迷子の中年と、迷っていない男
私は、西江 郁、40代のおにいさんだ。
その日も私は、なぜか東京にいた。理由はよく覚えていないが、たぶん重要な仕事のついでだ。いや、ついでのほうが仕事だったかもしれない。
とにかく私は、なぜか新宿の地下街を歩いていた。
地下はよい。
ゴジラはいないが、どこか人間の本質がむき出しになる場所だ。
人々はみな、少しだけ焦っている。
そんな中、一人の男が、壁にもたれていた。
スーツ姿、30代後半くらい。ネクタイがやや曲がっている。
「……もう、無理だ」
と、つぶやいている。
(ほう、これは“迷っている人”だな)
私は、すっと近づく。
「どうしました?」
男はびくっとしてこちらを見る。
「いや、あの……仕事も家庭も、なんか全部うまくいかなくて……自分が何やってるのか、わからなくなって……」
なるほど、典型的だ。
だが、こういうときは、深く共感してはいけない。
私は経験で知っている。
「なるほど。迷子ですね。」
「え?」
男は戸惑う。
私は続ける。
「ここは地下ですからね。出口を間違えると、全然違う場所に出ます。人生と同じです。」
「いや、それは……」
男が何か言いかける前に、私は左手を軽く上げた。
「大丈夫です。」
私はポケットからハンカチを取り出す。
軽く振る。
すると、ハンカチが、なぜか“地図”に変わる。
「えっ!?」
男が目を見開く。
私は地図を広げる。
そこには、こう書いてあった。
『出口:自分』
「……なんですか、それ」
「あなたの出口です」
「意味がわからないです」
「私もです」
私はきっぱり言った。
男は一瞬、真顔になったあと、なぜか吹き出した。
「はは……なんだそれ……」
私は続ける。
「でも、だいたいそういうものです。
意味がわからないのに、なぜか進む。
それで、なんとかなってしまう。」
インちゃんが、いつの間にか肩にいた。
『ナントカナル、ナントカナル』
「……そんなもんですかね」
男は少しだけ、姿勢を正した。
「そんなもんです」
私は即答する。
沈黙が流れる。
そのあと男は、深く息を吐いた。
「……ちょっと、戻ってみます。会社」
「いいですね。地下から地上へ」
「いや、まだ地下ですけど」
「気持ちは地上です」
「雑だなぁ」
男は笑いながら歩き出した。
背中が少しだけ、軽くなっている。
私は満足して、うなずく。
「今日も一人、救ってしまったか……」
『ヤリスギ、ヤリスギ』
そのときだった。
近くの警備員が、私のほうに近づいてきた。
「すみません」
「はい?」
「その地図、どこから出しました?」
「ポケットですが」
「いや、それ……」
警備員は無線で何か話し始める。
「はい、こちらB地点。例の“地下街マジック男”、発見しました」
「……例の?」
私は少し考える。
(おかしいな。そんなに目立つことはしていないはずだが)
インちゃんが小声で言う。
『キノウモヤッタ、キノウモヤッタ』
「……昨日も来ていたのか、私は」
記憶が、ない。
警備員が近づいてくる。
「申し訳ないですが、少しお話を……」
私はにっこり笑った。
そして、左手を上げる。
「セキセイ」
咳をひとつ。
しかし――
何も出てこない。
「あれ?」
もう一度。
「セキセイ」
咳。
……しん、と静まり返る。
インちゃんが、肩の上で言う。
『キョウ、ヤスミ』
「休みなのか……」
警備員は無言で私の腕を軽く取った。
私は連れていかれながら、つぶやく。
「まあいい。人生、こういう日もある」
『ツカマッタ、ツカマッタ』
――その後、私はしばらく地下街の事務室で
「マジックの実演」を求められることになるのだが、
なぜか一度も成功しなかった。
これが本当の意味での、迷子である。




