第八話 頂上の箱庭、令嬢の邸宅
車内の空気が、先ほどまでの「重い本音」から「甘い熱」へと塗り替えられていく。
瑠璃は奏多の言葉を聞き終えると、小さく息を吐いた。その吐息が、奏多の頬にかかる。
気づけば、瑠璃は体を奏多の方へ向けていた。彼女のサファイアのような瞳が、先ほどまでの涙の余韻を残しながらも、今は熱を帯びて奏多の唇を捉えている。
(――近い)
逃げ場のない狭い空間。
彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、奏多は思わず息を止めた。
いつもなら、彼女の突拍子もない行動にツッコミを入れて笑い飛ばせるはずだった。けれど、今の奏多にはそれができない。
瑠璃の指先が、おずおずと奏多のシャツの襟に触れる。その指先がわずかに震えているのが、服越しに伝わってくる。
「……奏多様は、わたくしを見てくださる」
囁くような声。
瑠璃が、すっと距離を詰める。
今まで彼女を「嵐」や「お嬢様」というフィルター越しに見ていたはずの奏多の心臓が、ドクンと嫌なほど大きく跳ねた。
今まで一度も感じたことのなかった、胸の奥をかき乱されるような熱さ。
(なんだ、これ……今までと、何が違うんだ……?)
瑠璃の吐息が鼻先をくすぐる距離。
真っ白な肌、透き通るような瞳、そして自分を信じきった彼女の表情。
奏多は無意識のうちに、隣にいる彼女の肩に手を伸ばしかけて――その直前、バックミラー越しに綾部の視線と交差した。
「――目的地に到着いたしました」
綾部の無機質で、かつ完璧なタイミングの宣告。
奏多はまるで飛び火に触れたかのように、バッと身を引いた。
心臓がまだ、やかましいほどに鳴っている。
「……! ああ、ここは?」
奏多は乱れた呼吸を悟られぬよう、窓の外へ目を向けた。
そこに広がっていたのは、都心とは思えないほどの広大な敷地。
門をくぐった先には、まるでヨーロッパの古城のような威容を誇る、天宮家の邸宅がそびえ立っていた。
「……おかえりなさいませ、お嬢様」
二十人の使用人が一糸乱れぬ動きでお辞儀をする様は、もはや一つの芸術のようだった。
車を降りた瞬間、奏多は圧倒的な威圧感に気圧される。学校の体育館ほどもある正門、広大な敷地、そして目の前にそびえる古城のような邸宅。
自分とは住む世界が違いすぎる。先ほどのリムジンの中での、心臓が跳ねるような感覚が、この圧倒的な「天宮家」の現実に触れて、どこか遠い夢のように感じられていく。
そんな奏多の戸惑いなど知ったことか、瑠璃は満面の笑みで振り返った。
「さあ、奏多様! 中へどうぞ! 今日はぜひお泊まりになってくださいまし!」
即座に、綾部の無機質な声が被さる。
「瑠璃様。事前の許可なく一般の方を宿泊させるのは問題です」
「綾部のケチー!」
「ケチではなく規則です」
綾部は淡々と言い放つ。そのやり取りがあまりに自然すぎて、奏多は思わず吹き出しそうになった。先ほど車内で感じた甘い空気が、このドタバタのおかげで少しだけ和らぐ。
「……いや、さすがに泊まるのは無理だって。帰るよ」
奏多が苦笑しながら手を振ると、瑠璃は信じられないものを見るような顔で目を見開いた。
「えぇ……っ! ですが、わたくし、せっかく奏多様を……」
瑠璃の瞳にみるみる元気がなくなっていく。しがみついていた袖を離し、シュンと項垂れるその姿は、まるで雨に濡れた子犬のようだ。
「お嬢様、奏多様を困らせてはいけません。……それに」
綾部は一歩前に出ると、奏多に向けて静かに頭を下げた。
「奏多様。本日は……色々とお疲れだったはずです。もしお急ぎでなければ、せめてお茶でも……いえ、温かいものでも召し上がっていかれませんか? お嬢様も、落ち着く場所が必要です」
綾部の言葉は、奏多の「帰る」という意志を否定せず、瑠璃の「寂しさ」と奏多の「気遣い」の両方を汲み取ったものだった。
瑠璃が期待に満ちた目で、じっとこちらを見上げている。その瞳に、「お願い」という言葉が溢れていた。
(……はぁ。このお嬢様を相手にしてると、いつもこうだ。結局、俺が折れることになる)
奏多は深い溜め息を吐き、最後にもう一度だけ邸宅を見上げた。
すると綾部は瞳を奏多にちらりと向け、静かに言った。
「勘違いしないでください。瑠璃様がこのまま興奮状態で暴走されると、使用人の業務に支障が出ますので」
つまり、瑠璃のためではなく、屋敷の平穏のため。徹底した合理主義である。
「……お茶一杯だけだぞ。長居はしないから」
「はいっ!」
瑠璃の顔が、太陽が昇るようにパァっと輝いた。
通されたのは二階のサンルームだった。全面ガラス張りで庭園が一望でき、柔らかな陽光と花の香りが満ちている。テーブルには既にティーセットが用意されており、ポットからは湯気が立ち上っていた。仕事が早い。
瑠璃はとてとてと奏多の隣に座ると、ぴったりと腿をくっつけてきた。距離感ゼロである。
「えへへ、こうしてると夫婦みたいですわね」
向かいの椅子に腰掛けた綾部が、優雅にカップを手に取った。
「……奏多様」
いつもの気だるげな声。しかし、その奥にほんの少しだけ、探るような色がある。
「一つお聞きしてもよろしいですか。先ほどの校門での件……瑠璃様に仰っていた言葉。あれは、本心ですか。それとも、お金に目が眩んだだけですか」
単刀直入。容赦がない。
「く、綾部! 失礼ですわよ!」
「瑠璃様は黙っていてください。……私は真剣にお聞きしています」
少し間を置いて奏多は答える。
「……お金に目が眩む? それなら、もっと楽な金儲けを探しますよ」
奏多は苦笑しながら、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
「こんな心臓がいくつあっても足りないような騒動に付き合うなんて、どう考えても割に合わない。こんなこと、お金目当てでやるような事じゃありませんよ」
奏多はふっと視線を落とし、隣で大人しくしている瑠璃の横顔を一瞥した。
「……言った通りですよ。彼女の生き方は、不器用で、空回りばかりで。正直、見ていて疲れることも多い」
ため息をつきつつも、その瞳にはどこか温かい色が宿る。
「でも、何かに全力でぶつかれるあの真っ直ぐさは、俺にはないものです。眩しくて、放っておけない。それに……」
少しだけ言葉を濁し、奏多は照れ隠しにカップの縁を指でなぞった。
「一緒にいて飽きない相手なんて、そうそう出会えませんから」
サンルームに沈黙が落ちた。鳥のさえずりと、ポットの蓋がかたかたと鳴る音だけが響く。
(……また、か)
綾部は冷めた紅茶を喉に流し込みながら、かつてこのサンルームで愛を語った数多の男たちを想った。財産を、地位を、あるいは瑠璃の純粋さを食い物にしてのし上がろうとした輩たち。そのたびに、綾部は非情なまでに彼らを排除し、彼女の心と屋敷の平穏を守り抜いてきた。
瑠璃はこれまで誰よりも純粋に他者を信じ、そのたびに深く傷ついてきた。彼女の無防備で真っ直ぐな心を、自分はただ泥や棘から守り続けることしかできなかったのだ。
だが、今の男の言葉は、綾部の胸の奥深くに突き刺さった。
(不器用で、空回りばかりで、疲れる……)
それは、瑠璃を誰よりも近くで見守り、彼女の「全力」を誰よりも間近で浴び続けてきた執事が、ずっと言葉にできずにいた評価そのものだった。
綾部にとって、瑠璃のその、理屈を飛び越えて何かに突き進むひたむきさは、どれほど願っても自分には手に入らない——あまりに眩しい「憧れ」でもあった。だからこそ、その姿を傍で守り抜き、彼女が傷つかないようにと盾になることだけを己の矜持としてきたのだ。
(……この男なら。彼女がまた不器用な全力で突き進んだ時、それを笑わずに受け止めてくれるのかもしれない)
奏多の言葉は、綾部がずっと守りたかった瑠璃の「本質」を、彼もまた同じように尊いものだと認めてくれた証明のように思えた。
綾部は静かにカップを置くと、瑠璃へと視線を移した。そこに宿る声音には、珍しく毒気が混じっていない。
「……そうですか」
綾部はふっと小さく息を吐くと、奏多に真っ直ぐな眼差しを向けた。
「合格です」
「……え?」
「瑠璃様。この方は、少なくともお金目当てではなさそうです。……まあ、『飽きない』というのが褒め言葉なのかは微妙なところですが」
瑠璃の目が、夜空の星のようにきらっきらと輝き出した。
「かかかかか奏多様……! 今の全部、わたくしへの愛の告白ですわよね!? 放っておけないって! 眩しいって!」
「愛の告白ではない!」
すかさず否定する奏多だが、自分で言っていても先ほどのセリフは少しキザすぎて恥ずかしかった。
だが、瑠璃の真っ直ぐさに触れていると、不思議と思っていることを恥ずかしげもなく言語化してしまえる自分がいた。
ガタンと椅子を鳴らして、瑠璃が奏多に詰め寄る。顔が近い。近すぎる。
「録音しておけばよかったですわ……!」
冷静に、綾部が口を挟む。
「してますけど」
「……え?」
綾部はポケットからスマホを取り出し、ひらひらと振った。
「執事の職務上、お嬢様に関わる重要な発言は記録する義務がありますので。……ご安心ください、悪用はしません。たぶん」
「綾部!! わたくしに送りなさい、今すぐ!!」
「断固拒否します」




