インフレと西さん
私は、西江 郁、40代のおにいさんだ。
世の中には、“膨らむもの”がある。
物価も、期待も、そして――評価もだ。
今日は北井くんを連れて、営業の挨拶回りだ。
「よろしくお願いします」
北井くんは相変わらず姿勢がいい。
声もいい。内容も無駄がない。
「それ、ペイできますか?」
(出た)
先方の担当者が一瞬止まる。
「え、あ、まあ……」
「コスパの観点から見て、今回の関係構築は長期的に――」
「いや、そこまで言わなくても……」
(強いな)
しかし不思議なことが起きる。
先方がなぜか感心した顔になるのだ。
「若いのにしっかりしてますねぇ」
「将来有望ですね」
(ほう、こやつのフルネームをわかっててか・・・)
私は腕を組む。
(これは……ハロー効果だな)
一つの良い印象が、全体を底上げしている。フルネームは、・・だが。
だが私は冷静だ。
(これは評価のインフレだ)
本質以上に持ち上げられている状態。
私は北井くんに言う。
「評価はインフレする」
「はい」
「だが実力はデフレしない」
「どういうことですか」
「知らん」
「知らんのかい」
そのとき――
「ペイペイ♪」
北井くんが効果音を出す。
「……今の何?」
先方が聞く。
「評価の決済です」
(やめろ)
しかし先方は笑う。
「面白いですねぇ!」
(なぜウケる)
私は確信する。
(完全にインフレだ)
――二件目。
同じ現象が起きる。
私は北井くんに言う。
「評価は膨らむ」
「はい」
「だが実力は据え置きだ」
「それ、厳しいですね」
「現実だ」
そのとき――
「ピッ」
左手が動く。
そして、
『インフレ、インフレ』
インちゃん登場。
「……出た!!」
北井くん、初遭遇で一歩引く。
「な、なんですかそれ!?」
「インちゃんだ」
「どこから出てきたんですか!?」
「左手だ」
「意味がわからない!!」
インちゃんが北井くんを見る。
『コスパ、ワルイ』
「いきなり否定された!?」
(いいぞインちゃん)
私はうなずく。
「彼は評価の適正化装置だ」
「ただのツッコミですよね!?」
三件目。
さらに評価が上がる。
「さっきも噂聞きましたよ」
「評判いいですね!」
(早いな)
そのときインちゃんが肩でつぶやく。
『フワフワ、ヒョウカ』
「それですそれ!!」
北井くんが指差す。
「まさにそれ言いたかったんです!」
「お前よりインちゃんのほうが説明がうまいな」
「悔しいです!!」
――三件目終了。
私はつぶやく。
「バブルだ」
「え?」
北井くんが聞く。
「評価バブルだ」
「崩壊しますか?」
「いつかはな」
「そのときどうすれば?」
私は遠くを見る。
「ミュージアムだな」
「……はい?」
(さて)
実は私は、今日どうしても気になっていることがある。
それは――
本日開館の、新しいミュージアム。
(どうしても行きたい)
頭の中は、もう営業ではない。
完全にミュージアムだ。
北井くんが言う。
「西さん、次の訪問先です」
「うむ」
(早く終わらせよう)
私はいつもより早口になる。
「本日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」
(雑だな)
外に出る。
北井くんが言う。
「西さん、今日なんか早いですね」
「急ぎの案件だ」
「何のですか」
「文化だ」
「……」
(よし、行くぞ)
――到着。
その名も、
「未来体感型・うんこミュージアム」
「……」
北井くん、固まる。
「西さん……これが“文化”ですか」
「最先端だ」
インちゃんが一言。
『クサイハナシ』
「的確!!」
中に入る。
カラフル。
ポップ。
謎のテンション。
壁一面に、さまざまな“うんこ”。
(すばらしい)
「見ろ、北井くん」
「……はい」
「これは“価値の再定義”だ」
「どういうことですか」
「通常、うんこは評価されない」
「はい」
「だが、ここでは主役だ」
「……」
「つまり」
インちゃんが補足する。
『バショデ、カチ、カワル』
「それ!!それです!!」
「だからお前は黙ってろ」
私は指を立てる。
「評価は文脈で変わる」
「……」
「インフレでもデフレでもない」
「……」
「“展示”だ」
沈黙。
インちゃんが即答。
『タダノ、インフレ』
「バッサリ!!」
(やはりそうか)
そのときだった。
北井くんがゆっくり言う。
「……それ、ペイしますか?」
「する」
「なぜですか」
「楽しいからだ」
「……」
そのときだった。
スタッフが近づいてくる。
「すみません」
「はい」
「その展示物……」
「うむ」
「触らないでください」
「……え?」
見ると、
西さん、展示物の“うんこ”を真剣に持ち上げている。
「これは……作品だろう?」
「はい」
「だが……」
「持ち帰り不可です」
「……」
北井くんがぽつり。
「西さん……」
「なんだ」
「それ、ペイしません」
「……」
インちゃんが追い打ち。
『カチ、サガッタ』
「やめろ」
私は静かに戻す。
そしてつぶやく。
「なるほど」
「はい」
「評価は上がるのも早いが」
「はい」
「下がるのはもっと早い」
『ピッ』
インちゃんが鳴く。
『ペイペイ♪』
「お前までやるのか」
北井くんが笑う。
「完全に決済されましたね」
「何がだ」
「西さんの評価です」
「……」
私は遠くを見る。
(文化とは厳しいな)
――これが本当の意味での、
評価は膨らむが、触るとすぐにしぼむという現象である。




