今川義忠が姉上と一緒に駿河に帰っていったか
さて、応仁の乱は足利義視の西軍入りで完全な泥沼になったこともあり、今川義忠は細川勝元に斯波義廉の分国である尾張や遠江を撹乱すべしと要請されて、駿河へ帰国することになった。
当然、駿河へは正室となった姉上も一緒に下ることになる。
「治部様、お姉上どうかお元気で」
「うむ、もう少し都にいるつもりではあったが、そうもいかなくなった。
そちらも体には気をつけよ」
「はい有難うございます」
「わたしがいなくなって寂しいからって泣かないでね」
「だ、大丈夫です。
もう元服したのですから」
姉上を乗せた牛車がゆっくりと京の町を離れていく。
その後ろには、駿河へ帰国する今川義忠の軍勢が長く列をなし、槍の穂先が春の日差しを受けて鈍く輝いていた。
俺はその姿が見えなくなるまで見送り、ようやく一つ息を吐く。
「……これで東海道はまた騒がしくなるな」
義忠が帰国する以上、駿河だけを守っているはずがない。
細川勝元が期待しているのは、斯波義廉の勢力圏である遠江や尾張への圧力である。
今川氏にとっても、それは願ってもない好機だった。
もともと今川氏は建武年間以来、駿河守護を務める名門である。
しかし遠江守護職を巡っては長年斯波氏と争ってきた。
今川貞世(了俊)が失脚した後、遠江守護は一時こそ今川家へ戻ったものの、永享年間以降は再び斯波氏が掌握し続けている。
さらに長禄三年(一四五九)には、遠江今川氏の今川範将が主導した中遠一揆が守護方によって鎮圧され、今川方は大きく面目を失った。
それ以来、今川と斯波の対立は修復し難いものとなっていた。
応仁の乱は将軍家の後継争いから始まった戦だったが、有力守護たちにとっては、積年の怨恨を晴らし、旧領を奪い返す絶好の機会でもあったのである。
そして翌文明元年(一四六九)四月。
戦場は京の町だけではなく、山城国西部へと広がっていく。
乙訓郡西岡は丹波・摂津へ通じる要地であり、古くから細川氏と結び付きの強い国人衆が支配していた。
彼らは東軍として西軍の進出を阻んでいたが、四月十九日に鶏冠井城を攻めたことで畠山義就の反撃を招く。
二十二日、義就は自ら軍勢を率いて出撃し、谷ノ堂を攻略。
西岡国人衆は敗れて丹波へ退き、乙訓郡一帯は西軍の支配下へ入った。
さらに大内政弘も摂津方面へ兵を進め、東軍の拠点を次々と攻略していく。
一見すれば東軍の補給路は断たれたようにも見えた。
しかし実際には、細川氏と赤松氏が大阪湾から淀川へ至る水運を確保していたため、京への兵糧輸送は維持されていた。
一方、西軍もまた、日本海側から越前を経て琵琶湖水運を利用し、山城へ兵糧を送り込んでいる。
戦線は膠着していたが、その裏では水面下の駆け引きが始まっていた。
細川勝元は、西軍の有力武将である朝倉孝景を切り崩すべく密使を送り込んでいたのである。
その仲介役となったのが魚住景貞だった。
魚住氏は播磨赤松氏の庶流で、本来は赤松家の被官であった。しかし嘉吉の乱による赤松氏没落の後、景貞は朝倉家へ仕えていた。
この縁を利用し、細川方は密かに朝倉家との接触を重ねる。
もっとも、この時点ではまだ交渉は始まったばかりである。
その成果が表に現れるのは、さらに二年後、文明三年(一四七一)のことであった。




