駿河に下向して今川家のお家騒動を仲裁し上杉政憲と太田道灌を撤兵させたよ
さて。
今川義忠が討ち死にした。
そして残された嫡男・龍王丸は――まだ生まれたばかり。
当然のように、今川家中では後継者を巡る動きが始まっていた。
龍王丸を擁する一派に対し、三浦氏や朝比奈氏らは義忠の従兄弟である小鹿範満を推す。
さらに話は今川家中だけでは収まらなかった。
堀越公方・足利政知。
そして扇谷上杉家。
両者が介入し、犬懸上杉家の上杉政憲と、扇谷上杉家の太田道灌が、それぞれ兵三百を率いて駿河へ入ってきたのである。
「……これは、放っておけんな」
このままでは龍王丸と、その母である北川殿の身が危ない。
龍王丸派にとって、情勢はあまりにも不利だった。
しかも俺は、この状況がどう転ぶのかをある程度知っている。
だからこそ、急いで駿河へ向かうことにした。
率いる兵は千。
ただし、嫁たちは京に残してきた。
美濃より東はいまだ戦乱が続いている。
道中が危険なのもあるが、それ以上に――今は家族を連れて動き回っている場合ではない。
「駿河を片付けてから迎えに戻る」
そう言い残し、俺は兵を率いて東へ向かった。
◆
駿河に到着すると、まず俺は上杉政憲と対談した。
「今回の件ですが」
俺は淡々と切り出した。
「龍王丸と範満の間で和睦を結び、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行する形にするのがよいかと思います」
「……それに反対した場合は?」
政憲が俺を見る。
「関東管領たる山内上杉家が動くことになるでしょう」
「…………」
「さらに、古河公方の足利成氏も黙ってはいないでしょうな」
政憲の表情が僅かに動いた。
もちろん、これは脅しだ。
だが、完全な出鱈目でもない。
関東は関東で、こちら以上に面倒な状況になっている。
足利成氏はつい先日、小山氏や結城氏らの軍勢を率いて伊豆へ遠征し、堀越公方・足利政知を攻めた。
だが敗北。
古河城へ撤退したばかりである。
そこへ今度は幕府の帰順命令に小山氏や小田氏などの有力豪族が応じ始めた。
上杉勢の長尾景信も古河へ向けて総攻撃を開始。
足利成氏は本佐倉の千葉孝胤を頼って退避した。
とはいえ、上杉勢も古河城を落として占領するだけの力はない。
つまり。
成氏は古河城への帰還と、堀越公方への再攻撃を虎視眈々と狙っている。
そんな状況で、駿河に余計な兵を置いておく余裕があるのか。
そういう話である。
「……分かりました」
しばらく考えた末、政憲が口を開いた。
「龍王丸が成人するまで、範満を家督代行とする。それでよいのであれば、今回は撤兵いたしましょう」
「ありがとうございます」
意外なほど素直だった。
まあ、足利成氏に攻め込まれたばかりなのだ。
駿河にまで深入りしている場合ではないのだろう。
◆
続いて俺は、太田道灌とも対談した。
「和睦に反対すれば、関東管領たる山内上杉家が攻撃することになるでしょう」
「…………」
「さらに古河公方の足利成氏も黙っておりますまい」
まったく同じ話をする。
すると道灌は、しばらく俺を見つめていた。
「……あなたは、随分と先のことまで考えておられるようですな」
「まあ、色々ありまして」
さらに俺は将軍の御内書を提示した。
これが一番効く。
「それに西の方では、戦乱もようやく収まりつつあります」
「……細川ですか」
「ええ。いざとなれば、細川が動く可能性もありますな」
道灌が眉を寄せる。
そして、もう一つ。
「大阪では木綿や絹、生糸などの流通もこちらで握っております」
「…………」
「駿河との取引が止まることも、まあ……ないとは言えませんな」
もちろん、露骨な脅しはしない。
ただ。
選択肢を示しているだけだ。
戦争を続けるのか。
それとも和睦して、物資と交易を確保するのか。
どちらを選ぶかは、そちら次第ですよ、と。
しばしの沈黙。
やがて道灌が苦笑した。
「お互い、色々と苦労しますな」
「……たしかに、それは言えますな」
思わず俺も苦笑する。
俺は俺で、将軍・足利義政に振り回されている。
道灌は道灌で、当主がころころと代わり、そのたびに家中をまとめなければならない扇谷上杉家に仕えている。
立場こそ違う。
だが。
上に振り回される苦労という意味では、案外似た者同士なのかもしれない。
◆
こうして。
駿河での和睦が成立した。
浅間神社において、双方が神水――つまり御神酒を酌み交わし、和議を誓う。
これによって、ひとまず戦は避けられた。
家督を代行することになった小鹿範満は、駿河の今川館へ入る。
一方、龍王丸は母・北川殿とともに焼津の小川城へ身を寄せる。
そして。
上杉政憲と太田道灌は、それぞれ兵を率いて駿河から撤退していった。
「……ふう」
ようやく一息つける。
小鹿範満は、犬懸上杉政憲の娘を母に持つ。
以前から上杉家とは親密な関係にある。
だからこそ、今回の和睦も比較的すんなり成立したのだろう。
当面の間、範満が今川家の当主代行を務める。
それ自体については、範満にとっても悪い話ではない。
問題は――その先だ。
龍王丸が元服した後。
果たして範満が、素直に権力を手放すだろうか。
「……まあ、そう簡単にはいかんよな」
将軍から御内書が出ている。
だからといって、人間が権力を手放すとは限らない。
むしろ。
権力というものは、一度握ってしまえば手放したくなくなるものだ。
範満だって同じだろう。
龍王丸が成人する頃には、今川家中の状況も変わっているかもしれない。
その時に何が起きるか。
それは、その時になってみなければ分からない。
「……とりあえず」
俺は大きく息を吐いた。
「今は休もう」
駿河での面倒事は、ひとまず片付いた。
ならば。
次にやることは決まっている。
温泉だ。
大井川の西岸。
掛川。
そこにある倉真温泉で、ゆっくり湯に浸かる。
戦の話も。
政略の話も。
将軍の話も。
しばらく忘れたい。
「温泉……温泉かぁ」
思わず顔が緩む。
いや。
俺は頑張った。
千の兵を率いて駿河まで来た。
上杉政憲と交渉した。
太田道灌とも話した。
龍王丸と北川殿の命も、とりあえず守った。
ならば――
「温泉くらい、いいよな」
誰に許可を取るでもなく、俺はそう呟いた。




