西さん、謝罪という概念に出会う
私は、西江 郁、40代のおにいさんだ。
今日は朝から、なぜか会社に行きづらい。
理由はよくわかっている。
昨日、職場に“修羅場”という名の置き土産をしてきたからだ。
(まあでも、人は成長する生き物だ)
私は自分に言い聞かせる。
(今日は謝ろう。大人だからな)
そのときだった。
『アヤマレ、アヤマレ』
インちゃんが肩の上でささやく。
「わかっている」
『ドウセ、ワスレル』
「失礼だな」
そんなやり取りをしながら会社に入る。
――静かだ。
妙に静かだ。
いつもなら、小田さんの「ちぱーちく」が聞こえるはずなのに。
席に着くと、南さんが小声で言う。
「西さん……あの……今日、朝イチで部長が来てます」
「ほう」
「あと……小田さんと大場さん、朝からずっと無言です」
「なるほど。悟りの境地だな」
「違います。怒ってるんです」
(難しいな)
私は立ち上がる。
「よし、謝ろう」
南さんが目を見開く。
「えっ、西さんが“謝る”んですか!?」
「人は成長する」
「昨日も言ってませんでした?」
「言ったかもしれない」
私は小田さんの席に向かう。
小田さんは無言でパソコンを打っている。
その横で大場さんも無言だ。
空気が重い。
重すぎて、なぜか床が少し沈んでいる気がする。
(ここは一発、誠意を見せるしかない)
私は深く息を吸う。
そして――
「小田真理さん」
空気が凍る。
南さんが遠くで頭を抱えている。
小田さんの手が止まる。
ゆっくりとこちらを向く。
「……今、なんて?」
(あれ?)
私は続ける。
「昨日は、その……おだまり、と言ってしまい、申し訳なかった。小田真理さん」
(なぜ二回言った)
小田さんの目に涙が浮かぶ。
「……またフルネームで……」
「違う、これは敬意だ」
「余計ひどいです!」
(難しいな)
そのとき――
私はひらめいた。
「インちゃん」
『ハイヨ』
左手を上げる。
「セキセイ」
軽く咳をする。
すると、インちゃんが飛び出し――
『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ワタシガワルイ』
「違う違う」
インちゃんがなぜか土下座のように机に頭をこすりつける。
『ワタシ、ニシジャナイ、ワタシガワルイ』
「いや、お前じゃない」
小田さんが、ぽかんとする。
大場さんも、ぽかんとする。
そして――
小田さんが、ぷっと吹き出した。
「……なにそれ……」
大場さんも笑い出す。
「もう……バカじゃないの……」
私はうなずく。
「そうだ。私は大馬鹿だ」
「それ、昨日も聞きました」
「成長していない証拠だ」
職場に、ようやく空気が戻る。
南さんが遠くでつぶやく。
「……すごいな、この人」
小田さんは目元をぬぐいながら言う。
「……もういいです。西さん、意味わからなすぎて、怒る気なくなりました」
「それはよかった」
「でもフルネームは禁止です」
「了解した。小田さん」
「それでいいです」
一件落着である。
私は満足して席に戻る。
『マルクオサマッタ、マルクオサマッタ』
「そうだな」
そのときだった。
部長が後ろに立っていた。
「西江くん」
「はい」
「今の一連、全部見ていた」
「はい」
「……あれは謝罪なのか?」
私は少し考える。
そして答える。
「芸術です」
部長はしばらく沈黙したあと、
「……後で来なさい」
と言った。
私はうなずく。
(呼び出しか。まあいい)
インちゃんがささやく。
『オワッタナ』
「いや、始まりだ」
私は静かに立ち上がる。
そして部長室へ向かう。
――その10分後。
私は、なぜか会社の外に立っていた。
段ボールを抱えて。
中には、私の私物。
『オメデトウ、オメデトウ』
「……何がだ?」
段ボールの上に、一枚の紙が乗っている。
そこにはこう書いてあった。
『本日付で、自宅勤務(無期限)』
「……なるほど」
私はうなずく。
「これが働き方改革か」
『チガウ、チガウ』
私は空を見上げた。
「まあいい。場所はどこでも、私は私だ」
『イエニモドレ』
そのとき、スマホが鳴る。
画面には「娘」。
「もしもし」
『パパ?今日学校で“親の仕事紹介”あるんだけど』
「うむ」
『何て書けばいい?』
私は少し考える。
そして、答えた。
「……魔術師だな」
電話の向こうで、しばらく沈黙。
『……やめて』
――これが本当の意味での、社会的信用の消失である。




