第五話 騒がしい朝と、噂話の代償
先日はベッドに潜り込んだ途端、意識が途切れてしまった。知らないうちに眠っていたようだ。目覚ましが鳴るよりも早く、スマートフォンが執拗に振動し、奏多を叩き起こした。
時刻は午前六時、まだ起きるには早すぎる時間。
画面を見ると、LINEの通知が爆発している。午前五時三十二分から始まる、怒涛のメッセージ履歴。
『おはようございますわ!』のスタンプ連打から始まり、『今日の朝ごはんはフレンチトーストですわ』
『奏多様は何を食べてますの?』
『あ、もしかしてまだ寝てますわね? 起こしちゃいました? ごめんなさい!』
『でも起きてほしいですわ』
『声聞きたいですわ』
『電話していいです?』
『ダメって言われてもかけますわ』
未読件数は、実に七十二。
布団の中でげんなりしていると、今度は別の通知が割り込んできた。差出人は「綾部」。簡潔な文面だった。
『おはようございます。朝から瑠璃様が騒がしくて申し訳ありません。本題ですが、放課後の件、場所の希望はございますか? 瑠璃様のことですのできっと放課後の連絡を待てずにそちらに行くことでしょう。そして放っておくと学校にリムジンで乗り付ける可能性があります。したがって目立たない場所をご指定いただけると助かります』
続けて、もう一通。
『あと、昨日の動画の件ですが。少し面倒なことになっています。詳細はお会いした時に』
奏多は、どんよりと重い朝の空気の中で、深い溜め息をついた。昨日のバズが、いよいよ現実的なトラブルとして牙を剥き始めた予感がしたからだ。
行きしなのコンビニでいつものように朝食のパンを買って食べながら学校へと向かう。その足取りはいつもより重たかった。
学校に着くや否や、嫌な予感は最悪の形で的中した。昨日の動画の影響は、予想を遥かに超えていた。
大学の正門をくぐった瞬間から、周囲の空気が明らかに違っていた。すれ違う学生たちが一様にこちらを向き、ひそひそと何かを囁いている。隠しきれない好奇心でスマホを向ける手。
昨日までとは明らかに異なる、刺すような視線の質に奏多は身体を強張らせる。
「ねぇ、あの人じゃない? 昨日の動画の……」
「え、普通の人じゃん。マジでヤクザに啖呵切ったの?」
教室に入ると、さらに状況は悪化した。席に辿り着く前に、男子学生の集団が奏多の行く手を塞ぐ。
「おいお前、ちょっと話あんだけど」
彼らの顔には、にやにやとした卑俗な笑みが浮かんでいる。その空気は、決して好意的なものではなかった。
「動画見たぜ? 彼女か? あの金髪のめっちゃ可愛い子。お前、一体どうやって捕まえたわけ?」
「つーか、あの子って天宮グループの令嬢じゃね? 顔がそっくりなんだけど。マジもんの玉の輿じゃねぇの」
教室の隅では、女子グループがこちらをジトっとした冷ややかな目つきで見ている。
「調子乗ってる」「ただの陰キャだったのに」という毒を含んだ言葉が、雑音となって耳に届く。
一夜にして、奏多の大学内での立ち位置は激変していた。好奇、嫉妬、羨望。それらが濁流のように混ざり合い、四方八方から奏多を追い詰めていく。
「金で買われただけだろ、どうせ」
その言葉が耳に届いた瞬間、奏多の中で何かがカチンと音を立てて弾けた。
考えるよりも先に、足が動いていた。奏多は、そう吐き捨てた男子学生の胸ぐらを掴み上げていた。
教室が一瞬で、真空状態のように静まり返る。
「は? なに、お前……」
周囲がざわつき始めた。椅子を引きずる耳障りな音、誰かの小さな悲鳴。
「おいおいおい、マジかよ……」
だが、奏多の手は緩まない。掴んだ襟をぐいと引き寄せ、至近距離で相手を睨みつける。殺気すら宿る奏多の瞳に、男子学生がたじろいだその時だった。
教室の扉が、轟音と共に勢いよく開かれた。
天宮グループの制服に身を包んだ綾部が、教室に入って来た。綾部は氷点下のような冷徹な眼差しで、教室内を一瞥した。
「……何をしているんですか、奏多様」
その声は静かだったが、教室中の空気を凍りつかせるには十分だった。
かつてない威圧感に、先ほどまで騒いでいた学生たちは皆、呼吸を忘れたように固まっている。
「……止めるのか? だったら綾部さん、あんたに聞く。昨日あの子がどれだけ楽しそうにしてたか、どれだけ全力で喜んでたか、あの子の心がどれだけ素直で綺麗なのか、あんたも知ってるだろ。それなのにこいつらは、全部『金で解決した』なんて言い草だ。……何も知らないのにそんな風に言うやつらのこと、見て見ぬふりなんてできるわけないだろ!」
教室が水を打ったように静まり返った。全員の視線が、激情に駆られた奏多と、静謐を纏う綾部の間を行き来している。
綾部は腕を組んだまま微動だにしない。
瞳が、氷のように冷たく光っている。数秒の沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。
「……止めるとは、言っておりません」
綾部はつかつかと教室の中へ歩みを進め、胸ぐらを掴まれている男子学生の横に立った。
「ただ、一つだけ訂正させていただきます」
綾部の声からは、いつもの気だるさが完全に消えていた。そこにあるのは、主を守る騎士のような鋭い響きだ。
「瑠璃様が裕福であることは事実ですし、否定するつもりもありません。ですが」
綾部はゆっくりと教室を見回した。教室にいる一人一人の顔を、射抜くように見つめる。
「奏多様。瑠璃様が今朝、あのような時間に起きて何をされていたか、ご存じですか? 昨日撮影したプリクラや写真の加工です。何百枚もある中から、奏多様の写りが最も良いものを選別していました。それも、何十通もの連投の裏で、一枚一枚丁寧にです」
誰も、一言も口を開かなかった。
「あの方がお金で動かせるのは経済だけです。人の心というものは、決して買えるものではありません」
綾部の言葉の重みに、掴まれていた男子学生の顔から血の気が引いていく。
周囲を取り囲んでいた野次馬たちも、自分たちの傲慢さを突きつけられたような居心地の悪さに、次々と目を逸らし始めた。
静寂が支配する中で、綾部は静かに奏多へと向き直る。
「……奏多様、お気持ちは分かります。が手を離してください。暴力沙汰になれば、何よりも瑠璃様が悲しまれます」
綾部の言葉で奏多は少し冷静さを取り戻した。
「……綾部さん、すいません。少し……頭を冷やしてきます。ここに居たら、また爆発してしまいそうなので」
綾部は静かに、こくりと頷いた。
「賢明な判断です」
奏多が男子学生から手を離し、教室を後にする。背中に突き刺さる無数の視線を無視して、奏多は早足で廊下を歩いた。
昼前の大学は人もまばらで、非常階段の踊り場まで来ると、ようやく騒音から解放された。
手すりに寄りかかって空を見上げる。雲ひとつない青空が、今の自分の荒んだ気分とは裏腹に、恨めしいほど晴れ渡っていた。
ポケットの中でスマホが震えている。さっきの騒動の最中にも、何通か通知が溜まっていたらしい。LINEを開くと、瑠璃からのメッセージが並んでいた。
『奏多様さまぁ? お返事がありませんわ』
『授業中ですの? 真面目ですわねぇ』
『わたくしは今、体育ですわ。見てくださいまし、このブルマ姿』
『綾部にLINEを送りすぎだと怒られましたわ』
そして一通、毛色の違うメッセージが混じっていた。送信時刻は三分前。
『あの……綾部から少しだけ聞きましたわ。大学で何かあったって。わたくしのために怒ってくださったって……』
既読をつけるかどうか迷っていると、階段の下から硬質な足音が聞こえてきた。革靴がコンクリートを叩く音。
現れたのは綾部だった。手には缶コーヒーが二本握られている。
「……」
無言で一本を差し出される。奏多がそれを受け取ると、綾部は手すりにもたれかかり、遠くを見るような目で口を開いた。
「瑠璃様にはまだ、詳細な経緯は伝えておりません。ですが……あの方は勘が鋭い。このまま放っておけば、自力で全て調べ上げるでしょう。そうなれば、事態はもっと厄介なことになります」
「綾部さん、……どうして大学にいたんですか?」
ブラックコーヒーのプルタブを開け、奏多は壁に背を預けた。
綾部は一口だけコーヒーを飲むと、気だるげに細めた瞳で空を仰いだ。
「どうして、と言われましても」
呆れたように綾部は話し始める。
「……瑠璃様の命令です。『奏多様の大学生活を把握しなさい。休み時間も昼食も、全部チェックですわ』と」
つまりは監視だ。あるいは、執拗なストーカー行為とも言う。
しかし、ここから真剣な表情で続ける。
「まあ、正直に申し上げれば。半分は監視で、半分は護衛です。昨日の動画が拡散されてから、奏多様に危害を加えようとする人間が出ないとも限りませんので」
あまりに淡々と、恐ろしいことを口にする。
「実際、今朝から奏多様のSNSを監視していましたが……掲示板に不穏な書き込みがいくつか。いわゆる『特定した』とか『身元を晒す』といった類です」
綾部は缶コーヒーの縁を指で弾きながら、言葉を続けた。
「幾つかは天宮グループの広報が技術的に対処しましたが、ネット上の匿名投稿を完全に潰すことはできません。ですので、物理的なリスクを排除するために私が直接参上しました」
綾部は視線をそちらに向けず、横に立つ奏多をちらりと一瞥した。
「……さて、先ほどの件。瑠璃様にはどこまで報告しますか?」
奏多はすぐには言葉は出なかった。
しばらくして、ようやく話し始める。
「……わからないです。正直。でも、乱暴なことをしたことは後悔しています」
奏多は缶コーヒーを傾けながら、ぽつりとこぼした。しばらく沈黙が流れる。風が吹き抜け、非常階段の鉄骨がキィと寂しげな音を立てた。
「……後悔、ですか」
綾部は手すりの向こう、遠くの校舎をぼんやりと眺めてから口を開いた。
「正直に申し上げますと。あの場で奏多様が動かなかったとしても、私がやっていました」
さらりと物騒なことを言う。
「瑠璃様の名誉を汚す発言をした時点で、本来なら私の案件です。私が止めたのは、あくまで奏多様の大学での立場を慮ってのことに過ぎません」
コツ、と綾部が缶の縁を爪で叩く。
「ただ、瑠璃様は……馬鹿、いえ、純粋な方です。自分のために誰かが暴力を振るったと知れば、喜ぶより先に心を痛めるでしょう。『わたくしのせいで、奏多様が悪者になってしまった』と、自分を責めるはずです」
それは容易に想像できた。瑠璃のあの純粋な瞳を思い浮かべると、胸が締め付けられる。
「ですから、報告するにしても言葉を選んでください。あの方には『喧嘩した』などと言わず、『少し意見が食い違って揉めただけ』程度にしておくのが賢明かと」
そう言い終えた直後。静かな踊り場に、綾部のポケットからスマホの電子音がけたたましく鳴り響いた。
画面を一瞥した綾部の眉が、ぴくりと動く。
「……最悪のタイミングですね」
瑠璃からだった。画面には『奏多様に会いに行きますわ! もう校門ですの!』という、弾むような文字が並んでいる。
「制止を振り切ったようです。……ここに来ています」




