足利義視の西軍入りで完全な泥沼になったな
全話の建物の描写が中途半端で色々誤解を招きそうなので追記しました。
遊君別当として遊郭に所属している遊女たちからの銭の徴収は順当に行えている。
無論、所属してない私娼もいるわけだがその全部を取り締まれるほどの権限はないし、そういった者たちが金を貰おうとして斬り殺されたり、家を焼かれたり壊されたりしても俺は介入しないが、郭の中での不法行為はきちんと取り締まってるから、所属している遊女に不満はないようだ。
その金を使って遊郭区画の拡大や建物の新築増築改築、食料確保の上の栄養バランスの改善などを行いつつ時間は過ぎていくが、5月もすぎれば梅雨入りしてジメジメとした状態になったので、オンドルのある建物での炊事は停止し、炊事用の竪穴式住居を別途定めてそちらで行なうようにした。
「ここはほんとに暑い時と寒い時の差が激しいな。
竪穴式住居の中はそうでもないけど」
京の都は、京都盆地の中にあるために、瀬戸内海式気候と内陸性気候を併せ持ったような場所で、年間を通じて降水量が比較的少なく、夏と冬、昼と夜での寒暖の差が大きい。
だから見た目こそアレだが、住居の中の気温が一年中あまり変わらない竪穴式住居は過ごしやすいのだ。
この室町時代後期の京の都では4月までは最低気温が10度くらいなので、オンドルで温めたほうがいいが、梅雨に入ると一気に湿度が上がって気温も20度位に上がるので、むしろ蒸し暑くて寝づらくなる。
そして東軍はそれはほどでもないが、西軍は諸将それぞれの事情が、かなり出るようになり行動に不一致が見られるようになってきた。
山名宗全は赤松との戦いへ集中したかったし、大内政弘はあくまでも細川、一色は武田が狙いだし、畠山、、斯波、京極、六角などは内輪もめで忙しかった。
8月になると京都の中での戦闘はほとんどおこなわれなくなったこともあって、将軍足利義政は東西両軍の和睦を画策した。
まず9月22日に足利義視を細川勝元を通じて正式に伊勢から呼び戻した。
この時帰京した義視は足利義尚派で日野富子の兄である日野勝光の排斥を義政に訴えたが、これは受け入れられなかった。
さらに義政は閏10月16日には文正の政変で足利義視と対立した伊勢貞親を政所の政務に復帰させた。
そして、足利義政は全ての乱関係者を京に集め自らが応仁の乱の和平を主導しようと画策した。
しかし11月10日に足利義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出したのでもある。
これにより身の危険を感じた足利義視は出奔して比叡山に逃げ込み11月23日に西軍は比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。
日野家と対立する正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、これ以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位や守護職の授与も行うようになった。
南北朝のときなどと同様に官位発給の権限が割れたことで、朝廷や幕府の権威は完全に低下したが、これにより東軍と西軍の講和はさらに困難になって、応仁の乱の長期化を招くことになった。
足利義政が東西の講和を本気で考えるのならば足利義視を呼び戻すべきではなかったのだろう。




