第三十九話 星野奏多
タクシーに揺られて瑠璃の屋敷へすぐに向かう奏多。
重厚な門をくぐると執事が迎えてくれた。
邸内へ足を踏み入れると、どこからかバターと香ばしいケチャップの甘い香りが漂ってくる。
「お嬢様はこちらでお待ちです」と執事に案内されるままキッチンダイニングへ通されると、そこには思わぬ光景が広がっていた。
「瑠璃ちゃん、卵はかき混ぜすぎないで、滑らかに火を通すのがコツよ。奏多は少しトロッとした食感が好きなの」
「はい、お母様……あ、違います、佳代子様! パニクって火力を強めすぎてしまいましたわ……っ!」
「ふふ、大丈夫よ。慌てないで」
お揃いのエプロンを身につけ、仲睦まじくフライパンを囲んでいたのは、瑠璃と――奏多の母である星野佳代子だった。
「……母さん? なんでここに?」
突然の奏多の登場に、二人がパッと振り返る。
「あ、奏多様……!」
「奏多、お帰りなさい。瑠璃ちゃんから『奏多のために手料理を作りたいけれど上手くいかない』って泣きつかれちゃってね。少しお手伝いに来ていたのよ」
頬をほんのり赤くした瑠璃が、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに完成したオムライスをテーブルへと運んできた。
少し不格好ではあるものの、絶妙な火加減の黄金色の卵に、真っ赤なケチャップで歪なハートマークが描かれている。
「奏多様……お口に合うか分かりませんけれど、心を込めて作りましたわ」
奏多がスプーンを入れ、一口頬張る。バターのコクと甘酸っぱいライス、そしてふわっと解ける卵のやさしい風味が口いっぱいに広がった。
「……うまい。めちゃくちゃ美味いよ、瑠璃」
「……っ! 本当ですの!? よかった……!」
奏多の言葉に、瑠璃は胸の前で手を組み、パッと顔を輝かせた。その横で佳代子も「瑠璃ちゃんが何度も練習した甲斐があったわね」と温かい眼差しを向けている。
幸福感に包まれた食卓。だが、ひとしきりオムライスを味わったところで、奏多は少し表情を引き締め、二人に今日あった出来事を切り出した。
「母さん、瑠璃……急にこんな大きな話を一人で進めてしまって、本当にごめん。勝手に動いて心配かけたよな」
奏多が神妙な面持ちで謝罪すると、佳代子は優しく首を横に振った。
「謝ることはないわよ。奏多が自分の人生を賭けて戦っているのは、ちゃんと分かっているから」
その言葉に少し救われたように息をつき、奏多は改めてまっすぐ母を見据えた。
「……実は、瑠璃と一緒にいることを天宮の会長に認めてもらうために、ある条件を出されていてさ。それが、半年で莫大な実績を残して自分の事業を軌道に乗せることだったんだ。だから今日、御子柴グループの御子柴会長から、無事に仮契約を取り付けてきた。投資額は――3億円だ」
その言葉に、瑠璃は息を呑み、佳代子は手にしていたティーカップを静かにソーサーへと置いた。
「これから俺はその3億を使って、半年で成果を出さなきゃいけない。一歩間違えれば、一生かかっても返せない3億という莫大な負債を背負うことになる。……それでも、瑠璃と胸を張って一緒にいたい。勝算もある」
普通の親であれば、一般人には到底理解できない「3億円」という桁違いのスケール感と、一歩間違えば破滅というリスクに、顔を青くして引き止める場面だろう。3億という数字は、一生かけても稼げるか分からない巨額だ。
だが、佳代子は狼狽えることも、責めることもしなかった。
彼女はただ静かに、まっすぐな瞳で奏多を見つめた。その眼差しは、覚悟を決めた我が子の心の深奥まで見通しているかのようだった。
しばらくの静寂ののち、佳代子は深々と息を吐き、どこまでも穏やかで、包み込むような笑みを浮かべた。
「……3億円なんて、私のような人間には想像もつかないような大金よ。正気じゃないと思う人だっているかもしれないわね」
そう前置きすると、佳代子は奏多の手の上に、自らの温かい手をそっと重ねた。
「でもね、奏多。あなたがどれほどの覚悟でその決断をしたのか、私には痛いほど伝わってくるわ。……瑠璃ちゃんを心から大切に想って、そのためにそこまでの勝負に出るなんて、男としてすごく誇らしいことよ」
「母さん……」
「男が大切な人のために人生を賭けて勝負に出ると決めたのなら、母親がすることは一つだけよ。心配して足を引っ張るんじゃなくて、あなたの選択を信じて、全力で応援すること。……いくらでも挑戦しなさい。そして絶対にやり遂げられるのよ」
母親としての圧倒的な包容力と、息子への絶対的な信頼。一切の揺らぎもないその言葉に、奏多は胸の奥が熱くなり、力強く頷いた。
「……ありがとう」
奏多には言葉がそれ以上出なかった。
そのやり取りを横で聞いていた瑠璃は、目元にジュワッと熱い涙を浮かべ、深く感動したように胸を押さえていた。
「佳代子お母様……! わたくし、奏多様のお母様があなた様で、本当に幸せですわ……っ!」
感極まった瑠璃がテーブル越しに佳代子へと抱きつき、佳代子も「もう、泣き虫ねぇ」と嬉しそうにその背中を優しくさする。
頼もしい母の温もりと、健気に寄り添う瑠璃の存在。3億円というあまりにも巨大な重圧を背負った奏多の心には、もう一切の迷いも恐怖も残っていなかった。
そして振舞われたオムライスを食べ終わると、しばらくして瑠璃の屋敷から母親と共に自宅のアパートに帰宅した奏多。
静まり返った自室のデスクに腰掛け、奏多は手元のスマートフォンに目を落としていた。
瑠璃と母の温もりのおかげで、胸を満たしていた重圧は心地よい熱へと変わっている。
だが、一人になった静けさの中で、ふと脳裏にこれまでの軌跡が巻き戻されるように蘇ってきた。
父親は俺がまだ物心つかない幼い頃に病気で他界していた。
母である佳代子は女手一つで、弱音一つ吐かずに俺を育て上げてくれた。決して裕福ではないが、愛情だけはずっと注がれてきた。
子供の頃の俺は、どこにでもいる普通の少年だった。
運動神経は人並み、勉強は周りより少しだけ得意という程度。特別に秀でた才能があるわけでもなければ、底抜けに明るいわけでもない。
友人関係は良好で、穏やかな日常を送っていた。
そのままの惰性で地元のそこそこ進学校に進み、大学もその流れで都内の中堅名門私立に合格した。
地味で、平穏で、波風の立たない人生。
――それが、少し前までの俺のすべてだった。
それがどうだ。
今の俺は、日本屈指の財閥である天宮グループの令嬢・天宮瑠璃の彼氏であり、あろうことか御子柴から3億円の出資を引き出して新規事業を立ち上げようとしている。
……時々、ふと考えてしまうんだ――。
瑠璃は誰もが振り返るほどの美少女で、数え切れないほどの財産を持っている。
世間体から見れば、俺など彼女の隣に並ぶにはあまりにも分不相応だ。間違いなく、不釣り合いだ。
それなのに、彼女は出会った頃からずっと、俺にまっすぐすぎるほどの好意を向けてくれた。
最初は「どうして俺なんだろう?」と、ただただ不思議で仕方がなかった。
もちろん、男として最初から彼女の圧倒的な容姿や端麗さに目を奪われていなかったと言えば嘘になる。
贔屓目なしで見ても、あいつはぶっちぎりで可愛い。
中身を知れば、その魅力はさらに深まった。
純粋で、一途で、少しわがままだけど愛おしい。彼女が向けてくれるまっすぐな好意を、二つ返事でそのまま受け止めたいと思った瞬間なんて、山ほどあった。
それなのに、俺はどこかでブレーキを踏んでいた。
身分の違い。住む世界が違うという見えないフィルター。
「俺なんかじゃ不釣り合いだ」という臆病さがあったからこそ、彼女の気持ちを受け止めて正式な交際に至るまでには、随分と時間がかかってしまった。
そして、そのフィルターは、今でも完全に消え去ったわけではない。
時折、彼女と並んで歩くとき、華やかな世界と自分の地味な足元を見比べて、住む世界が違うと感じてしまう部分は確かにまだある。
だけど――。
彼女を心から好きになり、こうして恋人同士でいられる以上、俺はいつまでもそんな臆病なフィルターに甘えていたくない。
同じ目線で、彼女と同じ世界を感じたい――。
それは何も、彼女に合わせて高級な服を着たり、贅を尽くしたりといった表層的な話じゃない。もっと本質的な話の部分で。
彼女に男としてのステータスや誇りを含めても、対等に胸を張れる近い存在でありたい。そう強く願っている。
今でも、「瑠璃はどうして俺なんかを選んでくれたんだろう?」と胸の奥で自問してしまうことがある。
それはきっと、俺自身がまだ未熟だから――。
周囲から「身の丈に合わない相手だ」と陰口を叩かれたとき、心のどこかでそれに納得してしまいそうになる自分がいる。
それが悔しくて、情けなくて、自分で自分が許せない。
だから、分かったんだ――。
たとえあの時、天宮会長から「事業で成果を出さなければ交際を認めない」なんて条件を出されていなかったとしても――俺は、きっとどこかで何かに挑戦していたはずだって。
世間から見たら、瑠璃があんなにも真っ直ぐで、恥ずかしげもなく愛情を表現してくれるものだから、「瑠璃の方が俺に夢中になっている」ように見えるかもしれない。
だけど、それは違うんだよ――。
本当に夢中なのは、他でもない俺の方なんだ――。
3億円という大金を背負い、人生を賭けた無謀な勝負をしてでも手に入れたい。
……俺は、それほどまでに瑠璃のことが大好きで、狂おしいほどに夢中なんだから。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、奏多はスマートフォンをぎゅっと握りしめた。
胸の奥の迷いは完全に消え失せ、あるのはただ、彼女の隣にふさわしい男になるという強い決意だけだった。
静かな自室で、奏多はふと、以前に瑠璃から言われた言葉を思い出した。
『気が向いたときでいいので、もっとたくさん言ってくださいまし……?』
照れくさそうに、けれど真剣な瞳でそうねだってきた瑠璃の姿が脳裏に浮かぶ。
奏多は微かに笑みをこぼすと、スマートフォンを手に取り、慣れない手つきで画面をフリックしていった。
『今日はいろいろありがとう。オムライスすっごく美味しかったよ。』
『……それと、俺は瑠璃のことが本当に好きだ。おやすみ、瑠璃』
送信ボタンを押した直後、まるで待ち構えていたかのようにスマートフォンがプルルと震えた。
通知画面には、大量のハートマークと共に瑠璃からのメッセージが表示されている。
『うわぁぁぁぁん、ずるいですわ奏多様っ!! そんなの反則ですわ!!』
『わたくしも、世界で一番、宇宙で一番愛してますわ! 明日も絶対、お顔を見に行きますからね! おやすみなさいませ、愛しい奏多様♡』
文字の端々から、彼女がベッドの上でジタバタと喜んでいる姿が目に浮かぶようで、奏多は思わず吹き出してしまった。
その文字の温もりに包まれながら、奏多はスマートフォンをそっと胸元に引き寄せる。
胸の奥に残っていた不安や重圧はすっかり消え去り、奏多は温かい充足感を胸に抱きながら、明日からの戦いに向けて静かに目を閉じた。




