第四十一話
それからの1ヶ月間は、まさに睡眠時間を削り続けた極限の戦いだった。
第七管理室のオフィスでは、綾部が昼夜を問わず膨大なスケジュールの調整と法務・行政手続きを完璧にこなし、時には徹夜明けの奏多に「お肌が荒れますよ、奏多さん」と冷ややかに言いながらも、特製の栄養ドリンクをそっと差し入れてくれた。
瑠璃もただ宣伝するだけでなく、自ら現地に足を運んでは「ここにもっと可愛いフォトスポットを作りましょう!」「お料理のコース名はもっとロマンチックが良いですわ!」と、持ち前の美意識と行動力で女性目線の細やかな改良案を次々とプロデュースしていった。
そして奏多は、現地に泊まり込んでシェフや船長たちと朝から晩まで意見を交わし、極上のサービスを提供するためのシミュレーションを何百回と繰り返した。
最高の仲間たちの尽力と、自らの血肉を削るような努力の末に、準備は完璧に整えられたのだった。
ホームページでの受付予告を設定し、受付開始の当日。
SNSにも瑠璃経由でハートアイランドの公開日をお知らせした途端、アクセスが殺到してサーバーが悲鳴を上げた。
用意された単価別の全てのパッケージプランは、わずか数分で年間を通して完売。スタートは考え得る限りの最高の滑り出しだった。
綿密なオペレーションも現地で済ませ、後はオープンを待つだけとなった。
そして、奏多はオープンの直前、綾部と共に御子柴会長をハートアイランドへと招待していた。
「約束の通り、御子柴会長を最初に招待させて頂きました」
ハートアイランドの船着き場。
抜けるような青空と、エメラルドグリーンの海。海風がヤシの葉を揺らす中、豪華なクルーザーがゆっくりと桟橋に接岸した。タラップが下ろされ、そこから降り立ったのは、仕立てのいいリゾートジャケットに身を包んだ御子柴重蔵だった。
彼を出迎えるのは、完璧な執事服姿の綾部と、島風に髪を揺らす奏多と瑠璃。
「……ふん。約束通り、俺が一番乗りというわけか」
御子柴はサングラスを外し、潮の香りを深く吸い込んだ。その背後では、御子柴の取り巻きたちが物珍しそうに周囲を見回している。
「予約開始から数分で年間の予約が完売したと聞いたぞ。天宮の小娘の猿芝居が当たったようだが……俺は世間のバカどもと同じようには騙されん。俺が満足しなければ、投資した3億は即刻回収する。忘れていないだろうな?」
威圧的な御子柴の言葉にも、奏多は微塵も動じなかった。
「もちろんです。この島が提供するのは『極上の体験』。世間のバズりなど、ただの入口に過ぎません。これから会長に味わっていただくのが『真の楽園』です」
「御子柴会長。まずは、当アイランドが誇る凄腕の船長がご案内する、トローリング・ポイントへお連れいたします」
綾部が一歩前に出て、静かに案内を始める。
「会長自らの手で釣り上げていただいた獲物を、天宮すら抱え込めなかった専属シェフがその場で調理いたします。……準備はすでに整っております」
「ほう……。言うようになったじゃないか。いいだろう、手並みを拝見させてもらおう」
御子柴が不敵な笑みを浮かべ、奏多の横を通り過ぎる。その肩がすれ違う瞬間、奏多は確かな手応えを感じていた。
勝負の火蓋は、すでに切って落とされている。
御子柴を乗せたボートが向かったのは、島の一番潮通しが良い秘密のトローリング・ポイントだった。
「ほう……このポイント、素人の俺でも魚影の濃さが分かるな」
最初は腕組みをして不機嫌そうにしていた御子柴だったが、ベテラン船長の的確な誘導とサポートを受け、竿を握った瞬間に表情が変わる。
海面が激しく波立ち、御子柴が「くっ……重いな!」と歯を食いしばってリールを巻くと、水面から勢いよく飛び出したのは、見事な高級大型魚だった。
「ははっ、見事だ! やるじゃないか!」
大物を釣り上げた御子柴の顔には、かつての冷徹な投資家ではなく、ただ釣りを愛する一人の男としての晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
そして、トローリングも終わって一通り島を案内した頃には陽がゆっくりと傾き、空が茜色から深い藍色へと染まっていた。
ハートアイランドの特設オープンエアダイニングで、夕食の時間が始まった。
テーブルに並ぶのは、昼間に御子柴が釣り上げたばかりの魚や、近海で獲れた海の幸に旬の最高級の様々な食材を専属シェフが極上のコース料理へと昇華させた逸品たちだ。
口に入れた瞬間にとろけるような旨味が広がっていく。
グラスを傾け、静かに料理を味わっていた御子柴は、ふっと息をつくと、まっすぐに対面に座る奏多を見据えた。
「……参ったな。生意気なガキの道楽だと思っていたが、完全に一本取られたよ」
御子柴はグラスを置き、どこか誇らしげな、そして心からの賛辞を口にする。
「施設、スタッフ、そしてこの料理とロケーション。どれ一つ取っても、俺が知っている既存のリゾートでは出せない『熱』がある。……3億の出資、文句なしの回収だ。お前は、俺の想像を遥かに超えてみせた」
その言葉を聞いた瞬間、第七管理室のスタッフたちから小さなどよめきと歓声が上がった。
それは、あの御子柴会長が若造を「一人のビジネスパーソン」として完全に認め、頭を下げさせた歴史的瞬間だった。
すべてのスタッフが去り、静けさを取り戻した夜のビーチ。
波の音だけが聞こえる砂浜に、奏多、綾部、そして瑠璃の3人だけが残っていた。
――終わった。
御子柴の承認という最大の壁を突破し、開園は完璧な成功を収めた。プレッシャーのすべてが消え去った瞬間、奏多の足元が急にぐらりと揺らいだ。
数ヶ月間、まともに眠ることもできず、3億円という途方もない重圧を一人で背負い続けていた。
いくら周囲が支えてくれたとはいえ、プレッシャーの真ん中に立ち、すべての責任を負っていたのは、普通のどこににでもいる大学生活を送っていたはずの奏多だ。
「瑠璃に相応しい男になりたい」その一心だけで、不安で押しつぶされそうな心を必死に鼓舞し、夜な夜なスマホの画面に映る瑠璃の笑顔だけを心の支えにして、ここまで走り抜けてきたのだ。
張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れたように、奏多はその場に膝をつく。それを、両側から綾部と瑠璃が素早く駆け寄り、そっと支えた。
「よく頑張りましたね、奏多さん……本当によく、やり遂げました」
いつもは冷徹で余裕を崩さない綾部の声音が、今は驚くほど優しく、微かに震えていた。
そして、瑠璃はもう言葉もなく、奏多の胸にすがりつくように顔をうずめる。
「……うっ……ぐすっ……」
こらえきれなくなった熱い涙が、奏多の目から次々と零れ落ちる。
かっこいいところばかり見せたかった。本当は何度も怖くて逃げ出したがっていたことなんて、誰にも知られたくなかった。
けれど、溢れ出る涙を止めることはできなかった。
「……怖かった……よ……瑠璃……綾部さん……俺、ちゃんと、やり遂げられた……かな……」
子供のように声を詰まらせて泣きじゃくる奏多を、綾部も瑠璃も、ただ優しく抱きしめ返す。
その時だった。
「――男がそう簡単に泣くもんじゃない」
波音の合間から、穏やかな声が響いた。
振り返ると、少し離れたテラス席で、御子柴がグラスに残った琥珀色のウィスキーをゆっくりと嗜んでいた。
この最高の夜の余韻を一人静かに楽しんでいたのだ。
御子柴は席を立ち、足音を忍ばせて砂浜へと歩み寄ると、しゃがみこんだ奏多の頭に、大きな手をそっと乗せた。
いつもなら冷徹な光を湛えているはずのその瞳には、棘も威圧感も一切なく、すべてを見通し、包み込むような深い慈愛の色だけが浮かんでいた。
大企業を束ねるトップとして、数え切れないほどの修羅場や、若者たちの血の滲むような苦悩の裏側を見てきた彼には、奏多が背負ってきた重圧のすべてが痛いほどよく分かっていたのだ。
まるで、我が子を労うかのように――。
「泣くな、胸を張っていいぞ星野奏多。……お前はもう、立派な一人の男だろ」
その圧倒的な包容力と、不器用ながらも魂を揺さぶるような労いの言葉に、奏多のダムが決壊したようにさらなる大粒の涙が溢れ出した。
「うっ……うっ……!」
小さな子供のようにぐしゃぐしゃの顔で泣きじゃくる奏多の頭を、御子柴は静かに、何度か優しく撫でた。
それから、グラスを傾けてふっと満足げに笑う。
「だが、ここからが本当の勝負だ。世間はお前たちの熱狂に酔っているが、これからこの島を守って行かなければならない。守るべきものが出来た男の道はここから険しくなるぞ。……せいぜい、がんばれよ」
厳しくも温かいエールを残し、御子柴は再びテラスへと戻っていく。
「御子柴会長……っ、ありがとうございます……!」
遠ざかる背中に向かって絞り出した奏多の声は、嗚咽にまみれてひどく震えていた。
そんな奏多の背中を、瑠璃が愛おしそうに強く抱きしめ、綾部が感極まった瞳で見守っている。
無謀だと言われた3億円の挑戦は、最高の仲間と、最愛の女性、そしてたくさんの温かな想いに支えられ、誰にも止められない「最高の未来」へと動き出していた。




