しばらくは駿河の小川城で焼津の発展を手助けするか
さて。
今川義忠の不慮の討ち死にから始まった家督争い――後に「文明の内訌」と呼ばれることになる騒動も、ひとまずは収まった。
現在、龍王丸と、その母である俺の姉・北川殿は、駿河の小川城に滞在している。
もっとも、小川城と言っても、後世の人間が想像するような立派な城ではない。
元々は「法永長者屋敷」と呼ばれていた程度の場所である。
そんな場所で、俺は龍王丸母子を保護してくれた人物と向き合っていた。
「この度は、我が姉と甥を保護していただき、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、法永長者こと長谷川政宣は穏やかに笑った。
「いえいえ。これも御仏の導きというものでございましょう。林双院の住職は、そちら様の身内のようなものでございますゆえ」
長谷川政宣。
“山西の有徳人と聞えし”と評されたほどの有力国人であり、財力もかなりのものを持つ人物だ。
そんな彼が危険を顧みず龍王丸母子を保護してくれたのは、林双院の住職である賢仲繁哲から頼まれたからだという。
そして、この賢仲繁哲という人物がまた面白い。
備中伊勢氏と類縁の人物。
つまり、俺たちの親戚筋にあたる。
彼が出家した備中の草壁庄にある洞松寺と、備中伊勢氏の氏寺である法泉寺は、どちらも曹洞宗大源派。
こうして考えてみると、人の縁というものは本当に不思議なものだ。
――まあ、さらに言えば。
長谷川政宣の子孫には、後世に『鬼平犯科帳』で有名になる長谷川平蔵がいる。
……なんとも妙な縁である。
「それにしても、少し見ない間に随分と偉くなったのね」
そんなことを考えていると、姉上が龍王丸を抱きかかえたまま、こちらを見て笑った。
「まあ、元服してから京で色々やりましたからね」
俺が苦笑すると、姉上は龍王丸の顔を覗き込む。
龍王丸は、そんな大人たちの話など知ったことではないと言わんばかりに、すやすやと眠っていた。
「それにしても、この辺りは思っていたより随分と栄えているのですね」
「ええ。ここは色々なものが重なっている場所みたいね」
姉上の言葉に、俺も改めて周囲を見渡した。
焼津。
ここは、かなり面白い土地だ。
まず、焼津湊。
駿河湾は岸近くから比較的水深が確保できるため、漁業だけではなく海運の中継地点としても利用しやすい。
さらに瀬戸川、小石川、黒石川などの中小河川が流れている。
水が確保できるということは、農業にも向いているということだ。
そして焼津神社。
その歴史は非常に古く、古代からこの地に存在している。
加えて東海道沿いに位置しているため、人や物が行き交う宿場としての機能もある。
港。
漁業。
農業。
街道。
そして門前町。
これだけの条件が揃っているのだから、豊かになる土台は十分にある。
「なるほどな……」
俺は思わず呟いた。
ここは、まだまだ伸びる。
だったら――。
「ともかく、この場所の発展には俺も協力しましょう」
「そうしてもらえると助かるわね」
姉上はそう言って、眠っている龍王丸を見た。
「この子のためにも」
「……そうですね」
今はまだ、誰も知らない。
この腕の中ですやすや眠っている幼子が、将来、今川家の勢力を大きく伸ばすことになるなど。
おそらく、ここにいる人間の中で分かっているのは――。
母親である姉上と、俺くらいだ。
だからこそ。
この子が成長するまでに、できるだけ強い土台を作っておきたい。
そう考えると、やることはいくらでもある。
残念ながら、焼津は大阪のような入浜式塩田には向いていない。
塩田による収益を期待するのは難しいだろう。
だが、木綿栽培なら可能性がある。
農地を広げる余地もある。
河川を整え、湿地や荒地を開発することもできる。
港を整備して物流を増やすこともできる。
つまり――。
まだまだ、この土地は豊かにできる。
「まずは治水開墾から始めるとするか」
俺がそう言うと、横にいた大道寺重時も頷いた。
「まあ、それが無難だろうな」
「水を治めて農地を増やす。食料が増えれば、人も増える」
「そして食料が確保できれば、兵の維持も楽になる」
「そういうことだ」
俺は頷いた。
戦国の世において、兵を集めるにも、兵を養うにも、結局のところ必要になるのは食料だ。
米。
麦。
雑穀。
大豆。
木綿。
それらを安定して生産できる土地を増やす。
そして余った物を港から外へ運び、必要な物資を買い入れる。
その循環ができれば――。
焼津は、ただの一地方の湊町では終わらない。
「さて……まずは、この辺りの地形を調べるところからだな」
俺がそう呟いた、その時だった。
「地形を調べる?」
大道寺重時が怪訝そうな顔をする。
「まさか、また何か妙なことを考えているのではあるまいな?」
「妙なこととは失礼な」
「京でも大阪でも、似たようなことを言って大工事を始めただろうが」
「……」
反論できない。
姉上もそんな俺たちを見て、くすくすと笑っている。
「まあ、あなたが動くと、何かが大きく変わるのはいつものことでしょう?」
「姉上まで……」
俺はため息をついた。
だが、すぐに笑みが浮かんだ。
せっかく与えられた機会なのだ。
龍王丸が成長するまでに、この土地を少しでも豊かにしておく。
それが、今の俺にできることだ。
「よし。まずは川を見に行こう」
こうして。
駿河・焼津の本格的な開発が、始まることになった。




