第四十二話
しんみりとした感動の余韻に浸っていた砂浜に、不意に軽快な足音が響いた。
「おや、こんなところでしめっぽく感傷に浸るのは無粋ってものじゃないですか?」
ひらりとした身のこなしで現れたのは、仕立てのいいスーツを着崩した御子柴隼人だった。
あの夜、高級シガークラブの個室で綾部をあからさまに口説き、御子柴会長をピリつかせた会長の息子その人である。
隼人はパッと綾部の姿を見つけると、嬉しそうにパッと顔を輝かせた。
「やっぱり……! これはあの時の美しき秘書のお姉さんじゃないですか! まさかこんなところでまた会えるなんて、俺の強運も捨てたもんじゃないですね!」
隼人は両手にグラスを持ったまま、軽快なステップでスルスルと近づいてくる。
「あの時はつれなくフラれちゃいましたけど、今日はプロジェクトの門出の記念日だ。ねえ、あそこのテラスで一緒に一杯やりませんか? 最高の夜なんだから、堅い話は抜きにして付き合ってくれよ!」
あからさまなナンパ口調でグラスを差し出す隼人に、奏多と瑠璃はヒヤヒヤした目を向ける。
当然、いつもの綾部なら「お断りします。お仕事中ですのでお引き取りください」と、氷点下の毒舌で一蹴するところだ。
奏多も、また隼人が綾部に絡みはじめて面倒なことになったと、慌てて立ち上がろうとした。
だが――。
綾部はスッと目を細めると、予想外の言葉を口にした。
「……ふふ。お誘いいただき光栄です、隼人様。たまには、私もこういうお祭り騒ぎに免じて、あなたのお相手をするのも悪くありませんね」
え? と、その場の全員が我が耳を疑った。
奏多も瑠璃も、そして当の隼人まで「えっ、マジで……?」と見事にフリーズし、差し出したグラスを持ったままタジタジと固まってしまう。
「え、いや、その、断られると思ってたから心の準備が……! いや、嬉しいですけど!」
動揺して盛大にどもる隼人に対し、綾部は余裕の笑みを浮かべてグラスを受け取った。
(……さて。いつまでも湿っぽい空気の二人を、いい加減に二人きりにしてあげるべき頃合いですか。)
ふと、綾部はチラリと、まだ涙の跡を残したまま寄り添う奏多と瑠璃に視線を向け、心の中で小さく微笑んだ。彼女なりの、最高に粋な計らいだった。
「行きましょうか、隼人様。テラスの席が、ちょうど冷えてる頃合いですので」
「あ、はい! どうぞ!」
すっかりペースを握られた隼人は、タジタジになりながらもエスコートするように綾部をテラス席へと案内した。
瑠璃と奏多がぽかんと見つめる中、少し離れたオープンエアのテラス席に綾部と隼人の二人は並んで腰を下ろしていた。
隼人が横目を向けると憧れの美女を間近にした緊張と、綾部から放たれる圧倒的な大人の色気に当てられたのか、早くも顔を真っ赤にしてタジタジになっている。
対する綾部は、イタズラっぽく艶やかな笑みを浮かべ、涼しい顔で大人の余裕を全開に発揮していた。
隼人の隣にぴったりと身体を寄せて座り、上品にグラスの縁を指でなぞりながら、何か耳元でささやいている。
顔を真っ赤にしてタジタジになる隼人の様子を横目に、綾部は楽しそうにクスクスと肩を揺らしている。
「一体、綾部さんはどんな悪魔のような言葉で彼をからかっているんだろう……」
そんな風に、遠くから見ているだけでハラハラするような、大人の駆け引きが繰り広げられていた。
賑やかなテラス席から少し離れた、静かな夜の砂浜。
綾部の粋な計らいによって、波の音と月明かりの下には、奏多と瑠璃の2人きりの時間が訪れた。
夜風がそっと二人の髪を揺らす。
緊張の糸が完全に切れ、ようやく肩の荷を下ろした奏多は、しずかに自分の胸に手を当てた。
「……あのさ、瑠璃」
潤んだ瞳を真っ直ぐに向け、奏多は愛おしそうに微笑む。
「俺もこれで、少しは……瑠璃に近づけたかな」
激動の数ヶ月。3億という途方もない重圧、不安で潰れそうだった夜、そして誰よりも近くで自分を支えてくれた瑠璃の存在。
すべての苦難を乗り越えて、いま目の前には最高潮の成功と、夢にまで見た『未来』が広がっている。
奏多の言葉を聞いた瞬間、瑠璃は息を呑み、そして満面の、世界で一番美しい笑みを咲かせた。
「なにを言っているんですの、奏多様!」
瑠璃は潤んだ瞳をさらに輝かせ、今度はもう離さないとばかりに、奏多の背中にしっかりと腕を回してその胸に顔をうずめた。
「近づいたどころではありませんわ……! 最初に会ったときから、わたくしにとって奏多様は、誰よりもかっこいい、世界で一番の王子様ですもの!」
胸元から聞こえる、少し鼻声まじりでありながらも力強いその言葉に、奏多の胸が熱いもので満たされていく。
「だから……これからは、もう一人で背負ったり泣いたりしないでくださいましね。わたくしがずっと、隣で支えて差し上げますわ。……ふふっ、これからは『宣伝部長』だけじゃなく、『生涯のパートナー』としても、よろしく頼みますわよ、奏多様!」
満天の星空の下、波の音が二人の祝福歌のように優しく響く。
無謀だと言われた3億円の挑戦の果てに掴んだ奇跡の楽園で、二人はしっかりと手を繋ぎ、未来へと歩み出していくのだった。
そして少し離れたオープンエアのテラス席の出来事の余談。
瑠璃と奏多を二人きりにするためという隠れた目論見のもと、綾部は優雅に足を組み、目の前で緊張に身を固くしている隼人を見据えていた。
(ふふ……。さて、この生意気な御曹司をどう料理して差し上げますか)
綾部は優秀すぎる秘書でもあり、交渉術と人心掌握にかけては社内でも右に出る者はいなかった。
その特技が、今まさに「とんでもない方向」へ全力で発揮されようとしていた。
綾部はスッと体を乗り出し、隼人の耳元へと艶やかに顔を寄せる。ふわりと香る上品な大人のフレグランスに、隼人は「ひっ……!」と小さく喉を鳴らした。
「あ、あの……近いですって、綾部さん……!」
「お父様の前ではあんなに尊大な態度をとっていらっしゃるのに、私の前ではそんなに耳まで真っ赤にして……。意外と可愛いお方ですね」
「っ……なっ! だ、誰が可愛いですか! 俺は一応、御子柴グループの次期――」
「あら、隠さなくてもいいんですよ。あの高級シガークラブで私に声をかけてきたときも、本当は緊張で指先が少し震えてましたよね?」
「ぐっ……!?」
(……近っ……! いい匂いがするし、なんかからかわれてる気がするのに、色気がすごすぎて言い返せない……っ!)
図星を突かれ、隼人は顔を真っ赤にして言葉を失う。綾部は、ビジネスの交渉で相手の懐にスルスルと入り込み、主導権を完全に握るのと同じテクニックを、見事にこの「口説きの場」で悪用していた。
完全に手練れの技である。
しかしその使い道があまりにも私欲に満ちており、特技の無駄遣いぶりが凄まじい。
綾部は艶やかに微笑むと、隼人のグラスにそっと自分のグラスを合わせた。
「そんなに見つめられると……私まで、少しだけ調子が狂ってしまいそうです。……ねえ、隼人様?」
「っ……! な、なんだよ急に……」
「もしかして、私の近くにいるときの隼人様ったら、頭の回転が落ちています?」
「なっ……! それ、完全にからかってるだろ……! あんた、本当に口が悪いというか、人を手玉に取るのが上手すぎるんだよ……っ!」
隼人は動揺を隠すようにグラスの酒を一気に飲み干すが、赤らめた顔は隠しきれていない。
(からかいがいのある、面白いお方ですね)
最初はただの退屈しのぎであり、奏多たちのための時間稼ぎのつもりだった。だが、間近で見ているうちに、綾部はふと気づく。
隼人はただの軽薄なぼんぼんなわけではない。
表向きは軽薄で生意気な口をききながらも、父である御子柴の背中を真剣に追いかけ、このプロジェクトの成功も、心の底ではどこか祝福している。
自分のペースを完全に乱されながらも、必死にプライドを保とうとするその姿には、妙な裏表のなさと、人間らしい不器用な誠実さが滲んでいた。
――意外と、このお坊ちゃんは……思っていたよりずっと、真っ直ぐで悪くない男、なのかもしれませんね。
ふと、綾部の冷徹な瞳に、ほんの微かな温かみのある笑みが宿る。
そして、グラスをそっとテーブルに置き、帰り支度をしようとする隼人に、綾部はわざと名残惜しそうな、それでいて小悪魔的な声をかけた。
「おや、もうお帰りですか? 私はもう少し、あなたとの楽しいお喋りをお相手したかったのですが……残念です」
「っ……!? な、なら!」
隼人はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、顔を真っ赤にしたまま、勢いよくスマートフォンを取り出した。
「ならさ! 今度こそ、今度は二人だけで……! ちゃんと食事でもどうだ!? 期日はいつでもいい、いつがいい!?」
完全に綾部の掌の上で転がされているにもかかわらず、隼人は真っ直ぐに彼女を見つめ、引き下がらない。
その必死な熱意に、綾部はふっと上品に微笑んだ。
「ふふ……。そうですね。気が向いたら、考えて差し上げないこともないです」
綾部はスッと自分のスマートフォンの画面を隼人に差し出し、そこに自身の連絡先を打ち込ませた。
「連絡先はお渡しします。……ですが、次の約束は『期日未定』です。私がいつその気になるかは、私の気分次第ですので」
「期日未定って……! それだといつまで待たされるかわからないじゃないか!」
文句を言いながらも、隼人の顔には隠しきれない歓喜と期待の色が浮かんでいる。
連絡先を手に入れた彼は、「……っよし、覚悟しといてくれ!」と、精一杯の強がりを残して照れくさそうに背中を向けた。
遠ざかっていく隼人の背中を、綾部はグラスを傾けながら、最後まで余裕の笑みで見送る。
しかし、パッと周囲が静かになったその瞬間、綾部はふっと小さく息をつき、手元のスマートフォンにちらりと目を落とした。
いつもは氷のように冷静で、計算ずくの選択しかしない彼女の胸のなかで、わずかな戸惑いと波紋が広がっている。
(……まさか、あんなお坊ちゃんに連絡先を教えるなんて。しかも次の約束まで取り決めさせるなんて……今日の私は、本当にどうかしていますね)
終始、完全に手玉に取って遊んでいたはずなのに、気づけば自分から踏み込んだ一線を越えてしまっていた。
(……まあ、たまにはこういう気の抜けた道草も、悪くはありませんけれど)
そう心の中で呆れたように呟きながらも、綾部の口元には、いつもの冷徹さとは違う、どこか柔らかく満たされたような笑みがこぼれていた。




