後編 君の声が聞こえた
その言葉が引き金だった。
眩暈がするほどのフラッシュバック。
夏。
いや、違う。
雪がちらつく寒い夜。
去年の年末。
俺はこのホームで、向かい側のホームに立つ彼女を見つけた。
可愛い。
そう思った。
彼女が何かを呟き、俺を呼んだ気がした。
彼女の声を聞きたくて、もっと近づきたくて、俺は足を進めた。
視線の先には、黄色い線。
そして……。
ガガガガガガガガガ!
激しい金属音。
ヘッドライトの光。
激しい衝撃。
赤い水溜まり。
救急車のサイレンの音。
運ばれた病院の、静かなICUの機械音。
そして──すべての音が消えた。
「そうだ……思い出した……。」
俺は、入院なんてしていない。
自宅療養もしていない。
あの年末の夜、俺はここで電車に轢かれて……。
同級生の返事は曖昧だったんじゃない。
俺の声が届いていなかった。
トイレの順番を抜かされたんじゃない。
俺の姿が見えていなかった。
階段でぶつかった男は無視したんじゃない。
空気の塊を通り過ぎただけ。
俺は、半年以上も、ただ彷徨っていただけ。
すべての音が消え去った世界で、俺は立ち尽くしていた。
向かいのホームを見る。
線路を挟んだ向こう側にいるはずの彼女が、いつの間にか、俺の隣に立っていた。
いつの間に線路を渡ったのだろう。
いや、違う。
彼女も、俺と同じだ。
俺たちには、距離など関係がなかった。
俺がこちら側のホームに縛り付けられていただけ。
彼女との間に、勝手に距離を作っていた。
「やっとお話しできたね。」
彼女が、小さく笑った。
その声は、俺に直接響いている。
「ずっと、ずっと呼んでいたのよ。誘ったら、すぐにこっちに来てくれたのに。あの日から、なかなか声が届かなくて。私、すっごく寂しかったんだから。」
彼女の言うあの日。
あの年末の夜のことだ。
思い出した。
俺は確かに、向かいのホームにいた彼女に呼ばれた。
俺の耳にどうして彼女の声が届いたのかはわからない。
だが、彼女のその可愛らしい姿と、微かに聞こえた声に誘われるように、俺は黄色い線を越えた。
「俺を、誘った……? ずっと、俺と話したかったの?」
「そうだよ。あなたも、そうだったんでしょ?」
彼女は嬉しそうに首を傾げた。
「だって、向かい側のホームからずっと私のことを見ていたでしょう? 私のこと、可愛いって思ってくれているよね? 私と仲良くなりたかったんでしょ?」
「それは……。」
確かにそうだ。
俺は彼女に憧れていた。
「ああ。君と仲良くなりたかった。期末テストが終わったら、ふたりでどこかへ行きたいとさえ思っていた。」
「よかった。私たち、両想いだったんだね。」
「両想い?君も僕を?」
「うん。あの日、あなたと話がしたくて呼んだの。そしたら、あなた……。嬉しかったなぁ。」
彼女の目は、楽しかった思い出を語るように、うっとりとしていた。
「でも、あなた、自分の状況がわからなくなっちゃったみたいで。すぐに起き上がって、学校に行っちゃうんだもん。」
「学校へ行った?」
「そうだよ。何度も声をかけたけど、音がうるさいから、私の声が聞こえなかったみたい。」
「音がうるさい?」
「電車の音とか、お客の声とか。私の声、全然届かなくて。」
彼女は、つまらなそうに唇を尖らせた。
そうか。
俺が「生きた音」にしがみついていたからだ。
今はもう「生きた音」は聞こえない。
電車の轟音も、客の文句も、俺の耳に届かない。
「でも、気づいてくれた。嬉しい。これで私たちは、ずっと一緒だね。」
彼女は俺の手を握った。
感触はない。
熱もない。
だが、俺の中に入ってくる。
一つに溶け合うような感覚。
「う、うん……。」
俺は、拒絶することができなかった。
もう、俺には戻る場所がない。
俺には、もうこの場所しか残されていない。
「……これから、二人でどうするの?」
俺の問いに彼女は顔を輝かせると、俺の左腕にしがみついてきた。
「あのね、私、あなたっていう彼氏はできたでしょう? 今、すっごく幸せよ。でもね……。」
彼女は少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
「でも、何?」
「お友だちが、いないの。特に、女の子のお友だち。」
「女友だち……?」
「そう。私、学校でも一人だったから。こうして、あなたと付き合うことができたし、女の子のお友だちを作って自慢したいの。」
彼女の言っている意味が、理解できなかった。
「女友だちを作って、俺を紹介したいの?」
彼女は、ゆっくりと視線を動かした。
こちら側のホームの、黄色い線のすぐ内側。
電車の到着を待つ、一人の女子高校生が立っていた。
「だからね、あの子に声をかけようかなって。」
彼女の声が俺の脳裏で不気味に響いた。
「え……?」
「あの子、ちょうどいいと思うの。寂しそうな顔をしてる。」
紺色のスカート。
短いソックス。
どこにでもいる、普通の女子高校生。
「ねえ、私とあなた、ふたりの声なら、あの子の耳に届くよ。」
無理だ。
そんなことはできない。
俺は激しく首を振った。
彼女は不思議そうに、小首を傾げた。
「声をかけるだけだよ。あの子の耳元で、囁くの。ねえ、一緒に声をかけよう。」
「三人で話をするの?」
彼女は俺の腕を強く抱きしめながら、照れくさそうに微笑んだ。
彼女は、彼氏に甘えるように自分の胸に、俺の腕を押しつける。
「あの子ね、彼氏がいないの。いつも周りを見て羨ましそうにしているのよ。だがら……あの子の彼氏も見つけてあげようよ。」
視線の先には、何も知らずに電車を待つ女子高校生。
「あの子に彼氏を見つけて、4人で話をするの?」
彼女が微笑む。
俺たちは、歩を進めた。
ふたりで、女子高校生の耳元で囁いた。
女子高校生が顔を上げる。
「え?なに?」
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