007[アンティオキア]
007
[アンティオキア]
アンティオキア公ボエモン(1058-1111)は、次第に宗主権を巡って東ローマ帝国と争うようになりました。
そこでボエモンは、オートヴィル家宗家のシチリア伯ルッジェーロ2世へ援軍を求めに行きました。
ところが奮戦虚しく、1111年に東ローマ帝国との戦いでイタリアで死去してしまいます。
ボエモン治世から力を付けていた彼の甥タンクレード(1075-1112)は、ボエモンの遺児ボエモン2世(1107/08-1130)を公位に就け、自らは引き続き摂政として実権を握りました。
摂政タンクレードは不仲であったエデッサ伯国の協力も得、東ローマ帝国からラタキアを奪うなどして領地を拡大しました。
しかし不幸にも一年後に病死。
タンクレードの後任で摂政として実権を握ったのがルッジェーロ・サレルノ。
そのルッジェーロ・サレルノも、
1119年にはムスリム国家アレッポとの戦いで戦死してしまいます。
ところがこの頃にはシリア・セルジューク本家も紛争と飢饉が激しく、
1117年には体制は崩壊、1123年に血脈が途絶え、滅亡しました。
1118年に、エルサレム国王ボードゥアンは亡くなっており、先にエデッサ伯を継いでいた彼の従兄ボードゥアン2世(1060-1131)がエルサレム国王にも就任していました。
エルサレム国王ボードゥアン2世は、自身の娘アリックス(1110-1136?)と、アンティオキアの幼君ボエモン2世の政略結婚を実現させていました。
ルッジェーロ・サレルノ亡き後は、公妃の父であるこのボードゥアン2世がアンティオキア公国摂政を勤める事になりました。
その頃オートヴィル家の宗家を継いでいたシチリア伯ルッジェーロ2世は、一族の支配する南イタリアの支配権確立を目指しており、
1127年にプッリャ公グリエルモ2世が没するとその相続も主張して一族と争いました。
1130年2月に教皇ホノリウス2世が薨去すると、
選ばれたのはインノケンティウス2世でしたが、
再びこれに異を唱える者らが対立教皇アナクレトゥス2世を選出しました。
対立教皇は3世紀からしばしば選出されており、アナクレトゥス2世はその26人目となりました。
1130年9月、シチリア伯ルッジェーロ2世は、この対立教皇アナクレトゥス2世によってシチリア国王位を承認され、
シチリア王国を建国しました。
無論、インノケンティウス2世や時の皇帝ズップリング家のロタール3世から攻撃される事になり、南イタリアを平定するまで14年の歳月を費やす事になります。
そしてシチリア王国と名乗りながら、
シチリア島と南イタリアの両領を支配する国が出来上がる事になるのです。
同じ年の1130年2月、アンティオキア国王ボエモン2世が戦死してしまっていました。
子は、まだ3歳のコンスタンスのみ。
未亡人アリックスは、現地有力貴族の支持を得て実権を握ろうとし、アレッポを中心として急速に力を付けていたムスリム君主ザンギーと組もうとします。
アリックスの反逆が露呈すると、その父であるボードゥアン2世は彼女を流罪にし、アンティオキアがザンギーの手に落ちるのを防ぎました。
「娘アリックスが、そんな野心の持ち主だとは思わなかった……。
孫娘のコンスタンスを、アリックスから守らなければ…!」
エルサレム国王ボードゥアン2世は、エルサレム王国にアンジュー伯フールク(1089/92-1143)を婿養子に迎えます。
フールクは、ガティネ家の父と、モンフォール家の母を持つ名門貴族で、1109年来父からアンジュー伯を継いでいました。
彼は1120年頃に第一回十字軍にも参加し、エルサレム王国で守備に当たった人物でした。
フールクのガティネ家は、もともとノルマンディー家とは折り合いが悪く、しばしば敵対していました。
ノルマンディー家がブリテン島を統治するようになると、ガティネ家は婚姻によってその地を支配しようと企みます。
このフールクには、メーヌ伯女との間に既に子供がいました。
1119年に娘をアングルテール国王アンリの息子ギョームに嫁がせることに成功。
しかし翌年、不慮の海難事故で相手のギョームが死んでしまい、
アングルテール王位継承者は、ギョームの妹モードに移ってしまいます。
続いて、フールクが十字軍に参加した後の1127年。
彼は今度は、そのアングルテール王女モードに、フランスに残っていた息子のジョフロワを結婚させることを決めました。
翌々年フールクは、アンジュー伯爵位をジョフロワに譲りました。
フールクはエルサレムに定住するようになると、エルサレム王ボードゥアン2世の娘メリザンド(アリックスの妹)と再婚します。
1131年に義父ボードゥアン2世が亡くなると、フールクは夫婦でエルサレムを共治するようになります。
フールクはフランスの貴族を登用するようになります。
義姉アリックスの10歳の娘、
つまりアンティオキア女公コンスタンスに、アキテーヌ公の二男で36歳のレイモン・ド・ポワティエを嫁がせました。
「レイモン程の男がついていれば、コンスタンスを、反逆者であるその母アリックスから法的に引き離すことが出来るのだ。」
アリックスはいまだに、娘のコンスタンスを通じて遠方からアンティオキアを操ろうとしていたので、それを防ぐ為の結婚でした。
ところが、エルサレムを夫婦で共同統治を宣言していた筈のフールクが、一人で権力を振うようになり、フランス人ばかりを重用すると、現地の貴族とは不仲になっていきました。
――良い公爵だと思ったのに!
――公妃メリザンド様は、公爵に怒りを覚えている!
――我々と同じ心だ!
現地貴族は、蔑ろにされていた公妃メリザンドを誘惑、次第にメリザンドが巻き返すようになりました。
そんな1136年、アンティオキア公女コンスタンスと結婚したレイモンは、妻と共にアンティオキアを共治し、フールクに臣従を誓いました。
さてこの頃、いよいよザンギーが力を見せ付け始めていました。
それと共に、アンティオキアは、東ローマ皇帝ヨハネス2世コムネノスからの圧力にも悩まされるようになります。
1138年、アンティオキアはヨハネス2世の軍に包囲されてしまいます。
「アンティオキア公殿!十字軍とは本来どのようにして組織されたか思い出すがいい!
いま貴国らの行っていることは、侵略戦争に他ならない!
異教徒の領地だけでは飽き足らず、我が帝国の領土まで侵すとは何事か!!
十字軍は教皇に従うべきである!
いま帝国は、キリキアとアルメニアを陥とそうとしている。
アンティオキアは、私に臣従を誓い、この作戦に協力すべきなのだ!」
レイモンはこの時は何も言い返すことは出来ませんでした。
アンティオキアは、東ローマ帝国の軍によって完全包囲されていました。
……むむむ、どうすれば良いか……??―――
―――緊張が続く両軍。
十字軍は新たな砦を建築中でした。
ごごごごごご…………。
「地震だな…?」
「またか。」「最近多くないか……?」
揺れは、次第に大きくなっていきました。
「や、やばい!!」
「砦から離れろっっ!!!」………!!!
1138年10月10日。
アレッポで起きた地震の影響で、
建設中の砦は半壊、いくつかの建物も倒壊してしまいました。
軍は、翌日再度立て直しせねばなりませんでした。
しかし、10日の地震は前兆に過ぎませんでした。
「!!!ぐわぁぁっ!!」
「やばい!!」「昨日より強い!!!」
1138年10月11日。立てなくなる程の揺れ。
前日の地震で半壊していた砦は完全に倒壊してしまい、多くの兵士が下敷きにされました。
被害は軍だけではありません。
震源のアレッポの市内は、悲惨でした。
アレッポでは前年1137年11月にも大地震があり、38年10月の特大の地震。
余震は数日続き、数日置きに大きな地震があり、
体感出来る地震は11月3日まで続きました。
相次ぐ大地震で殆どの建築物が倒壊し、都市機能は失われました。
死者は、23万人に及ぶとも言われる大災害でした。
「神の怒りか……!!」
「我々は間違っていたというのか……!」
レイモンには国を建て直す財力はありません。
この時ばかりは東ローマ帝国に従う事にしました。
……しかし、ヨハネス2世の態度は気に入らぬ……!
復興が進む数年後―――。
さらにヨハネス2世は、
「アンティオキア総主教は、我々が選挙して選定する事になった。
新しい総主教が決まったら、その総主教にも臣従せよ。」と言ってきました。
「これは納得がいかない!」
1142年、ヨハネス2世は再びレイモンに対し忠誠を誓わせようとしました。
この時レイモンは帝国に背き、それを拒みました。
するとヨハネス2世はアンティオキアへ攻め込み、その土地を酷く荒らしていきました。
アンティオキアは、皇帝には逆らう事が出来ないと思い知らされたのでした―――。
さて、キリスト教国同士で争っている場合では無く、
セルジューク朝の生き残りザンギーの勢力はますます強大になっていました。
エデッサ伯国は、ここ数年ザンギーに脅かされ続けていました。
さらに、エデッサには悲劇が続きます。
1134年には、東ローマ皇帝でありエルサレム王国摂政も兼任していたヨハネス2世が4月に、エルサレム王フールクが幼い子供を残して11月に亡くなってしまう。
エルサレムは、政治不安定な状態となってしまいます。
エデッサは、アンティオキアとはそもそも仲が悪い。
トリポリとも険悪状態が続いていました。
エデッサは周囲に頼れる国が無くなり、そして1144年、ついにザンギーにエデッサは占拠されてしまうのです。
十字軍国家同士でも不安定の中、ザンギーに対処できる手立てはありませんでした。
ところがその2年後、
1146年9月、ザンギーは酒を飲んで寝ている所、西欧人の奴隷によって暗殺されてしまいます。
なんとも呆気無い死でした。
アレッポとモースルの太守を継いだのは、息子のヌールッディーン。
ここにザンギー朝による世襲が始まるのです。
といっても、強大だったザンギーの死の報道は、十字軍国家に狂喜を齎しました。
「ザンギーはもう死んだ!!
今よ!今ならムスリムの力を抑えつけられるわ!!!
手遅れにならないうちに、早く新たな十字軍を募るのよ!!」
エルサレムの未亡人メリザンドは叫びました。
幼いフールクの遺児ボードゥアン3世の摂政となったメリザンドは、欧州各国へ十字軍を要請したのでした。
ところがメリザンドは現地の民と結び付きが強くフールクと対立した経緯を持ち、
キリスト教国がムスリム国家を打倒する為の働きかけとは様子が違います。
エデッサを掌握したいメリザンドの野望が多くを占めていた為、フランス王国の影響が強いアンティオキア公国とも齟齬が生じていました。
このような状況のままで、第二回十字軍徴募の為に、ヨーロッパ各地へ特使が送られる事になったのでした。




