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前編 君の声が聞こえない

「やっぱり、可愛いよなぁ。」


じっとりと肌にまとわりつくような、不快な熱気。

ハンカチで額の汗を拭うサラリーマン。

うちわを激しく仰ぐ老夫婦。

ハンディ扇風機を首元にあてる学生たち。


誰もがこの季節を憎んでいるかのような顔をしている。

俺は眩しさに目を細めながら、向かい側のホームを見つめた。


俺の視線の先にいる彼女だけは違った。

陽炎がゆらゆらと立ち上る向かいのホームに、彼女は立っている。


紺色のセーラー服。

肩まで伸びた艶のある黒髪。

そして信じられないくらいに可愛かった。


俺の憧れの女子高校生。

名前も知らない。

学校もわからない。

ただ、毎朝この駅のホームで、線路を挟んで向かい合うだけの関係。


いつも俺は、こちら側のホームから、彼女の姿を眺めることしかできなかった。


いや、眺めることすら、おこがましいのかもしれない。

俺には圧倒的に存在感がなかったから。


「……はぁ。」


学校の教室でも、俺の存在感はなかった。


朝に声をかけても、同級生たちの返事はいつも曖昧だ。

聞こえているのか聞こえていないのかわからないような、小さな声で返される。

あるいは視線を一瞬こちらに向けて、すぐに別の友達との会話に戻ってしまう。


いじめられているわけではない。

無視されているわけでもない。

面と向かって悪口を言われたこともない。


ただ、みんな俺の扱い方がわからないかのようだった。


思い返せば、入学当時はもっと仲がよかった。

教室でも普通に笑い合っていたし、放課後に一緒に買い食いをして帰ることだってあった。


流れが変わったのは、去年の年末だ。


年末のある日、俺はこの駅のホームで怪我をした。

不注意から足を踏み外し、大きな怪我を負った。

その後は、長期の入院と自宅療養を余儀なくされた。


数ヶ月のブランクを経て、春に学校へ戻った。

すでに学年が上がってクラス替えが終わっていた。

新しいクラスの連中は、すでに出来上がったグループで固まっている。

俺が入る隙間はどこにもなかった。


それ以来、教室での会話はぱったりとなくなった。

俺がいてもいなくても、クラスの空気は変わらない。

そんな日々が数ヶ月続き、季節は夏になっていた。


「まもなく、一番線に、電車がまいります。」


機械的なアナウンスが駅に響き渡る。

俺はもう一度、向かいのホームを見た。

彼女がこちらを向いている。

その綺麗な瞳が、まっすぐに俺を捉えていた。


◇◇◇


存在感がないというのは、学校の中に限った話ではなかった。

この駅の構内でも、俺はまるで空気のように扱われることがあった。


ある日、お腹の調子が悪くなり、駅のトイレの前で並んで待っていた。

ようやく俺の番が来たと思って一歩踏み出した。

その瞬間、後ろから歩いてきたサラリーマンが、俺の身体をすり抜けるかのように俺の前に割り込んだ。


「あ、あの……。」


声をかけたが、男は振り返らない。

スマホの画面を見つめたまま、空いた個室へと足早に入っていった。

俺がいることすら、認識していないように。


別の日には、階段で後ろから強烈に身体を当てられた。

ズシンと肩に衝撃が走り、俺の身体は大きくぐらついた。

危うく階段から転げ落ちそうになり、必死に手すりに寄りかかった。


俺は怒鳴ろうとして振り返った。

だが、俺にぶつかった男は、謝るどころか、ただ前だけを見て階段を上がっていった。


まるで、何も存在しなかったかのように。

俺の存在感が、薄くなっているんじゃないだろうか。

そんな恐怖が、夏の暑さの中で俺の胸を焦がしていた。


誰も見てくれない。

誰も声を聴いてくれない。

だからこそ、向かいのホームに立つ彼女だけが、俺の唯一の救いだった。


俺には、気になっていることがあった。

初めて彼女の姿を認識してから何ヵ月も経つ。

彼女は時折、向かい側のホームから俺に向かって、何かを話しかけてきているように見えるのだ。

小さく唇を動かし、何かを一生懸命に訴えかけている。


だが、ここは駅のホームだ。


ひっきりなしに行き交う電車の轟音。

スピーカーから大音量で流れる駅員のアナウンス。

周囲の客たちの話し声。


あらゆる音が、彼女と俺の間を遮断していた。

反対側のホームまで、距離にしてわずか十メートルほど。

だが、音の壁に阻まれて、彼女が何を言っているのかは、わからなかった。


何度も、彼女に声をかけようと思った。

何を言っているのか聞き取るために、反対側のホームに行こうとしたこともあった。

だが、行けなかった。


学校の時間がギリギリだったり、急な体調不良に襲われたり。

反対側のホームへ向かおうとした瞬間に電車のダイヤが大幅に乱れたり。

まるで、俺をこちら側のホームに縛り付けているかのように。


それでも彼女は諦めず、毎日、俺に向かって口を動かし続けていた。

その健気な姿に、俺の胸は締め付けられるように愛おしさを募らせていった。


◇◇◇


そして、今日。

相変わらずのノイズに満ちた駅のホーム。

俺は電車を待っていた。

向かい側のホームには、彼女はいつも通り立っていた。


だが、今日の彼女は少し様子が違った。

いつもなら口を動かすだけ。

今日は両手をまっすぐ前へと伸ばしていた。

まるで、こちら側にいる誰かに、手招きをしているかのように。


彼女は、誰に向かって手を伸ばしているのだろうか。

俺の後ろには、何人かの客が並んでいる。

知り合いを見ているのだろうか。


そう思った瞬間、俺のすぐ横を歩いていたOLの女性が、足元をよろめかせた。


「キャッ……!」


短い悲鳴。

女性はハイヒールを鳴らし、泳ぐように両手をバタつかせた。

線路側へと大きく傾く身体。

俺は咄嗟に手を伸ばそうとしたが、身体が動かなかった。


女性はなんとか自力で体勢を立て直し、胸を撫で下ろしている。

そして、滑り込んできた電車のドアへと吸い込まれるように乗り込んでいった。


その時、俺の心拍数が心臓が大きく跳ね上がった。

冷たい違和感が全身を駆け巡る。

耳の奥を、不快な高音が突き抜ける。


「おかしい……。」


今、目の前を激しい風切り音を立てて電車が通り過ぎていったはずだ。

それなのに、電車の音が聞こえない。

アナウンスも聞こえない。

乗客たちの声も聞こえない。


すべての音が消えた、完全なる静寂。


──ねぇ、忘れたの?


鈴の鳴るような、ひどく澄んだ声が、俺の耳元で響いた。


向かいのホームを見ると、彼女が笑っていた。

口元に笑みを浮かべて、こちらを見つめている。

音の消えた世界で、彼女の声だけが脳内に響き渡る。


「な、何を……?」


自分の声すら、空気の振動としては聞こえない。


──あなたはもう。

やっと、君の声が聞こえた。

これから僕たちは……。

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