第四話 夕陽と約束と、スマホの中の思い出
奏多が震える指でスマートフォンを開くと、LINEの通知が爆発的な勢いで溜まっていた。友人だけではない。
ゼミのグループ、サークルの後輩、果ては見知らぬアカウントからのフォロー通知まで、画面が止まることなく更新され続ける。
動画は誰かが店内で撮影していたものらしい。特殊部隊が突入する衝撃的なシーンから、奏多がチンピラの前に立ちはだかった瞬間まで、余すところなく映し出されていた。
「一般人がヤクザに啖呵切った」というキャプションが付いたその動画は、再生数が毎秒単位で跳ね上がっている。
コメント欄はすでに混沌とした熱狂に包まれていた。
『この男、勇気ありすぎん?』
『彼女を守る彼氏、かっこよすぎだろ』
『続きはよ』
『つーか、この女の子めちゃくちゃ可愛くね?』
そして、その動画を当然のように瑠璃も見つけていた。
ひょいと奏多の背後に回り込み、肩越しに画面を覗き込む。
「あら! わたくしと奏多様のツーショットが、こんなに拡散されて……!」
瑠璃は画面に映る自分たちの姿に目を細め、上機嫌に微笑む。
一方、綾部は画面を横目で一瞥すると、冷静に分析した。
「炎上……とまでは言いませんが、間違いなく面倒なことになりますね」
しかし瑠璃は、そんな綾部の忠告などどこ吹く風で、目をきらきらと輝かせている。
「炎上だなんてとんでもない! これってつまり、わたくしと奏多様のラブラブな姿が全世界に発信されたということですわよね!? 最高ですわ!」
そして警察の事情聴取は、綾部の手配であっさりと片付いた。
被害者という立場であることもあったが、それ以上に天宮グループの威光は絶大で、特殊部隊が残した破壊の痕跡さえも、公的には「なかったこと」として処理されていた。
改めて、その権力の大きさに奏多は圧倒される。
外に出ると、夕暮れの風が心地よく火照った頬を撫でていた。オレンジ色の陽光が、三人の影を長く地面に伸ばしている。
瑠璃はくるりと振り返り、高い位置のツインテールが彼女の動作に合わせてリズミカルに踊った。
「さて、と! 本日は本当に楽しかったですわ!」
そう言いながらも、帰る素振りは一切ない。むしろその瞳は、獲物を逃すまいとする猫のように、きらきらと怪しく光っていた。
「ところで、奏多様。週末のご予定はおありですの?」
――来た。また来てしまった。
「実はですわね、先ほどの件でわたくし、すっごくドキドキしてしまいまして……」
瑠璃はもじもじと指先を絡ませ、上目遣いで奏多を凝視する。
「この気持ちを落ち着かせるには、もっともっと、奏多様と一緒にいるしかないと思うんですの!」
綾部は迎えに来た高級車のドアを開けながら、呆れたようにぼそりと呟く。
「さっきの今日でまた誘うんですか。懲りないですね、本当に」
「うるさいですわ、綾部! 勢いも大事ですの!」
奏多は少し考え込んだ。
最初は庶民とセレブの乖離を突きつければ、瑠璃は勝手に諦めて去っていくだろう――そんな打算で接していた。
だが、今はどうだろう。蓋を開けてみれば、自分自身が思いの外、この時間を楽しんでいた。
奏多は照れ隠しに頭を掻く。
夕陽が眩しい。いや、陽の光のせいだけではない。
今日一日を振り返ると、記憶が次々と溢れ出す。クレーンゲームでブラックカードを差し出し困惑する顔、ぬいぐるみを取れずに本気で涙目になっていた顔、知らない曲を全力で熱唱する楽しそうな姿、そして、絶対に口に合うはずのないファミレスのジャンクフードを「美味しい」と頬張る横顔。
すべてが鮮明で、眩しいほど純粋だった。
令嬢という立場で財力という武器を持って世界を塗りつぶそうとするところはあれど、その中身はただの十七歳の女の子。それを知れば知るほど、突き放す理由などなくなっていく。
返事を待ちきれず、瑠璃は奏多の周りをぴょこぴょことうろちょろしている。
「あの、もしご都合が悪ければ別の日でも……いえ、毎日でも空けますわ! 天宮の名にかけて!」
運転席に座る綾部は、バックミラー越しに奏多の様子を窺っている。気だるげな瞳をしているが、その奥にはかすかな期待のようなものが宿っていた。
風が吹き抜け、瑠璃の金髪が夕陽に透けて輝く。サファイアのような瞳が不安そうに揺れていた。
断られるかもしれない、という恐怖。そんな小さな怯えが、その美しい瞳の奥に確かにちらついていた。
「……俺もちょうど、週末の瑠璃の予定は空いてるか聞こうとしてた。今日はチンピラに絡まれたせいで後味も悪くなったから、改めて遊び直せたらいいなって思ってたところだし」
奏多の言葉が届いた瞬間、時間が止まった。比喩ではなく、少なくとも瑠璃にとっては、世界が停止したのと同じだった。
瑠璃は目を見開いたまま石像のように固まる。
三秒、五秒。そして――。
「……え?」
瑠璃の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「えっ、ええっ!? い、今なんて仰いましたの……? わ、わたくしの予定を……奏多様から……聞いてくださろうと!?」
瑠璃は声にならない声を上げながら、堰を切ったようにボロボロと泣きじゃくり始めた。
「奏多様ざまぁ~! わだぐじのごどぉ~……!」
綾部はバックミラー越しに二人の様子を一度見つめると、静かに目を閉じてから、ゆっくりと開けた。
その口元が、ほんの一瞬だけ、呆れと安堵が混ざったような笑みを浮かべたのは、決して気のせいではなかっただろう。
「……瑠璃様。鼻水、出ていますよ」
瑠璃はそんな指摘も耳に入らないのか、ずびっと音を立てて鼻をすすり上げると、そのまま奏多にぎゅっと抱きついた。
「いいですわ! 週末! 空いてますわ! 全部空けますわ! 百年分くらい空けますわぁ!」
奏多が瑠璃の勢いにたじろぐ横で、綾部は静かにスマートフォンを取り出し、すでに週末の完璧なプランニングに向けて何かを手配し始めていた。
「じゃあ決まりだね。どんな予定にするかは、明日の放課後にまた考えてから連絡するよ」
奏多がそう告げると、ぐすぐすと泣いていた顔から一転、瑠璃はぱぁっと満開の花が咲くような笑顔を見せた。
「放課後!? 学校で会えるんですの!?」
奏多は「連絡する」と言ったはずだったが、瑠璃の中ではすでに「学校で会う」という前提で話が進んでいるらしい。
綾部はスマートフォンから目を上げずに淡々と告げる。
「瑠璃様。奏多様の学校に押しかける気ですか?」
「当然ですわ!」
「……また騒ぎになりますよ。今日の動画だって、まだ拡散されているというのに」
瑠璃はぷくっと頬を膨らませた。
「じゃあ、どうすればいいんですの!」
綾部は少し考えるように間を置いてから、冷徹に言い放つ。
「普通にLINEでやり取りすればいいでしょう」
その瞬間、瑠璃は「がーん」という効果音が聞こえそうなほどショックを受けた顔になった。
「LINE……文字だけ……? 声も聞けないし、顔も見れないなんて……そんなの……!」
しかし、奏多が「明日の放課後に」と言った以上、学校という共通の場所がある。瑠璃の中で何かが急速に計算され始めたらしく、サファイアの瞳がきらりと光った。
「……わかりましたわ。では明日の放課後、校門前でお待ちしておりますわね!」
「だから、学校に来たら目立つから……って、もう聞いてないよな」
奏多は呆れて小さく肩をすくめて苦笑した。瑠璃は綾部の諫言も奏多の言葉も完全に無視して、奏多の手をぎゅっと握りしめた。
「絶対ですわよ? 絶対ですからね!? 約束を破ったら……えーと……えーと……」
脅しの内容がどうしても思いつかないらしい。綾部は溜め息をつき、静かに車内を促した。
「……帰りますよ、瑠璃様。これ以上ここにいると、本当に日が暮れます」
綾部はエンジンをかけながら、窓越しに奏多へ視線を向けた。
「奏多様、本日はありがとうございました。改めてご連絡お待ちしています。次のお約束の件で、何かご要望があればお申し付けください」
黒塗りのリムジンが夕焼けの中を滑るように発進する直前、後部座席から瑠璃が身を乗り出した。
「奏多様ぁ~! わたくしはいつでもーーー!ウィーーーン……」
綾部は無言で窓を閉めた。
夕闇が迫り、テールランプが遠ざかっていく。夕風が少し冷たくなってきた帰り道、奏多のスマートフォンが一度震えた。
通知画面には、LINEのメッセージ。
送り主は「らぶ♡るり」。
『今日は本当にありがとうございました! 世界で一番幸せな日ですわ!』
メッセージと共に、今日撮ったプリクラが三十枚ほど連投されていた。
「……お嬢様、これ全部送るのにどれだけ通信量使ったんだよ。胃もたれするわ」
ツッコミを入れながらも、プリクラの中の瑠璃が、カメラに向かってどれだけ嬉しそうに微笑んでいるかを再確認できた。
瑠璃の弾けるような笑顔と、不器用に寄り添って写っている自分。
この瑠璃の熱量を受け止める覚悟なんてまだ全然ないはずなのに。
「……ま、いっか」
画面を閉じ、奏多は夜風に吹かれながら、明日の放課後、か。……まあ、どう転んでも案外悪くないのかもしれない。
そんなことを思いながら帰宅するとすぐにベッドに潜る。




