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御所様の一言で室町幕府は権威を完全に失った

 文明2年(1470年)の初頭に朝廷の仲介により山名宗全と細川勝元の間に和睦が成立した。


 しかし、すでに全国に広がっていた争乱が収まるわけではなく、山名宗全は赤松政則の代理の浦上則宗や東軍である京極氏の分家の尼子清定などに対応しなければならなかったし、細川勝元は大内政弘と戦い続けた。


 その他にも畠山政長と畠山義就、若狭の武田と丹後の一色、北近江の京極と南近江の六角、遠江を巡っては今川と斯波、伊勢と美濃では北畠と土岐の下の斎藤、大和では興福寺派の筒井順永と越智家栄が争っていたし、三河では西条家の吉良義真と東条家の吉良義藤、安芸では小早川、飛騨では姉小路、信濃では小笠原、加賀では富樫、伊予では河野がそれぞれお家騒動で分裂して争っていたし大内の場合も一枚岩ではなく、政弘の伯父の大内教幸や長門守護代の内藤武盛などが大内政弘に反旗を翻したり、九州の大友親繁や少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻しているが、これは周防守護代の陶弘護によりすべて撃退、鎮圧されている。


 そんな中で足利義政は講和をすすめても話を聞かない守護たちにほとほと呆れたのか言ってはいけないことを言ってしまった。


 直接的には能登守護の畠山義統と越後守護上杉房定が畠山政長の分国である越中を侵略した際に「諸国の御沙汰は毎事力法量」つまり力で攻め取ったことに関して幕府は仲裁しないと言ってしまったのだ。


 そのため、守護が他の守護の分国を侵略することが幕府によって是認されてしまったのだ。


 このために室町幕府の家格による秩序は崩壊し、御恩と奉公の関係も完全に崩れ、長期にわたる京都やその周辺への遠征で守護の財政は逼迫していたこともあって、それまでは大内や今川などの例外を除けば在京して幕府の政務につくが原則であった守護が、これ以降は自らの領国を守るために京を離れて下向し、守護代に任せていた領国経営を自らが行おうとしたが、領国がバラバラに飛んでいる場合は守護代が守護に代わって権力を握る例も増えた。


 この将軍の言葉が室町時代の終わりと言ってもいいと思う。


 これにより室町幕府は守護への影響力をほぼ喪失し、年貢や段銭などが入ってこなくなって、幕府によって代理的に徴収されていた、朝廷の年貢なども入ってこなくなり、朝廷は収入源を大きく喪失して、当面の間は行事を行なうことがままならなくなったわけだな。


 そして現在幕府の代わりに金を集める役目をやらされているのが俺なわけだが……。


 これらの理由により京都に残る守護が事実上細川氏一門のみとなったため、細川氏は幕府の軍事的権限を行使するようになったのである。


 そして山名と細川の講和は応仁の乱を終結させるには至らず、むしろ全国の争いを激化させるに至ったのである。


 それにしても御所様はなんで、最悪の瞬間に最悪なことをするのだろうかね……。

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