第三十八話 御子柴重蔵
綾部は手際良く準備した契約書をテーブルに綺麗に並べていた。
圧倒的な熱量と覚悟がぶつかり合った密室に、カチリと冷たいライターの音が響いた。御子柴は不敵な笑みを崩さぬまま、手元の契約書を雑に引き寄せる。
「……いいだろう。俺の眼鏡にかなうかどうか見せてもらう。今すぐここで、仮契約のサインを済ませよう」
御子柴が万年筆を手に取ろうとした、その瞬間――。
ガチャリ、とVIPルームの重厚な扉が唐突に開き、気怠げな空気をまとった一人の青年が足を踏み入れた。御子柴の息子――御子柴家の御曹司、隼人だった。
「親父、いつまでこんなところで籠ってんだよ。退屈で死に……っと?」
愚痴を零しながら入ってきた息子の視線が、ふとテーブルの傍らに立つ綾部でピタリと止まった。
スリーピーススーツを完璧に着こなし、涼やかな美しさを放つ彼女の姿は、この夜のどの社交的な女性よりも強烈に彼のツボを撃ち抜いたらしい。
息子の瞳がハートマークになりそうなほどの衝撃を受けて見開かれる。彼は父親の険しい視線すらも完全に無視し、一瞬で綾部の至近距離へと滑り込んだ。
「とても美しい女性だ…お名前は?」
いきなり至近距離まで詰め寄られたものの、綾部は一歩も引かない。背筋をすっと伸ばしたまま、まるで路傍の石でも見るような冷ややかな視線を返す。
「初対面の女性に対する最初の言葉がそれとは、御子柴家の教育方針には少し驚かされますね」
「失礼しました!いや、でも本当美人だな! お姉さんのこと知りたいんです!名前とか年齢とか!」
前のめりになってまくし立てる隼人に対し、綾部はわずかに細めた涼やかな瞳で、氷点下の言葉を落とした。
「すべてお答えする必要性を感じない質問ですね」
「そこを何とか! じゃあヒントだけでもさ!」
「あいにく私は、お子様のお相手をしている暇はないので、お引き取りいただけますか」
冷淡に言い放つその姿に、隼人はむしろ全身の血を沸騰させたように顔を輝かせる。
「冷たい……! でもそこも良い! たまんねえな! 待って! 彼氏とかいたりするの!?」
騒がしい熱気など一切意に介さず、綾部は美しい微笑みを張り付けたまま、トドメとばかりに静かに言い放った。
「仮にいたとして、わざわざあなたにお伝えする義理はございませんが」
――キリッとした美しい笑顔のまま、完璧な塩対応で完封していく綾部。その見事なまでのあしらい方に、奏多は思わず呆れと苦笑が混じった表情を浮かべた。
これ以上場の空気が険悪になっては出資に障ると踏んだ奏多は、慌てて穏やかな笑みを貼り付け、御子柴へと体を向けた。
「あ、御子柴会長、気になさらないでください。こういうハプニングも含めて、俺たちは全然ウェルカムですので」
奏多が大人な対応で場のトゲを丸くしようとした矢先だった……
「隼人……お前なっ!いい加減にしろ……っ!」
一喝した御子柴の怒声が、VIPルームの天井を揺るがした。青筋を浮かべた御子柴が、手元の葉巻ケースをテーブルに叩きつける。
「このバカ息子がっ!大事な商談の場に泥を塗りやがって……! おい、誰かこいつを外につまみ出せ!」
「ちょ、親父待てって! せっかく運命の出会い果たしたんだからさ! お姉さん、連絡先だけでも――!」
黒服の男たちに両脇を抱えられ、名残惜しそうに身をよじりながら隼人は扉の外へと引きずり出されていった。バタンと重い扉が閉まり、再びVIPルームに静寂が戻る。
御子柴はこめかみを押さえながら、盛大に深い溜息を吐き出した。
「……すまん、見苦しいものを見せた。……いや、普段はあんな軽薄な男ではないのだが、どうにも恥ずかしい限りだ」
気を取り直すように鼻を鳴らした御子柴は、先ほどまでの呆れ顔から一転して冷徹なビジネスマンの顔に戻り、スルスルと書類を綾部の方へ押しやった。
「……で、どこまで話したか。仮契約のサインだな。愛想の良い女ではないが、その度胸と頭のキレは気に入った。続きは正式な場で進めるとしよう」
綾部は乱れた様子など微塵も見せず、優雅な仕草で万年筆を拾い上げ、サラサラと淀みなく署名を済ませる。
「お気になさらず。予測不能なハプニングに対応する度胸も、プロジェクトには不可欠ですので。――これにて、御子柴グループとの提携、正式に締結いたしました」
冷ややかな微笑みを浮かべたまま、綾部は完璧なタイミングで契約書をまとめ上げた。奏多はその横で力強く頷き、確かな勝利の感触をしっかりと握りしめていた。
そして、仮契約を済ませその後の対応は綾部が取り持ってくれることとなった。
数十分後。シガー・クラブの重厚な扉を背に、外の夜気に触れた瞬間、奏多は肺の奥から大きく息を吐き出した。
その肩が微かに震えているのは、寒さではない。
半年後に奏多が御子柴を満足させられなければ、一生かかっても返せない3億円もの莫大な負債を背負う
――とてつもないプレッシャーの重みが、ようやく遅れて全身の神経に突き刺さってきたからだ。
全身の筋肉がこわばっていたことに今更ながら気づき、奏多は冷や汗の滲んだ拳をぎゅっと強く握りしめた。命運を賭けた勝負の重圧が、じわじわとリアルな痛みに変わっていく。
そんな奏多の様子を横目に、隣を歩く綾部もまた、タブレットを操作していた手をふと止め、緊張から解放されたように小さく息をついた。
「……やりましたね、奏多さん。御子柴会長との仮契約、無事に締結です。条件付きとはいえ、3億の出資を引き出せたのは奇跡に近い」
綾部はタブレットを鞄にしまいながら、夜空を見上げてふっと息を漏らす。
「あぁ……本当に、綾部さんが隣にいてくれてよかった。俺一人だったら、あの土壇場でプレッシャーに押しつぶされてたかもしれなかったんで」
奏多が苦笑いを浮かべながら呟くと、綾部は少しだけ目を丸くし、それからどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「あなたのあの覚悟がなければ御子柴さんの眼鏡にはかないませんでしたよ。……後の細かい契約の詰めや法務手続きは私がやります。あなたは、この事実をすぐに『あの方』に報告してあげてください」
綾部の口元には、ほんのわずかだが、確かに柔らかな笑みが浮かんでいた。奏多は強張っていた表情を引き締めると、「だな」と力強く頷き、ポケットからスマートフォンを取り出す。
連絡先を開き、瑠璃に発信。コール音は一度鳴っただけで、瞬時に通話が繋がった。
「奏多様っ!? どうでしたの!? 御子柴のオジサマ、ちゃんと話を聞いてくれました!? もし意地悪されたら、わたくしが天宮の力で御子柴グループごと買い取ってやりますわ!」
鼓膜を突き破らんばかりのルリの大声が、スマートフォンのスピーカーから漏れ聞こえてくる。相変わらずの破天荒な令嬢の言葉に、奏多は思わずスマホを耳から少し離して苦笑した。
その隣で、綾部は「また無茶苦茶なことをおっしゃるお嬢様だ……」と呆れたようにフッと息を吐き、やれやれといった様子で優雅に眉間を押さえたのだった。
「瑠璃、大成功だ。御子柴との仮契約、ぶっちぎりで勝ち取ってきた。……買い取りはしなくていいから、まずは俺の勝利を一緒に祝ってくれ」
奏多の弾むような声に、電話口の向こうで数秒の沈黙が落ちた。そして――
「――っ! やりましたわぁあああっ!! さすがわたくしの奏多様! 天才! 無敵! 世界一かっこいいですわーっ!!」
スピーカーから響く絶叫に、奏多思わず端末を耳から遠ざけた。瑠璃の喜びが電波越しにも爆発しているのが手に取るようにわかる。
「お祝い! ええ、すぐにお祝いの準備をしますわ! 今すぐ都内で一番高いレストランを貸し切りにして、シャンパンタワーを――!」
「待て待て、瑠璃。今日はもう遅いし、綾部さんも一緒だから」
奏多が苦笑しながら制止すると、電話口でハッとしたような息遣いが聞こえた。
「あ……そうでしたわ。奏多様、お疲れのところをわたくしったら……。でも、どうしてもお顔が見たいです。今すぐ飛んでいきたいくらい……!」
急に甘えるような、少しだけ湿り気を帯びた瑠璃の声。そのトーンの変化に、横で聞いていた綾部が小さく息を吐いた。
「……私はこの後、事務所に戻って契約書のドラフトを作成します。今日は直帰しませんので、お二人の邪魔はしませんよ」
綾部がそう言い残し、ヒールの音を響かせて夜の街へと消えていく。奏多と瑠璃が水入らずで過ごせるようにという、彼女なりの粋な計らいだった。
静かになった夜道で、奏多がスマホをもう一度耳に当てると、瑠璃は少しだけ恥じらうように、しかし期待に満ちた声色で囁いた。
「奏多様……あの、もしよろしければ、今からわたくしのところにいらっしゃいませんか? 以前好きだって仰っていたオムライス……まだ練習中ですけれど、奏多様のために作って待ってますわ」
少し恥じらうような、しかし期待に満ちた瑠璃の誘い。
天宮翔からの試練を、第一関門とはいえ自らの手でこじ開けた今夜。勝利の美酒を傾ける相手は、彼女しかいなかった。
「あぁ、すぐに向かうよ」




