった。
「遠江へ兵を出していただきたい」
そう口にしたのは、関口氏、入野氏、木田氏ら、今川庶流の国人たちだった。
「伊豆よりも、まず遠江を」
彼らの言葉には、隠しきれない執念が滲んでいる。
「そもそも駿河と遠江は、われら今川が今川中務大輔(範氏)より代々、百五十年にわたって治めてきた土地」
一人が拳を握った。
「それを斯波ごときに奪われたのです。誠に口惜しいことではありませんか」
「ふむ……」
気持ちは分からないでもない。
むしろ、よく分かる。
遠江は今川にとって、ただの隣国ではない。
かつては今川の支配する土地だった。
だからこそ、奪われた土地を取り戻したいという感情は強い。
しかも、今川義忠が遠江を巡って東軍の斯波義寛と戦い続けたのも、その意識があったからだろう。
問題は――。
「しかし、斯波武衛(義寛)殿は公方より正式に遠江守護へ任じられております」
俺は静かに言った。
「こちらが勝手に兵を入れて、遠江を切り取るわけにはいきません」
「ですが……」
「分かっています」
俺は手を上げて彼の言葉を遮った。
「遠江を取り戻したい。その気持ちは理解しています」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、戦には大義名分が必要です」
彼らの顔が曇った。
もちろん、実際の戦場で大義名分が槍を止めるわけではない。
だが。
戦の後に残るのは、戦場だけではない。
寺社も、公家も、国人も、商人も見る。
そして何より――。
敵方がこちらをどう呼ぶかが変わる。
侵略者なのか。
正統な守護なのか。
この違いは大きい。
「しかし、公方様は『諸国の御沙汰は毎事力法量』と申されているではありませんか」
「……ああ」
思わず苦笑が漏れた。
「まあ、確かにそうなんだけどな」
力のある者が国を取る。
それが今の世の中だ。
だが、それでも名分が不要になるわけではない。
むしろ乱世だからこそ、必要になる。
今川が遠江を欲している。
斯波が遠江を守っている。
ならば、正面からぶつかればいい。
――というほど単純な話ではない。
斯波義寛は、現在こちらと同じ東軍に属している。
しかも今は、越前奪還に力を注いでいる。
朝倉孝景との戦いで、旗色も決して良くない。
つまり。
遠江を攻める好機ではある。
だが、だからといって「今なら取れるから取ります」では、周囲が納得しない。
まして今川は、これから駿河を固めようとしているところだ。
ここで無用な敵を増やすのは得策ではない。
俺は頭の中で情勢を整理する。
史実では、この後、北条早雲が遠江へ兵を進める。
明応三年頃には遠江を勢力下に置き、さらに三河や甲斐へも兵を向けることになる。
だが、その流れも永遠には続かない。
永正三年。
早雲は三河へ侵攻して敗れる。
その後、今川は早雲を積極的に用いなくなり、彼は関東へ目を向けることになる。
そして最終的には――。
今川氏親が足利義稙によって正式に遠江守護に任じられる。
そこから今川は再び勢力を伸ばし、斯波義達を破り、尾張東部にまで勢力を広げていく。
その先にいるのが、今川義元だ。
今川氏が最盛期を迎えるまでの道筋は、すでに見えている。
ならば。
俺がやるべきことも決まっている。
「遠江へ兵を出すならば――」
俺は顔を上げた。
「まずはこちらを遠江守護に任じてもらうのが先でしょうな」
「……守護に?」
「ええ」
関口氏が目を丸くする。
「公方様から正式に任じていただくのです」
「しかし、それが簡単にできるのでしょうか」
「簡単ではないでしょう」
俺は苦笑した。
「だからこそ、やる価値がある」
ただ兵を率いて遠江へ攻め込む。
それならば、ただの侵略だ。
だが。
正式に守護職を得てから兵を入れれば話は変わる。
こちらは奪うのではない。
守護として、領国を回復する。
少なくとも、そう主張できる。
そして今の斯波義寛は、越前にかかりきりだ。
遠江まで十分な兵を回す余裕はない。
「……なるほど」
関口氏の表情が変わった。
先ほどまでの焦りが消え、代わりに期待が浮かんでいる。
「では、遠江を取り戻すために、まずは京へ……」
「そういうことです」
俺は頷いた。
遠江奪還。
それ自体は悪くない。
むしろ、今川にとっては悲願だ。
ならば、その悲願を利用する。
今川庶流の国人たちが遠江を欲しているなら、その欲望をこちらの力に変えればいい。
ただし――。
俺は心の中で付け加えた。
遠江を取ることだけを考えてはいけない。
駿河を固め。
伊豆を押さえ。
そのうえで遠江へ進む。
そのために必要なのは、兵の数だけではない。
――大義名分だ。
「まあ、面倒ではありますが……」
俺は小さく息を吐いた。
「戦をするなら、戦をする前の戦も勝っておかないとな」
遠江奪還は、まだ始まってすらいない。
だが。
その第一歩は、すでに踏み出していた。




