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046[第八回十字軍]

046

[第八回十字軍]


 ―――1269年。


    ―――集え、主なるイエス・キリストの兄弟達よ!!―――


十字軍国家最大の国アンティオキア公国が1268年5月に滅ぼされた事によって、

再び十字軍の再編を求める動きが、少なからず、有りました。

フランス国王ルイ9世が切望し、独自に集めていた十字軍遠征も間近に迫っていました。


フランス軍は、国王ルイ9世(1214-)、王太子フィリップ(1245-)、

王弟のポワティエ伯及びトゥールーズ伯アルフォンス・ド・ポワティエ(1220-)、及び、アルトワ伯ロベール2世・ダルトワ(1250-)、

ナバラ国王テオバルト2世(1239-)、

ブルターニュ公ジャン1世・ド・ブルターニュ(1217-)とその嫡子リッチモンド伯ジャン2世・ド・ブルターニュ(1239-)、

ラ・マルシュ伯ユーグ12世・ド・リュジニャン(1238-)、サン=ポル伯ギィ3世・ド・シャティヨン(1226-)などなどが派兵を決定します。


参加者の面々を軽く紹介しましょう。

24歳の王太子フィリップは、イザベル・ダラゴンとの間に出来た子、

ルイ、フィリップ(1268-)、ロベールの三人の男児に加えて1270年3月に誕生するシャルルを本国に置いての参加となります。

ナバラ国王テオバルト2世はシャンパーニュ伯であった父テオバルト1世の子。そして、

ブルターニュ女公アリックス・ド・トゥアールとその摂政ピエール・ド・ドルーの嫡男がジャン1世。

そしてジャン1世の妻がテオバルト2世の実姉ブランシュ・ド・ナヴァール(1226-)。

ジャン1世の実妹ヨランド・ド・ドルー(1218-)と、

ラ・マルシュ伯ユーグ10世(1185-1249)の子でユーグ11世(1221-1250)の子が、ユーグ12世。

祖父と父は第七回十字軍にも参加しており、それぞれダミエッタとファリスクールで戦死していました。

サン=ポル伯ギィ3世の母はブロワ女伯マリー(1200-1241)であった為、

ギィの兄ジャン・ド・シャティヨンがブロワ伯位を継いでいました。

そしてもう一人重要な人物は、

リンブルク伯の父とルクセンブルク女伯の母を持つルクセンブルク伯ハインリヒ5世(1216-)。

1256年のフランドルでの継承戦争でも大いに活躍した人物で、一時はナミュール侯位をフランドル伯ギィ・ド・ダンピエールとも争いました。

結果的にナミュール領有権をフランドルに渡す事になるも、

64年に娘のイザベラ(1247-)をフランドル伯ギィに嫁がせる他、

70年には下の娘フィリッパ(1252-)をエノー伯継承者ジャン2世・ダヴェーヌに嫁がせるなど、

ネーデルラント地域に深く影響を及ぼす貴族に成長していました。


ブロワ伯ジャンやブルゴーニュ公ユーグ4世(1218-)らは今回は不参加だったようです。

ブルゴーニュ家の不参加の理由の一つには、

長男でヌヴェール伯兼オーセール伯ユーグ(1230-1266)が既にアッコンで戦死しており、

次男で、ブルボン領主アニェス・ド・ブルボンと結婚していたシャロレー伯ジャン・ド・ブルゴーニュ(1231-1267/68)も、

一人娘ベアトリス(1257-)を残して9月に亡くなったばかりである事も挙げられるかと思います。

但し、長男ユーグの娘マルゲリータ(1250-)が王弟でシチリア国王シャルル・ダンジュー(1227-)に嫁いでいた事から、

ブルゴーニュ家としてはアンジュー家に派兵していた可能性もあります。


ラ・マルシュ伯やサン=ポル伯らはかつてしばしば国王に逆らってきた勢力でしたが、

ルイ9世は数々の問題を解決させ、彼らを従わせていました。


これらのメンバーに加えて、身分の低い小貴族ながらいつの間にか王家の寵臣となっていたピエール・ド・ラ・ブロース(1230-)も王太子付きとして同行します。


こうして十字軍の面々は出揃いますが―――


「問題は、どのような経路でシリアに近付くかだ。」


国王ルイ9世が問いかけました。

アルフォンス・ド・ポワティエが、シリアの現状を説明します。


    「マムルーク朝は既にアルメニアとアンティオキアを制圧。

     さらに北側のジョチ・ウルスとも同盟しています。

     それに、ニカイア帝国とジェノヴァの協力体制を考えると、

     シャルルのシチリアからアカイア、それとヴェネツィアのクレタ島、そして、キプロスを経由するのは……?

     どうであろう?」


   「それは最も一般的なルートだが?問題は?」

   「エジプト側からの攻撃を警戒せねばならいのでは?」

   「南だけではない、北のベイリクの海賊やアルメニアの動きも警戒せねばなるまい?」


「南へ、アフリカに渡るのはどうか?

 チュニジアはキリスト教徒が多いのであろう?

 これを基点にして先ずエジプトを確実に奪取してしまう手は?」


     「バイバルスを後方から追い込む訳ですな!

      エジプトは元の政権との確執もあって、

      バイバルスが確かな政権を築けていないはず。

      西から攻めるのは、確かに名案です。」


   「チュニジアですか。

    それならば、シチリアのシャルルに詳しい事が聞けるでしょう。」………


チュニジアの首都チュニスは北アフリカでも北側に突出した場所であり、

サルディーニャ島とシチリア島との距離が殆ど変わらない場所にあります。

この為古代より北アフリカの政権とシチリア島とは関連が強く、

カルタゴ、古代ローマ帝国属州、ヴァンダル王国、東ローマ帝国と支配者の移り変わりを経験しています。

そしてウマイヤ朝支配以降はムスリムの政権が続いていました。

 北アフリカを東西に広く勢力を誇ったムワッヒド朝は、

その西部のマラケシュを首都としていました。

しかし、1196年に西部に興ったマリーン朝に多くの土地を奪われていました。

マリーン朝はますます勢力を強めており、領土の西半分は侵掠されてしまいます。

衰退したムワッヒド朝は、キリスト教傭兵の存在無くして経営が難しくなり、宗教的権威を失っていました。

この状況を打開すべく、1228年に東部のチュニスを中心に興ったのがハフス朝でした。


ムワッヒド朝の政権の在り方を否定して興ったハフス朝でしたが、彼らはキリスト教を否定した訳ではなく、

プロヴァンスやシチリアの商人らの行き来を許可し、キリスト教諸国との交易で繁栄していました。

ハフス朝が最高権力者(カリフ)を主張して繁栄する一方で、

マリーン朝もますます伸長し、1269年9月、

ムワッヒド朝の首都マラケシュが陥落し、ムワッヒド朝は滅亡しました。

ハフス朝に続いて1236年に中央部のアルジェを中心に興ったザイヤーン朝もハフス朝に従うようになっており、

北アフリカの東部はほぼハフス朝が支配するところとなっていました。


 さて。

十字軍の経路について、ルイ9世は、シャルル・ダンジューへ相談しました。


「チュニジアは確かにキリスト教徒は多く居住している。

 チュニスはシチリアの商人らが出入りして交易によって繁栄している。

 アフリカを基点とするならば、

 やはりハフス朝のチュニスを確実に確保して置いた方が良いな。」


シャルルはこのように提案しました。


――これは……。

  我ながら良い作戦だぞ。

  ティレニア海に浮かぶ二つの島、

  コルス島はジェノヴァ、サルディーニャ島はアラゴン。

  この二つの島からギリシアへの航路を、

  シチリア島とチュニスが結ぶ事で分断出来る。

  ふふん、ハフス朝との連携が上手く出来てチュニスを利用出来れば、

  ますます我が国の都市は貿易で発展するだろう!――


 ―――斯くして。


「目的地はチュニス!」


   「ハフス朝を制圧して北アフリカをキリスト教国の手に!!」


ルイ9世ら十字軍の進軍ルートは、

一般的なキプロス島を経由するルートでは無く、急遽チュニジアを経由する事に決定、

1270年初夏の出発を目標にしました。

ところが第8回十字軍の方針はいつの間にか、

シャルル・ダンジューの意図とは異なり、ハフス朝領の制圧に変わっていました。


そして今回の十字軍にももちろん高位聖職者が同行していました。


「私が十字軍に同行しよう。」


と立候補したのは、ヴィスコンティ家出身のテオバルド・ヴィスコンティ。

彼はルイ9世の聖王たる威厳にも感銘していて、

北イタリア出身ながらフランス王国との結び付きが強い人物でした。

フランス国内の教会からの覚えも良く、尊敬に値する人物とされていました。

十字軍への憧れと教会合同を夢見る彼でしたが、十字軍への立候補には他にも理由がありました。


「カルロ・ダンジョの素行をこの目でしかと見ておきたい。

 本当にシチリア国王として適正なのか。

 帝国議会や教皇庁の判断は的確であるのか。」


枢機卿テオバルトは、教皇庁の周辺でシャルル・ダンジューに胡麻をするような枢機卿が増えている事に嫌悪感を抱いており、

シャルル・ダンジューの態度を疑問視していたのです。

今回の十字軍への参加を決めたのは、シャルルを監視する意味も含まれていました。


 マムルーク朝の伸長に際して動いていたのは無論フランス王国だけでは無く、アラゴン王国からも十字軍が動いていました。

アラゴン艦隊は1269年9月にバルセロナを出港しました。

ところが途中で暴風雨に見舞われ、殆どの艦隊が大破してしまいます。

アラゴン王太子ペドロ(1239-)を含む極少数の艦だけがアッコンに到着しましたが、

「この数でバイバルスに敵うわけが無い……!

 このままアッコンに居ても現地の負担になるだけで意味が無い。

 ただちに我々は撤退しよう。」

ということで、アラゴン軍は何も出来ずに撤退する事になってしまいます。


 1970年7月1日、ルイ9世らフランス軍は、モンペリエ近郊のエーグ=モルトから出港、

さらに翌日ナバラ軍がマルセイユから出港しました。


これらの艦隊は7月18日にチュニジアに到着しました。


 一方で、イタリアで別行動を取っていたシャルルは、

フランス軍からの使者の話を聞いて、

そう、ハフス朝を攻めるつもりである事を聞いて驚きました。


「ハフス朝を攻め滅ぼすとはどう言う事だ!?!!

 チュニスがムスリムの街であろうと、

 シチリアやヴェネツィアの商人らが貿易する事であらゆる知識や文化が欧州に入り込んでくる事になる。

 何も、友好的であるハフス朝を攻撃する必要は無いじゃないか!」


何度かチュニスの十字軍と書簡を交わしますが、意見には相違がありました。


「ムスリム、ムスリムと言いますが、

 あなた方は彼らの何を知っておられる!

 ムスリムならば敵という考え方を改めなさい!」


     「聞き捨てなりませんな、その言葉。」


このやり取りを聞きつけて出てきたのが、枢機卿テオバルトでした。


     「貴方はムスリムを擁護するのですか?」


「猊下。お言葉ですが、二極化するのが間違いだと言うのです。

 ハフス朝はキリスト教徒とも友好的に付き合って来ている。

 それをわざわざ攻め滅ぼすのは愚かだと!」


     「ほぉ、その口がそんな事を?

      貴方こそ!バイバルスに協力している事を餌に、

      十字軍を利用して東ローマ帝国を我が物にしようと企んでいたのではないか。」


「な!何を!言い掛かりを!

 第一、今ギリシアの事は関係は無いではないか。

 今の議題は、貿易拠点でもあるチュニスを十字軍の発信基地とする事、

 その為に、私はハフス朝とは協力体制を取るべきだと考える!」


   「今の話、今回は聞かなかった事にしましょう。

    チュニスは、陥とす必要があります。

    聖王ルイ様もフィリップ殿下もそう考えております。

    そのような捻くれた考えを持つ者はフランスで貴方一人でしょう。」


テオバルトは嫌味たらしくそう言うと、チュニス攻めの重要性を語りました。


「チュニス攻めを嗾けたのはそなたか?!」


     「チュニス、いや、イスラームを滅ぼす事は、

      キリスト教徒として当然の事ではないか。」


「貴方は……、教皇庁は!

 様々な文化交流のあるイタリアで生活していながら、

 そんなにも前時代的な考え方をお持ちなのか……!」


シャルルは呆れて溜息を吐きました。

十字軍の本意からして、これ以上口論するとますます立場を悪くする事は目に見えて分かっていたので、シャルルは口をつぐみました―――。


 ―――現地、チュニス。

十字軍の目的が協力交渉などではなく軍事的支配であると知ると、

現地勢力から激しい抵抗を受けるようになります。

現地の十字軍は厳しい戦いとなっていました。

しかし、チュニジアでの本当の難題は、目的の相違や敵の攻撃などではありませんでした。


   「ここは……なんと環境の悪い場所なんだ…。」

   「暑くて、頭が狂いそうだ。」

   「ハフス朝との戦いよりも厳しいぞ、これは……。」


アフリカの大地は、フランス人の予想を遥かに超える悪環境で、飲み水もまともではありませんでした。

不衛生のこの土地では、既に疫病が流行ってきており、

7月後半に到着して僅か1ヶ月の間に多くの卒兵を失う事になります。

8月3日には、ルイ9世の次男ジャン・トリスタン(1250-)が死去。

トリスタンは、王領に併合されたいたヴァロワ領を伯領として69年にアパナージュされたばかり。

20歳の若さで亡くなったので子はありませんでした。

ヴァロワ伯領は再び王領に併合されました。


そして、さらに、8月25日―――。


    「父上っっ!!」

    「兄上……。しっかりしろ!

     何の為にここまで頑張ったんだ!」


横たわり苦しむ人物、それは、聖王ルイ9世でした。


「‥‥……王位を継ぐ我が息子よ……。

 ひとつ……、これだけは……、、


 神を愛す事を、心掛けよ。

 そして、、キリスト教徒とは、、あらそ、うことの、なく……

 ムスリムをくちく、、、して………・・、

 エルサレムを…‥‥・・・」


 ―――――絶命。

フランス国王ルイ9世、疫病に死す。56歳でした(1214-1270)。

十字軍に常に情熱を注いできた聖王ルイは、まともな聖戦を行なえないまま、チュニスの地で崩御――――――。


  ―――……‥‥・・・


  「兄上!!!!」


シャルル・ダンジューは艦を降りるなり一目散に駆け出してルイ9世王の陣所へ向かいました。

しかしシャルルは、ルイ9世の死に目に間に合いませんでした。


   「アンジュー………。」


「くっ………!間に合わなかったのか……!!

 せめて、、一言だけでも、、会話をしたかった……!!!」


シャルルはがくっと肩を落としました。

王太子フィリップはまだショックから立ち直れずにいました。

折を見てポワティエ伯アルフォンスは口を開きました。


   「アンジュー、

    このままチュニスに滞在するのは、本当に命取りだ…。」

   「既にこんなに多くの死者が出てしまった……。」

   「こんな状況では戦いなんて出来やしない………。」


――悲嘆に暮れている場合ではない……!――


シャルルは無理矢理立ち上がりました。


「殿下……!いえ、陛下……!

 今はもう死を嘆く時ではありませんぞ……!」


既に目を赤くしていたシャルル・ダンジューが、新王“フィリップ3世”に声を掛けました。


「この十字軍の方針は間違えている。

 今すぐハフス朝スルタン・アブドゥッラーに弁明し、

 貿易回復の為に和平交渉をする。」


   「ハフス朝と和平するのか?」


「当然だ!!

 友好的であったハフス朝とは和睦しなければならない!

 それに今このまま十字軍が居座っていても、疫病で全滅するだけだ!」


一同沈黙。

枢機卿テオバルトも、現地の悲惨な状況を目の当たりにしてこれ以上の駐留は良くないと判断していました。

シャルルの指導力を煙たく思いながらも、和睦には否定しませんでした。


「では……。」


フィリップ3世王が口を開きました。


「少しでも病の疑いのある者は直ぐに撤退の準備をして帰国せよ!

 帰国して早くまともな空気に触れるべきだ。」


  「陛下の言う通りです。

   陛下は大事なお方、貴方も早く帰国されるべきです。」


「いや……!

 この十字軍は父の悲願であった。

 そして私もその影響を受けて強く望んで父と共にここまで来たのだ。

 成し遂げるまで、帰国は出来まい!」


  「しかし貴方はもう国王となられる方。

   御身を大事にせねば……。」


「御身は大事にしている。

 しかし私には既に四男に恵まれている。」


  「では、覚悟は出来ていると。」


「無論!」


  「では国王として、まずやるべき事は。」


「心得ている。

 ポワティエ殿!

 軍資金の残りで賠償金に充てられる分を算出してくれ。

 こちらが仕掛けた戦ゆえ、我々は不利な立場である。

 少しでも有利となるネタを拾い集めて欲しい。」


   「は!承知致しました。」


シャルルとアルフォンスは、フィリップがしっかり自立出来ると確信して大きく頷きました。

こうして、十字軍とハフス朝は和平交渉を開始しました。

この頃フランス軍とは別に、8月にフランスから出航していたアングルテール軍は、チュニスの状況を知って足留めを食らっていました。

枢機卿テオバルトは、

「何故到着が遅れた?!

 もっと早く合流していればまともに戦えたのではないか!」

と抗議しましたが、もうそれも後の祭り。

十字軍はハフス朝側に対して、待ち惚けを食らっているアングルテール軍が絶対にチュニスに危害を加えない事を条件にして、

チュニスへの上陸と補給の許可を願い出ます。

そして本題である和平交渉は、貿易回復の為に、当然ハフス朝に有利な条件で進んでいくことになります。

多額の賠償金を払う事を約束し、これまで通りの自由貿易とキリスト教徒の保護を約束しました。


10月29日にアングルテール軍はチュニスに上陸しました。

主要なのはアンリ3世の嫡子エドゥアルド(1239-)と、次男エドマンド(1245-)。

エドマンドはレスター伯の他、前レスター伯と共に反乱を起こしたダービー伯の所領も得ており、

ダービー伯領の北に拡がるランカスター領の開発を管理するよう1267年に初代ランカスター伯爵の称号も獲得していました。

エドマンドは、大きな十字架を背負って現れました。

よって常に猫背の状態だった、もしくはそれで腰を痛めたかの理由で猫背であった為、

クラウチバックという渾名が付けられました。

ちなみにエドゥアルドは長身であったのでロングシャンクスという渾名で呼ばれていたとか。


アングルテール軍は積荷作業、病人の受け入れなどを行い、

到着の翌日10月30日に、

残存するフランス軍と共にチュニスを撤退、一路シチリア島へと向かいました。


シチリア島へ引き返した軍内にも既に病に罹っている者が多数いて、死者はなかなか減りませんでした。


ナバラ国王テオバルト2世(1238-1270)、シチリアにて12月4日に病没―――。


シチリア島にて、フランス国王ルイ9世やナバラ国王テオバルト2世の死が母国へと伝えられました。


フランス国王位は、嫡男のフィリップがフィリップ3世として即位。

フィリップ3世には、アラゴン王女(ハイメ1世娘)イザベル・ダラゴン(1247-1271)との間に6歳のルイ(1264-1276)、2歳のフィリップ(1268-)、

1歳のロベール(1269-)、0歳のシャルル(1270-)がいました。

そして、1271年1月、5人目を、死産。

そしてその直後の1月28日、妃イザベルは、不慮の落馬事故の為に死去してしまっていました。

ルイ9世王の死後にイザベルは王妃という地位となったものの、

その新国王フィリップ3世に会う事なく、王妃として戴冠式に出席する事なく没してしまったのです。


 そして―――


  ―――ナバラ王国パンプローナ。


王宮の門へ早馬が駆け入って行きました。


   「テオバルト2世王、御逝去……!!!」


その報せを受けて、王弟エンリケ(1244-)は重い体を揺らしました。


「兄さんが……?死んだって??」


肥満体質ならではの声を王宮に響かせました。


「本当に……???兄さんが死んだのか……?

 ど、どうすればいいんだ??

 だって、、兄さんには、子がいないぞ??

 では、王位は、誰が……???」


テオバルト2世と、ルイ9世娘イザベル(1241-1271/04/17)の間に子がいませんでした。

その為、実弟の、この肥満の男エンリケが王位継承者第一位でした。

エンリケは動揺して、何も出来ずにいました。


   ――あぁ、まさか、テオバルト様がお亡くなりになるとは……。――

   ――エンリケ様が国王に??――

   ――あの人に国王位が務まるのでしょうか…。――

   ――悪い人では無いのだけれど……、どうも……。ねぇ。――


エンリケの即位に、王宮の皆は不安で仕方ありませんでした。

望みは、エンリケの王妃ブランシュ・ダルトワ(ルイ9世の弟アルトワ伯ロベールの娘)が懐妊中だった事。


   ――ブランカ様が、無事に子を産んでくれるのならば……!――


ナバラ王国では、1271年3月にエンリケが国王に即位しながらも戴冠式は行われず、

翌月4月17日に生まれた王女フアナ(1271-)の成長と、次の男児に期待する事になるのです―――


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