第三話 嵐が過ぎて、君がくれた言葉
奏多は内心で冷や汗を流していた。
(俺、何やってんだ? 彼氏みたいなムーブして……! 天宮財閥ってバレるのは不味いかもとか考えてたら「瑠璃」って呼び捨てにしちゃったし、何してるんだ…俺らしくないっ……!)
思考は混乱していても、立ち振る舞いは毅然としている。
奏多は内心の動揺を隠し、男の視線を真っ直ぐに見返しながら、あくまで冷静に謝罪の言葉を口にした。
「ご迷惑をおかけしました。と謝罪はしましたよね。」
しかし、男は伸びた手が空を切ったことに苛立ち、今度は奏多の襟をがしっと掴み上げた。
「聞こえねぇなぁ。土・下・座」
至近距離で酒臭い息が、奏多の顔にかかる。男はニヤリと下卑た笑みを浮かべ、さらに追い討ちをかけた。
「ついでに、その女も置いてけよ。いい値で売れそうだわ」
周囲の仲間からも下卑た笑いが広がる。その瞬間だった。
ファミレス内の空気の温度が、一気に氷点下まで下がった。さっきまでの甘えた声はどこにもない。
「……今、なんとおっしゃいました?」
瑠璃のサファイアブルーの瞳から、光が消えていた。静かな、底冷えするような声音。
「……綾部も聞こえましたわね?」
「売る、ですって? わたくしを?」
綾部が瑠璃のその横を風のようにすり抜けた。男の腕を掴むと、その関節を極めるように美しくも冷酷に捻り上げる。
「ぎっ……! て、てめぇ!」
綾部は淡々と、しかし容赦なく言い放つ。
「手を離してください。折りますよ」
男の悲鳴に殺気立った残りの九人が、動き出した――その時だった。
ドガァンという轟音と共に、ファミレスのガラスドアが蹴り開けられた。
黒いタクティカルギアに身を包んだ男6人が、統率された動きでなだれ込んでくる。先頭の男が片手を上げると同時に、残りが扇状に展開した。
「Target確認。制圧開始」
それは、完全に映画のワンシーンだった。
チンピラ達が振り下ろした拳は虚しく空を切り、次の瞬間には腕を背中に捻じ上げられて床に押し付けられていた。無言で足を払われ、膝をついたところに肘を落とされる。
「うわあああ!!」
逃げようとした者は二人同時のタックルで沈められ、壁際に追い詰められた者は三秒で手錠をかけられる。
十人全員が床に転がされるまで、おそらく十秒もかかっていない。
店内は静寂に包まれた。客も店員も、箸を持ったまま、ただ呆然と固まっている。
瑠璃はパン、パン、と小さく手を叩いた。
「さすが綾部、仕事が早いですわ」
綾部は乱れた襟元を直しながら、深く、大きなため息をついた。
「……もう少し穏便に済ませたかったんですが」
その時、隊員の一人が奏多の前に立ち、深く一礼した。
「天宮家警備部隊、到着いたしました。奏多様、お怪我はございませんか?」
「……無傷です」
奏多は小さく答えた。正直に言えば、どれだけカッコつけても心の底では不良たちが怖かった。
だが、瑠璃や綾部は一切臆していなかった。冷静に状況を判断し、特殊部隊まで手配する。
――俺なんか、最初からいなくても良かったんじゃないか?
特殊部隊員たちは手際よくチンピラたちを拘束し、外で待機していた黒塗りの車両へと運び出していく。
店内の客たちは、もはや映画のエキストラにでもなったかのように呆然とそれを見守っている。
だが、奏多の中では別の感情が渦巻いていた。
さっき自分が口走った「瑠璃に触らないでください」という台詞が、脳内で何度もリフレインする。
勢いで出た言葉だった。しかし蓋を開けてみれば、自分が何か行動を起こす前に綾部が制圧し、特殊部隊が駆けつけ、結局自分はただ突っ立っていただけだった。
(自分がやった事なんて、ただあのチンピラ達を刺激しただけじゃないか、挙句の果てにはカッコつけて下の名前で呼んでおいて本当は怖かったなんて…)
そう思うと少し惨めな気持ちになった。
瑠璃がとてとてと駆け寄り、両手で奏多の顔を挟むようにして覗き込んでくる。
「無事でよかったですわぁ! 奏多様、すごくかっこよかったですのよ!」
瑠璃はじっと奏多の顔を見つめていた。その微妙な表情の変化を読み取ったのか、わずかに首を傾げる。
「ねぇねぇ、さっきわたくしのこと『瑠璃』って呼んでくださいましたわよね!? もう一回! もう一回呼んで!」
だが、瑠璃の弾むような声も、今の奏多の耳には半分も届いていなかった。
守ったつもりが、結局は守られていた。自分自身の無力さが惨めに思えて仕方がない。その事実が、重石のようにじわりと胸の奥へ沈んでいく。
「急に呼び捨てにして驚いたよね?天宮財閥の令嬢だってバレたら、騒ぎが大きくなって面倒になると思ってさ……瑠璃って呼んだんだ。...ごめん、波風を立てただけで、何の役にも立たなかった」
奏多は視線を落とし、自嘲気味にこぼした。
瑠璃はぱちくりと瞬きをした。奏多の言葉を咀嚼するように、数秒の沈黙が流れる。
それから、瑠璃は笑わなかった。いつもの満開の笑顔ではなく、少し困ったような、それでも真っ直ぐな瞳で奏多を見据えた。
「……何の役にも立たなかった?」
瑠璃の声のトーンが一段低くなる。駄々をこねる時とも、甘える時とも違う、凛とした響きだ。
「わたくしがあの下品な男に売ると言われた時、最初に動いてくださったのは奏多様ですわ。綾部でも、あの特殊部隊でもありませんの」
瑠璃は一歩も引かず、奏多の目を覗き込む。
「波風を立てた? ええ、そうですわ。でもその波風のおかげで、綾部は間に合ったんですのよ? 奏多様の一声がなければ、あの男がわたくしに触れていたかもしれませんわ」
綾部は腕を組んだまま、静かにそれを見守っている。珍しく口を挟まず、黙って二人のやり取りを聞いていた。
やがて、瑠璃はふわっと、いつもの柔らかい笑顔に戻った。ただし、瞳の奥だけは真剣なままだ。
「それに、役に立つとか立たないとか、そういう話ではありませんの。守ろうとしてくれた――それだけで、わたくしは……」
瑠璃はそこまで言うと、急に言葉を詰まらせた。耳の先まで真っ赤に染まっている。
「……と、とにかく! ご自分を卑下するのは禁止ですわっ!」
真っ直ぐで優しい言葉。
「瑠璃ありがとう……あっ、じゃなくて天宮さん。ごめん、さっきの流れでちょっと呼び捨てに……」
奏多は照れくさそうに頭をかいた。
「瑠璃」という名前が出た瞬間に瑠璃の顔がぱあっと輝く。
彼女の感情のジェットコースターは、見ていて清々しいほど顔に丸見えだった。
「い、今! また瑠璃って呼びましたわね!? 聞きましたわよね、綾部!」
「……聞こえております」
瑠璃は両頬を両手で押さえ、身悶えるようにくねくねと体を揺らす。
「あぁん、戻さないでくださいましぃ……! 天宮さんなんて、そんな他人行儀な呼び方しないでくださいまし!」
その時、おずおずと店長が近づいてきた。顔面は蒼白で、額から流れる汗が止まらない様子だ。
「あ、あの……お客様……警察には通報したのですが、その……お連れの方々が……」
店長の視線は、綾部と瑠璃の間を忙しなく往復している。
店内には特殊部隊が暴れた跡が痛々しく残っていた。砕け散ったグラス、凹んだ床、そして真っ二つになったテーブル。もはや戦場跡地に近い惨状だった。
綾部は惨状を一瞥し、冷静に言い放つ。
「……弁償ですね」
そして瑠璃は、振り返りもせずに指示を出す。
「綾部に請求書を回してちょうだい」
「は、はいぃ……!」
店長が深々と頭を下げて下がっていく。そんな修羅場の最中、奏多のポケットでスマートフォンが震えた。
画面を覗き込むと、友人からのLINEが届いている。
『おい、生きてるか? お前と天宮さんのファミレスでの動画がバズってんだけど笑』




