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047[第九回十字軍]

[047]

第九回十字軍


 ―――1271年4月。


この頃、マムルーク朝のバイバルスは、もちろん何もしていない訳では有りませんでした。

1270年夏、第八回十字軍のチュニジア侵攻に対抗すべく、エジプトへの進軍を進めていました。

しかし、十字軍がハフス朝と休戦して撤退を決めたので、バイバルスもエジプトから兵を退きました。

というのも、バイバルスは、先ずはシリア地方を完全に掌握すべく、トリポリ確保を優先したかったからでした。

69年にアンティオキアを陥落させたとは言え、

アンティオキア公兼トリポリ伯であるボエモン6世はトリポリで籠城していました。

バイバルスは、71年からトリポリの東の境目の城である『騎士城塞(クラック・デ・シュヴァリエ)』の攻撃を開始。

クラック・デ・シュヴァリエは聖ヨハネ騎士団によって建造された、

この当時でも最も優れた要塞であると評されている山城で、聖ヨハネ騎士団の本部でもある城砦でした。

12世紀の間で追加普請が行われて要害性を増しており、まさに難攻不落の城でした。

バイバルスは一旦この城の攻略を諦めて、2月に付近にあるテンプル騎士団の城塞都市であるサフィータ城を攻略。

その後バイバルスはクラック・デ・シュヴァリエの包囲を再開、

3月29日までに南側の塔を破壊し、

捕虜を殺害する等の行為で騎士団に対して恐怖を植え付けました。

それからバイバルスは偽のトリポリ伯からの降伏許可状を送付。

これを真に受けた城砦方は、開城してしまいます。

こうして4月、調略によって難攻不落のクラック・デ・シュヴァリエは落城しました。

トリポリの街は包囲されてしまいました。

トリポリには各地各城からのキリスト教徒の難民で溢れかえっており、

食糧はおろか寝泊まりする場所の確保すら難しい状況となっていました。


「このままでは自滅してしまう……。

 なんとか、この街の確保だけでも……。」


ボエモン6世からバイバルスに対して休戦の申し入れがあるものの、


「馬鹿馬鹿しい!休戦になど応じるものか。

 これまで何度も同盟相手を変えるような狡猾な国の者、

 自分の利益しか考えないような者の言葉など信じれるものか!」


とトリポリを嘲笑し包囲を継続していました―――……


   ・・・‥‥……―――


  ―――シチリア島パレルモ。


シチリア国王カルロことシャルル・ダンジューは尋ねました。


「アングルテール王子エドゥアルド殿、

 第八回十字軍はこのような事態となってしまった。

 あなた方アングルテール軍は、この後どうされる?」


   「我々の道は決まっております。

    トリポリやアッコンに残された同胞を救い出してマムルークの脅威を取り払うべく尽力いたします。」


「うむ、よくぞ言った、エドゥアルド殿。

 では、十字軍はアッコンを目指し、

 トリポリ伯国とエルサレム王国を救援しよう!」


新たな十字軍の方針は決まりました。

第八回の続き、若しくは第九回十字軍と呼ばれる事もあるこの十字軍は、

エドゥアルドと弟エドマンド・クラウチバックを中心とするアングルテール軍が主導する事になります。

シャルル・ダンジューとアルフォンスの兄弟、及びフィリップ3世は、

チュニスとの国交回復と、新王即位の準備を進めなければなりませんでした。

聖王の突然死は国民にとって衝撃的なはずであり、

その為にまだ影の薄い若干26歳のフィリップ3世も、

先王と同様に偉大であると周知させなければならなかったからでした。


 1271年4月。

エドゥアルドとエドマンド率いる十字軍はシチリアから出航しました。

とはいえ、騎士225騎を含めて1,000人程度の小規模な軍隊でしかありませんでした。

十字軍に協力するのはリュジニャン家のキプロス国王ユーグ3世(1235-)の他、

キリキア・アルメニア国王レヴァン3世(1236-)も名を並べます。

レヴァン3世は、

「亡き父王はあえなくマムルーク朝に降伏したが、

 私はれっきとしたキリスト教徒である!!

 皆の者!!私に付いてきてくれ!

 キリスト教国としての意地を見せつけるのだ!」

と宣言し、十字軍の為に兵を準備します。


十字軍の基地はキプロス島となり、エドゥアルドはユーグ3世と面会します。


「ユーグ殿が軍を準備している間に、

 我が軍は先行してアッコンへ向かう!」


エドゥアルドは、まだ準備の整わないキプロス軍を待たずに軍を進める事にしました。

4月下旬にキプロスを出発し、エドゥアルド軍は5月9日にアッコンへ到着しました。

エドゥアルドが先行してアッコンに向かったのは、

モンゴル帝国との交渉を早く進めたかった為でした。

この頃欧州世界では、モンゴル帝国はイスラームを共通の敵とする仲間であると認識されており、それが一般常識となっていました。

エドゥアルドは、モンゴル帝国のうちキリスト教に帰依していたイルハン朝との同盟を持ち掛けようとしていたのです。


トリポリを包囲していたバイバルスは、このアングルテール軍出陣の情報を得ていました。


   「おのれ、侵略軍がまた来るのか……!

    やはりこのままでは駄目だ。

    恐らく大戦となろう。

    ダマスクスで一度軍を整える!

    狡猾者め!命拾いしたな!」


バイバルスは舌打ちして、トリポリの包囲を解き、

一度ダマスクスに退く事にしました。


アッコンの様子を見に行った一部のマムルーク軍は、

エドゥアルド軍はほんの少数の先行隊に過ぎなかった事を知ります。


   「敵は少数!襲え!!」


予想していたよりもバイバルスの行動は早く、エドゥアルド軍は急襲されてしまいます。

想定外の急襲で、エドゥアルド軍は敗退してしまいます。

その後やがて、

弟エドマンドとキプロス国王ユーグ3世の軍が到着。


「ユーグ3世殿!誠に心強い!!」


「エドゥアルド殿の方針通り、イルハン朝との同盟に我々も協力しよう。

 モンゴル軍との挟撃作戦を!」


さて、キプロス軍が大陸に到着した為、

キプロス島には軍は留守になったと思われていました。

6月、これを狙ったバイバルス軍でしたが、

実は体制を立て直すべくエドゥアルド軍がキプロスに帰還していました。

エドゥアルド軍はキプロスを狙ったバイバルスを見事に撃退しました。


「よし!!これならばいけるぞ!!」


その後にアングルテール軍はシリアに再上陸しますが、

こちらでは、再び劣勢に追い込まれてしまいます。

一進一退、どちらも消耗戦が続いていました。


 ―――……‥‥・・・‥‥……―――


 一方、シチリア島。

ポワティエ伯アルフォンスは、弟シャルルと共にシチリア島に滞在し、

新国王の帰途の資金工面などの雑用をしていました。

フィリップ3世が5月21日にパリに無事到着した事を知ると、アルフォンスも帰国の準備をします。

6月、アルフォンスはメッシーナからフランスに向けて出発。

しかし、彼は既に病に罹っていました。

チュニスから潜伏していたのか、はたまた船で貰ったものなのか。

病身の為に航海は中止せざるを得ず、中央イタリアに寄港します。


  ――フィレンツェなら良い医者がいるかも知れん!!――

  ――早くお運びするのだ!!――


しかし、アルフォンスの容態はみるみるうちに悪くなり、

シエナで身動きが取れなくなりました。

そして、8月21日、逝去しました(1220-1271)。

しかもさらに、彼に導かれるように、

8月25日、遠く離れたトゥールーズの地で、

アルフォンスの妃であるジャンヌ・ド・トゥールーズ(1220-1271)も逝去しました。

二人の間には子がありませんでした。

ルイ9世との約束通り、二人の持つ所領(ポワティエ伯領、サントンジュ伯領、オーヴェルニュ伯領、トゥールーズ伯領)は王領に併合される事になります。

ただし、1259年のパリ条約の取り決めにより、サントンジュ南部他の一部の領土はアングルテール国王領に割譲されました。


さて、国王フィリップ3世はというと、

摂政アルフォンスの居ないまま、1271年8月15日にランスで戴冠式を挙行しました。

戴冠式のいろいろな決め事、その他の内政は全て寵臣のピエール・ド・ラ・ブロースに任せる事ができました。

即位後間も無い8月21日にポワティエ伯アルフォンスが逝去。

彼の所領の殆どはフランス国王となったばかりのフィリップ3世が継承する事になります。

これに異を唱えたフォワ伯ロジェール・ベルナルド3世(1243-)が反乱を起こしますが、フィリップ3世は難なく平定。

さらに、ついでにピレネーにまで出向き、

わざわざ「我が新国王なり」と言わんばかりにお披露目行脚をしたりもしました。

世間的には、フィリップ3世が、アンジュー伯シャルルとポワティエ伯アルフォンスという二人の摂政の傀儡であるかに思われていました。

この行脚は、新国王が既に親政も行なえる真の国王であるという事を世界中に識らしめる為の行脚でした。


他方、叔父に当たるシャルル・ダンジューは、対外政策を進めていました。

ヴェネツィアとの協力体制を敷いてアドリア海の航行を柔軟にし、

バルカン半島側への進出を企んでいました。

ギリシア各方面へも政略結婚を行ない、これにより勢力拡大を目論んでいたのです。

既にシャルルの所領は、事実上アカイア公国の後継者となってこれを受け継いでおり、

また、ラテン帝国皇帝ボードゥアン2世の亡命を受け入れて擁護しており、ラテン帝国の継承権も得ようとしていました。

この他にもハンガリーや、セルビア、ブルガリアと交渉し、ギリシア帝国を孤立させようと準備を進めていました。

周囲から身内で固め、パレオロゴス家に支配されたコンスタンティノポリスを奪う事を目論んでいたのです。

また、フィリップ3世を神聖ローマ皇帝に推選し、ローマ教会にも接近します。

フランス、ドイツとローマ、さらにギリシアと、

さらに教会をもカペー家によって支配する事を構想していたのです。


  ―――……‥‥・・・‥‥……―――


 ――――ところが。


    1271年9月1日、ローマ教皇庁。


前教皇クレメンス4世の崩御より2年10ヶ月の時を経て、

ついに新しい教皇が決定しました。


   「ヴィスコンティ殿を置いて他にあるまい。」

   「フランス派とイタリア派、両の意見を組んでいる。」

   「そう!彼は聖王ルイとの繋がりでフランスとも親しいのだ。」

   「何より敬虔。東西教会合一の意思も硬い。」

   「では、新教皇は、テオバルト・ヴィスコンティ殿で、決定じゃな。」


新教皇の名はグレゴリウス10世、

本名はテオバルド・ヴィスコンティ。

61歳の彼は、この決定が下った時はまだ十字軍と共にアッコンに滞在していました。


 ・・・‥‥……―――


     ・・・‥‥……―――


      ―――アッコン、十字軍の駐屯地。


「決定……?」


枢機卿テオバルトは、寝耳に水の状態でした。


「候補者の一人に名前が挙がった、の勘違いでは無いのか?」


これを報告する枢機卿は、

確かに、テオバルトが教皇に任命されたと明記された書類を持っており、

彼の事も信頼出来る事が証明されました。


「私が、教皇になったというのか……?」


開いた口が塞がらないでいました。


「だが、私はまだ十字軍の監督を務めなければならない。

 よって直ぐにローマに引き返す事は出来ん。」


   「そう仰るだろうと思っておりました。

    是非、十字軍については出来るところまで指揮していただきたいとのお願いです。」


「うむ、心得た。」


テオバルト・ヴィスコンティ改め、教皇グレゴリウス10世は心改めて思いを発言しました。


「戦地に滞在していて思ったのだが、

 やはりムスリム国家を屈服させるには、同じキリスト教国同士が争っていてはならない。

 今カルロ・ダンジョ殿が標的としているのは、東ローマ帝国。

 それはやはり間違えておる。

 我らの敵はマムルーク朝でありイスラームだ。

 東ローマ帝国とは和睦、つまり、東方の教会と西方の教会は再度合一を図り、キリスト教国は一致団結しなくてはならん!

 カルロ・ダンジョを即刻ギリシアから呼び戻し、

 アッコンのイングランド軍に合流させよ!!!!」


恐らくは性格的に全く合わないシャルルとグレゴリウス10世。

彼の教皇就任により、ギリシア帝国を十字軍の敵として攻撃する事を目論んでいたシャルルの野望を挫く事になってしまいます。


  ―――やられたか……!!

     まさかそう来るとは思わなかった……!

     今は、教皇に従うしか無い。

     しかし、“今の”教皇には、だ。

     教会にも俺の息のかかった者はまだまだいるのだ。

     俺に従う者を教皇に就かせる事が出来れば、野望は達成できる……!――――――


シャルルは、とりあえず教皇グレゴリウス10世に従う姿勢を見せ、

シリア行きの準備を始めました―――…‥‥・・


  ―――……‥‥・・・‥‥……―――


 夏、キプロス島からアッコンに戻って来ていたエドゥアルドは、

モンゴル・イルハン朝のアバカ(1234-)との連絡を続けていました。

そして9月始めにモンゴルとの交渉が成立し、あとは軍の到着を待つばかりとなっていました。


そして、10月の終わり頃。


 ―――アレッポ。


イルハン朝軍が、バイバルスによってトゥルク系民族に保護を任せていたアレッポを急襲しました。

アバカがアレッポに送った軍は、アナトリアのセルジューク系の傭兵1万程度でした。

アレッポ側から見れば少数でしたがセルジューク系の人間は、同じトゥルク系民族の性質を理解していたので、

アレッポの陥落はあっという間の出来事でした。


 ‥‥……―――そして1271年10月末、エルサレム、マムルーク軍。


     ――バイバルス閣下!大変です。

       アレッポからの報告です!

       モンゴル軍から攻撃を受けています。

       相手は1万程だと言いますが、かなり強力だという事で、劣勢です!――


――なにっ!?モンゴル軍だと?!

  うぬぬ、弱ったな……。トゥルク人が攻めてきたか……。

  分かった。

  フランス人は時間を掛ければ何とかなる筈、後回しだ。

  アレッポを救援する!北上だ!!――


バイバルス軍は北上し、モンゴル軍に荒らされたアレッポへ向かいました。

11月12日、アレッポに到着したバイバルス軍ですが、そこには既にモンゴル軍は居ませんでした。

アレッポを襲ったイルハン朝軍は、アレッポを確保せず、

金目の品々を漁ったのみで撤退してしまっていたのです。


――退却した???なぜだ???

  ま、まさか、囮か?!

  俺の主力軍を北上させて、エルサレムを攻撃する心算なのでは?!!――


バイバルスは、十字軍とモンゴル軍が謀って攻撃してくると思い、急いでダマスクスに戻りました。


――敵をエルサレムに発たすな!!

  アッコンで足留めせよ!!十字軍の船を壊せ!!――


マムルーク軍は急遽ダマスクスから南下してアッコンを目指しました。


一方、アングルテール軍は、アッコンより南下してエルサレムへと向かっていました。

カイサリア、そしてハデラから内陸部へと移動し、

エルサレムへの橋頭堡でもあるカクンの村でマムルーク軍との対峙中に、バイバルスの軍が引き返しているとの報告を受けるのです。


「なんだって??

 もうマムルーク軍が戻って来るだと?!

 モンゴル軍はどうした???」


   「それが……!

    アレッポはもぬけの殻…!

    モンゴル軍は既に撤退していたのです!!」


「モンゴル軍が居ないだと??

 何故だ?!?!

 それで……、バイバルス軍は直ぐに引き返して来たのか!!」


エドゥアルドは下唇を噛みました。

アングルテール軍にとっても、イルハン朝軍の撤退は完全に想定外でした。


   「兄上!!直ぐにアッコンへ返しましょう!

    恐らくはバイバルスも怒って直ぐにアッコンを攻撃しかねない!」


「くっそぅ……!どいつもこいつも……!

 直ぐにアッコンへ!!!」


そして12月、アッコン近郊でアングルテール軍とバイバルス率いるマムルーク軍が衝突。

しかし、アングルテール軍は千程度、勝算は薄い。

ところが対するバイバルス軍は移動に移動を重ねて振り回されていた為、

非常に士気の低い状態でした。

戦闘は、五分五分でしたが、最終的にはアングルテール軍の敗退でした。


   ――これ以上の戦いはもはや無意味……。――


バイバルスは既にそう感じていました。


「これ以上はもう消耗戦に過ぎん。

 我々キプロス王国は、マムルークとの休戦を望む。」


ユーグ3世は休戦を望むようになっていました。

エドゥアルドは当初は反対したいましたが、

やはり周囲の様々な意見を聞くと、休戦した方が良いと判断しました。


「今回は負けを認めるが、5か月前の海戦で我々は多くの捕虜を得ている。」


キプロス島の海戦では、アングルテール軍がマムルーク軍に圧勝していました。

この戦いがあったお陰で、交渉は優位に進められる状況にありました。


   ――今回の戦いで、状況は再び五分五分となった。

      しかし我々としては、東方のイルハン国と西方のキリスト教国に挟まれた状況は脱したい。――


十字軍とマムルーク朝は、休戦交渉を開始しました。


「だが………。」


エドゥアルドは腑に落ちない感じでした。


「我々は何の為にこの地まで来たのか………。

 エルサレム奪還はキリスト教徒全ての者の悲願とばかり思っていた。

 だが、それはもしや、遠い時代の事なのか?

 キリスト教国同士の戦いが相次いでいて、

 聖地奪還など二の次、三の次。

 それが現実という事なのか……。」


   「他国との貿易を優先するようになった、

    といえば聞こえが良いのかも知れませんが、

    別の言い方をすれば、

    神を忘れて自己利益に走っているとも……。」


エドゥアルドとエドマンドは複雑な心境でした。


―――――― 。


休戦交渉が始まった為、シチリア国王シャルル・ダンジューは、

運良くもシリアに行きそびれる恰好となりました。


「ふん……。教皇に文句を言われるかも知れんが、

 こういう状況なので仕方がない、という言い訳が出来る。」


地中海の覇権確立に勤しんでいたシャルル・ダンジュー。

1271年2月に、アルバニア王国との同盟を取り付けてアドリア海の制海権をも手に入れていました。


戦地に居たグレゴリウス10世は、シリアでの戦闘が一応終結していたので、ローマに帰還しました。

1272年3月27日、グレゴリウス10世の戴冠式が行われました。

シャルル・ダンジューはこれに出席する為にローマを訪問。

この時にジェノヴァから亡命してきた教皇派(ゲルフ)の指導者と面会し、

反ジェノヴァの野党への軍事支援も約束しました。

その野党はコルス島の一部を占領するなどしており、

シャルルはヴェネツィアとジェノヴァの戦争にも大きく介入していくようになりました。


  ――我々の自治体(コムーネ)は王国の属国ではない!――

  ――カルロ王など認めてはおらぬ!――

  ――シチリア王国など関係ない、我々は我々の国だ!――

  ――俗世の領主が教会に口を出すとは何様であるか。――


北部イタリアの各コムーネは、教皇派(ゲルフ)皇帝派(ギベリン)で対立し続け、

またシャルル・ダンジューを認める者、認めない者、

そもそもフランスの支配を望まない者、

教皇や封建領主との結び付きを望む者、独立しようとする者などでいくつもの党派が誕生していました。

中でも、最も発達した都市であるフィレンツェは主にゲルフ党でしたが、

その中でも貴族支持である『黒党(ネーリ)』と独立を望む『白党(ビアンコ)』で分裂していました。

シチリア国王のシャルル・ダンジューの存在と行ないは、

北部イタリアのこれらの党派の争いを間接的に煽っていたのてました。


 ……―――――さて、シリア。


聖地に残る十字軍は、バイバルスと休戦交渉が進められていました。

5か月間に及ぶ交渉の末、

1272年5月、ナザレ近郊の港町カイサリアで十字軍とマムルーク朝は休戦が締結しました。


 休戦期間は10年10カ月と10日。


 そして、英国王太子エドゥアルド夫妻を含む一部の軍だけが聖地に残り、他は弟のランカスター伯エドマンドが率いて撤退しました。

エドゥアルドらがシリアに残ったのは、バイバルスらに条例違反が無いか暫く様子見をする為でした。


ところでエドゥアルドは、シリアに滞在している間に、

十字軍が建築したクラック・デ・シュヴァリエを訪問していました。

地中海沿岸から内陸部へと向かう唯一の道を進むと、尾根先端部に聳える高壁に覆われた全て石造りの城が見えてきました。


「おお…、見事だ……!」


エドゥアルドは周囲の地形を確認しました。

この道は港湾都市タルトゥスから東へ内陸部へと向かい、サフィータを通過し、

そしてさらに北東の山嶺を越えるとアンティオキアへ通ずるという、とても重要な街道でした。

城はようするにこの街道と峠を監視する役目を担っている城砦でした。

尾根上に登ると、城壁の高さ、厚さに驚かされます。

城壁は二重構造となっており、周囲には広い堀が掘られています。

尾根続きの南側は最も深く広く堀り切られており、水堀となっていました。

南側の外壁から内壁へ向かうには、水堀の両脇にある狭い通路を通らねばならず、

そこはもちろん外壁の塔の直下で、内壁の塔から挟撃できます。

外壁と内壁の間の堀底の通路は、当然、両の高い壁から狙い撃ちが可能な構造。

そしていざ建物の中に入ると、直ぐに多くの分岐がありました。

狭い石造りの通路が迷路のように重なっていて、同じような構造でいくつか分岐があるので、

初めてで無くても道に迷ってしまうような構造となっていました。

さらに内部は、天井は高くてアーチ状、バラ窓から良く光が入り明るい。

内庭も気持ちの良い場所で、塔に登れば街道はもちろん遠くの山々まで見渡せます。


「おおお………っ!」


エドゥアルドは移動するたびに驚嘆していました。


「素晴らしい……!

 これが100年以上前の城なのか……!

 堀だけじゃない、防御も攻撃も完璧だ。

 凄い城だ……!」


石造りの複雑な内部構造を再び見て回りました。


「ホントに凄い構造だ……。

 モット&ベリーの城をいくつか見てきてはいるが、

 ここまで素晴らしい城は見たことが無い!

 私もこんな城が欲しい……!」


――帰ったら、さっそく建築士を探そう!

  絶対にこれよりも良い城を造るぞ!!――


エドゥアルドは心躍る気分でした。


72年5月、十字軍とバイバルスの休戦が締結された後も、

エドゥアルド夫妻他はアッコンに滞在していました。

しかし6月のある日の夜―――


   ・・・‥‥……―――


      ・・・‥‥……―――


「曲者ぉっ!!!!」


真っ暗な寝室で、エドゥアルドが叫びました。


「刺客!!襲撃!!!」


     「殿下っ!!!??」


「太刀筋が甘い!!俺を殺そうとするなんて10年早いわ!!」


騒ぎに驚いて従者が寝室に立ち入りましたが、既に事無きを得ていました。


剣を抜いたエドゥアルドの足元には、ムスリムと思われる人間が死んでいました。


「暗殺者だ。」


心当たりは………、あると言えばあるし、無いと言えば無い。

休戦に不満である誰かであろうが、

バイバルス程の男がそんな卑怯な手を使うとは思えない、が、

その手下が勝手にやった事かも知れないし、

十字軍が独自に繋がりを作っていたイスラームの教団の一つハッシャーシーンからの怨みを買っていたのかも知れません。


     「殿下、お怪我は…?」


「腕に少し……。

  !!

   ん??これは??!」


怪我した傷口、それ自体は大したことは無いものの、

明らかに普通の傷とは違いました。


     「これは!毒じゃないですか!!

      早く手当てしなくては!医者を……!」


毒の塗られた剣で受けた傷。

直ぐに毒が回って、エドゥアルドは立っていられなくなりました。


   「殿下ぁぁっ!!!!」


妃であるエリナー・オブ・カスティル(1241-)は懸命に処置しました。

毒によってエドゥアルドは酷く弱りました。

懸命の看病によって一命は取り留めたものの、まともに動く事も出来なくなりました。


この時点で、聖地に残るアングルテール軍は撤退を決定。

ある程度動けるようになる9月24日にエドゥアルド一行はアッコンを発ち、シチリア島へ赴きました。


シチリアで療養中に、本国アングルテール王国からいくつかの報せが届きました。

長男ジョン(1266-1271)の死と、叔父コーンウォール伯リチャード(1209-1272/4)の死でした。

リチャードは64歳でした。

コーンウォール伯爵位を継ぐのは、彼の次男エドマンド・オブ・アルメイン(1249-)。

実はこのエドマンドも初めはエドゥアルドと共にこの十字軍に参加していました。

ところが71年3月、彼の兄であるヘンリー(1235-1271)が暗殺されたという報せを受け取りました。

犯人は、前レスター伯シモン・ド・モンフォールの遺族の者であるとされていました。

この仕返しをすべく、エドマンドは直ぐにイングランドに返し仇討ちを成し遂げました。

このエドマンドが、新しくコーンウォール伯となりました。

これらを全て見届けてから、役目を終えたと思ったのでしょう、

コーンウォール伯リチャードは息を引き取ったのです。


さらに後、予想だにしない悲報が飛び込んで来ました。


1272年11月16日、

父であるアングルテール国王アンリ3世(ヘンリー3世)崩御、65歳でした。


「父が?!亡くなった??」


   「はい……殿下。

    よって、貴方が国王となるのです。」


「な、なんと……、叔父上が亡くなったばかりというのに……。

 わ、……分かった、帰国しよう。

 あぁ、大変な事になってしまった‥‥。」


   「まだ療養中との事……。

    ランカスター殿やコーンウォール殿、

    アイルランド卿アルスター伯リチャード・オーグ・ド・バラ殿らがきちんと議会を調整してくれています。

    無理をなさらずにとの仰せです。」


「うむ……、分かった………。」


早く帰りたい気持ちもありましたが、やはりまだ身体が思うように動かない。

帰国は年を開けた頃に計画されました。


シリアに残るアングルテール軍も帰国する事になり、十字軍は撤退。

第九回十字軍(若しくは第八回)は完全に終了したのでした。


1273年、シチリアを発ったアングルテール軍は、マルセイユから上陸して内陸部を北上します。


「ぜひ、サン=ジョルジュ=デスペランシェに立ち寄りたい。」


唐突にエドゥアルドは言いました。


   「サン=ジョルジュですか?

    もう後少し進めばリヨンですのに、何故そんな小さな町へ?」


「そこに、良き建築士が居るという噂を聞いた。

 マスター・ジェイムズと呼ばれる城郭建築家だ。

 ぜひ会って、城造りの話を聞きたいのだ。」


1273年6月25日、リヨンの手前で、

サヴォイア伯国内の小さな町サン=ジョルジュに住むマスター・ジェイムズと会いました。

そこでエドゥアルドは数多くの設計図を目にし、興奮しました。

マスター・ジェイムズはサヴォイア伯ピエトロ2世の宮殿を始めに、

サヴォイア伯国内のいくつもの城を設計、建築を行なっていました。


「サヴォイア伯ピエトロ2世殿!

 ぜひ、マスター・ジェイムズを我が国で召し抱えたい!

 どうか頂けないだろうか!」


エドゥアルドの真剣な表情にサヴォイア伯は頷きました。


   「ジェイムズ殿が行くと言うならば仕方ない。」


マスター・ジェイムズは跪いて答えました。


  「ピエトロ様、勝手をお許しください。

   私はイングランドに渡り、エドワード国王陛下に仕え、

   エドワード陛下のお役に立ちたく思います。」


こうして石工に生まれた城郭建築家のマスター・ジェイムズ・セント・ジョージ(1230-)がアングルテール王国に渡る事になります。


エドゥアルドはゆっくりと北上して、

パリを経て、74年夏にようやくブリテン島に帰郷し、

1274年8月19日、正式にエドゥアルドはアングルテール国王に戴冠しました。

イングランド国王エドワード1世が誕生しました―――


   ―――……‥‥・・・


 この時点での、西欧主要各国の国王は以下―――


ポルトガル国王アフォンソ3世(1210-)

カスティリア国王アルフォンソ10世(1221-)

アラゴン国王ペドロ3世(1239-)

両シチリア国王シャルル・ダンジュー(1227-)

フランス国王フィリップ3世(1245-)

イングランド国王エドワード1世(1239-)


神聖ローマ帝国では大空位時代を経て、

1273年についにハプスブルク伯ルドルフ(1218-)が選出されましたが、

これに、ボヘミア国王オタカル2世(1230-)が対立していました―――

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