経済の根っこの権限を持つと面倒事も増えるらしい
京を覆う戦雲
「どうぞこれからもよしなに」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
俺が遊郭と商業の座の権益を押さえたことで、伊勢屋敷の様子は以前とは一変した。
朝になれば、諸国からやって来た商人たちが門前に列をなし、昼には武家の使者が名刺代わりの書状を差し出し、夕刻には寺社の僧や町衆までが顔を見せる。
皆、口では「ご挨拶に」と言う。
しかし、その実態は誰もが同じだった。
――今後、便宜を図ってほしい。
――取引を優先してほしい。
――何かあれば口添えをお願いしたい。
そうした願いを込めて、反物や茶、香木、名刀、唐物、黄金まで、実に様々な付け届けが運び込まれてくる。
これだけの品が毎日のように積み上がるのだから、屋敷の蔵も悲鳴を上げそうだった。
聞けば、祖父・伊勢貞親が政所執事として絶大な権勢を誇っていた頃には、伊勢屋敷ではこうした光景が日常茶飯事だったらしい。
だが、文正の政変によって祖父が失脚すると、人の流れはまるで潮が引くように途絶えたという。
権力あるところに人は集まり、権力が失われれば蜘蛛の子を散らすように去っていく。
なんとも分かりやすいものだ。
もっとも、そうした人付き合いを上手く裁けているのは、かつて祖父に仕えていた被官たちが健在だからに他ならない。
彼らは贈答品の扱い方も、人との距離の取り方も心得ている。
誰から何を受け取り、誰には丁重に断り、どの家を優先するべきか。
そうした判断は俺など足元にも及ばない。
そして、その中心になって動いてくれているのが実父・伊勢盛定と養父・伊勢貞道だった。
「父上たちのおかげで、本当に助かっております」
俺が頭を下げると、盛定は穏やかに笑う。
「うむ。困ったことがあれば遠慮なく頼るがよい。」
貞道も満足そうに頷いた。
「我らはお前の父なのだからな。一人で抱え込む必要などない。」
二人の言葉に胸が少しだけ軽くなる。
家とは、人に支えられて初めて家なのだと改めて思わされた。
◇
さらに祖父・伊勢貞親が政所執事へ返り咲いたことで、俺の役目も大きく変わった。
今川家の申次衆ではなく、将軍家直属の申次衆へと回されたのである。
その結果――。
細川勝元。
山名宗全。
内大臣・日野勝光。
そして将軍・足利義政。
京でもっとも権勢を誇る者たちの使者が、毎日のように伊勢屋敷へやって来るようになった。
「今度の件は細川殿に有利となるよう取り計らっていただきたい。」
「山名殿も同様のお考えでございます。」
「将軍家としては――」
立場が違えば、言うことも違う。
いや、違うどころか真逆である。
こちらで話を合わせれば、あちらが不満を抱く。
誰かを立てれば、別の誰かが機嫌を損ねる。
まさに綱渡りだ。
俺は屋敷へ戻るたび、深いため息を吐いていた。
「どいつもこいつも金、金、金……。」
思わず机へ突っ伏す。
「まったく胃が痛い。なんでこんな面倒なことになったんだ。」
もちろん理由は分かっている。
軍勢を維持するには莫大な軍資金が必要だ。
ところが応仁の乱が長引くにつれ、守護や守護代は自領の防衛に手一杯となり、本来なら朝廷や幕府へ送られる年貢は次第に途絶えていった。
京へ集まるはずの富は地方で消え、朝廷も幕府も慢性的な資金不足に陥っている。
だから誰もが金を欲しがる。
金を動かせる者に群がり、権益を持つ者へ媚びを売る。
政治とは理想で動くものではなく、結局は銭で動くものなのだと嫌というほど思い知らされた。
政治や経済の中枢へ足を踏み入れるということが、ここまで神経をすり減らすものだとは思ってもみなかった。
荏原荘で田畑を耕し、水路を整え、新しい商売を考えていた頃が正直懐かしい。
あの頃は母上が好きにやらせてくれた。
細かく口を挟むこともなく、失敗すれば笑い、成功すれば褒めてくれた。
もっとも、それが許されたのも、いずれ俺が荏原荘を離れることを見越していたからなのだろう。
そう考えると、母なりの親心だったのかもしれない。
とはいえ、俺程度で弱音を吐いてはいられない。
内大臣の日野勝光。
将軍・足利義政。
管領・細川勝元。
政所執事・伊勢貞親。
あの面々は、俺など比べものにならないほどの案件を毎日裁いているはずだ。
そう考えれば、申次衆や奉公衆はまだ気楽な立場なのだろう。
もっとも、上から降ってきた理不尽な命令ですら従わなければならないという意味では、彼らもまた別の苦労を抱えているのだが。
◇
一方、戦乱そのものも泥沼化していた。
圧倒的な軍事力を誇る大内氏・山名氏を中心とした西軍に対し、東軍は兵力で劣勢を強いられ、花の御所を中心とした土塁と堀で囲まれた防衛区域――「御構」に籠もって守勢に回らざるを得なくなっていた。
しかし、狭い区域へ武士や足軽、町人、避難民までが密集した結果、衛生状態は急速に悪化していく。
井戸は汚れ、汚物は溜まり、水は濁る。
その結果、火災や疫病が繰り返し発生し、とりわけ「赤疹」と呼ばれる疫病が京中で猛威を振るった。
現代人である俺からすれば、人が密集すれば疫病が流行るのは当然だと思う。
だが、この時代の人々はそうは考えない。
人々は怨霊の祟りだと恐れ、疫病を鎮めるため盛大な御霊会を催した。
京雀たちの間では、
「御霊神社や天満宮を焼き払った報いではないか。」
そんな噂まで囁かれていたという。
もっとも、幸いなことに伊勢屋敷では患者は一人も出ていない。
井戸や炊事場の清掃を徹底し、人の出入りを厳しく管理していたことも功を奏したのだろう。
不幸中の幸いとはこのことだった。
◇
こうした状況を受け、細川勝元と山名宗全の間では、ようやく和議の話し合いが始まった。
そもそも応仁の乱の大きな原因の一つだった播磨・備前・美作の三国は、すでに赤松政則が奪還している。
さらに山名宗全の息子たちも、以前ほど畠山義就への支援に積極的ではなくなっていた。
戦を続ける理由は少しずつ失われつつあったのである。
だが、それでも和平は実現しなかった。
将軍義視は身の安全を保証できず、赤松政則は奪い返した領国を山名へ返還させられることを恐れた。
畠山義就は家督を奪われたままでは到底納得できず、大内政弘も細川勝元との対立から守護職や領国を失うことを警戒していた。
誰もが自分の利益を優先し、誰も譲歩しない。
結局、和議は水泡に帰した。
皮肉なことに、これほど長く戦っているにもかかわらず、赤松氏を除けば恩賞によって大きく勢力を伸ばした守護はほとんど存在しない。
討ち死にした名だたる大名も意外なほど少ない。
それでも戦だけは終わらない。
戦う理由よりも、戦いをやめられない理由の方が多くなってしまったのだ。
そして十一月。
東軍の畠山政長を支えてきた興福寺僧兵頭・成身院光宣が八十歳で没した。
この死は大和国の勢力図を大きく塗り替える。
興福寺の後ろ盾を失った筒井順永の政治力は急速に低下し、その隙を突くように越智家栄が勢力を伸ばし、大和は次第に西軍の支配下へと組み込まれていくことになる。
京では和平がまとまらず、地方ではなおも戦況が動き続ける。
応仁の乱という底なし沼は、まだ誰一人として抜け出せそうになかった。




