第三十七話 御子柴重蔵
奏多が力強く頷くと、緊張を飲み込むように小さく息を吐いた。足踏みしていても何も始まらない。天宮翔との約束、瑠璃との未来。すべてはここから始まるのだ。
奏多は綾部がスマートにチョイスしてくれた、ペリエにライムが添えられたグラスを近くのテーブルにそっと置いた。
未成年である自分にふさわしいノンアルコールのカモフラージュとはいえ、今はグラスに縛られている暇などない。
迷いのない足取りでフロアの中央――御子柴重蔵のいるグループへと向かって歩き出す。綾部は半歩後ろを、気配を消して静かに追従する。
取り巻きの男たちが、見慣れない若者の接近に気づき、怪訝な顔で道を塞ごうとした。しかし、奏多は臆することなく、真っ直ぐに御子柴の目を見据えた。
「初めまして、御子柴会長。天宮リゾート開発・第七管理室の、星野奏多と申します。少しお時間をいただけますか」
周囲の空気が一瞬で凍りついた。天宮の人間が、競合である御子柴のトップに直接声をかけるなど、この場においては明白なマナー違反であり、タブーだった。
取り巻きの一人が怒鳴り声を上げようと身を乗り出す。
「……待て」
御子柴が短く制止すると、周囲は水を打ったように静まり返った。分厚い葉巻の煙越しに、御子柴の鋭い眼光が奏多を値踏みするように上から下へと舐め回す。
「ほう。天宮の娘の腰巾着かと思えば、随分と面白い肩書きを背負ってきたもんだな。第七管理室……確か、天宮の不良債権の掃き溜めだったか」
御子柴の唇の端が、面白がるように歪んだ。晩餐会で見せた奏多の狂犬のような噛みつき具合を、彼もまた鮮明に覚えていたのだ。
「ここで俺に声をかけた意味は分かっているんだろうな? 面白くない話なら、天宮の小僧だろうと容赦はせんぞ」
重圧がのしかかる。だが、奏多の背後で、綾部がわずかに彼の背中に触れた。それは「そのまま行け」という無言の合図だった。
御子柴の威圧感に飲まれそうになる瞬間、背中越しに伝わる綾部の静かな後押しが奏多を支えた。瑠璃の無邪気な笑顔が脳裏をよぎる。こんなところで臆している場合ではない。
「掃き溜めだからこそ、です。天宮が持て余し、見落としている『聖域』がそこに眠っています」
奏多は一歩も引かず、御子柴の目を真っ直ぐに射抜いた。取り巻きたちがざわめく中、彼の声はクラブの静かなBGMを切り裂くように響いた。
「世界中の富裕層が血眼になって探す『誰にも邪魔されない極上の体験』。私はそれを、天宮の看板に頼らず、一から組み上げました。そこで御子柴会長には投資をお願いしたい。単なるリゾート開発ではありません。私が差し出すのは天宮の鼻を明かし、新たな市場を独占するための『特等席』です」
「天宮の鼻を明かす」。その言葉が出た瞬間、御子柴の目が鋭く光った。競合相手の内部の人間から飛び出した、あまりにも挑発的なセリフ。
「……くくっ。ははははっ!」
不敵な笑い声が上がり、やがてそれは豪快な高笑いへと変わった。取り巻きたちは呆気に取られたように顔を見合わせる。
「晩餐会の時も思ったが、お前は本当にイカれてるな。自社の会長を敵に回すような真似をして、本気で俺から金を引き出せると思っているのか?」
「本気でなければ、こんな場所まで押しかけません」
御子柴は葉巻の灰をゆっくりと落とすと、奏多を面白そうに見つめた。
「いいだろう。その『特等席』とやらが、いくらの価値があるのか聞いてやろうじゃないか。……VIPルームへ来い。お前の言う『極上の体験』が俺を退屈させたら、二度とこの業界を歩けないようにしてやる」
御子柴が顎で奥の個室をしゃくった。綾部が奏多の背後で、わずかに口角を上げる気配がした。第一関門突破。ここからが、本当の勝負の始まりだった。
そして御子柴は奏多と綾部の2人だけをVIPルームに連れ出した。
外界の喧騒から完全に遮断された防音の室内で、御子柴は革張りのソファに深く腰を下ろし、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「俺が目指しているのは、敵対ではないです。天宮の手が届かない場所で独自の経済圏、すなわち『聖域』を作れば、それは本家にとっても無視できない最大のカードになる。そして、この事業に最初から乗ってくれる御子柴グループには、得られる莫大な利益だけでなく、その『聖域』を介して天宮と対等以上のコネクションを築く特等席をご用意します。天宮を出し抜くのではなく、天宮を動かす側に回る――そのためのパートナーシップの提案です」
奏多の言葉が部屋に響き渡る。「天宮の鼻を明かす」という先ほどの挑発から一転、「天宮を動かす側に回る」という壮大なビジョンへの転換。ただの若者のハッタリか、それとも計算し尽くされた野心か。御子柴は探るような目で奏多を見つめた。
「ほう……。天宮の末端の掃き溜めから、本家をコントロールするカードを作ると言うのか。大きく出たな、小僧」
御子柴はグラスの氷をカランと鳴らした。
「だが、言葉遊びなら誰でもできる。俺が聞きたいのは、その『聖域』とやらで具体的にどうやって利益を出し、どうやって天宮に存在を認めさせるかだ。お前の言う『誰にも邪魔されない極上の体験』とは何だ?」
奏多が口を開こうとしたその時、背後に控えていた綾部が一歩前に出た。彼女は手にしたタブレットを素早く操作し、テーブルの中央に置かれたモニターにスライドを投影する。
「『ハートアイランド・プロジェクト』。完全会員制、一日の組数限定、幻のフィッシングリゾートおよびハネムーンスイートです」
画面には、手付かずの自然が残る美しい島の全景と、その周辺海域の豊かなデータが映し出された。
「この海域は天宮が数十年間にわたり私有地として封鎖してきたため、一般の漁業権が介入しない完全な『空白地帯』です。ここに世界のトップクラスの富裕層や釣り愛好家を招き、自らの手で幻の魚を釣り上げ、専属の一流シェフがその場で調理する……。原始的でありながら、究極の贅沢を提供するパッケージです」
「……なるほど。天宮が放置していた資産を、ブランドとして再構築するわけか。だが、それだけではただの高級リゾートだ。『天宮を動かすカード』にはなり得ん」
御子柴の指摘は鋭かった。単なる利益の出るリゾートというだけでは、彼が動く理由にはならない。
(…ここまでは俺達の想定通り、ここからカードを切る)
御子柴の過去の経歴や、かつて手放した幻のリゾート計画のデータを、綾部は事前に綿密なリサーチで掘り起こし、奏多の弾薬としてしっかりと装填していた。
御子柴の過去の経歴や、かつて手放した幻のリゾート計画のデータ。綾部はそれらをタブレットに映し出し、奏多の背後からそっと差し出した。
「御子柴会長。あなたは一代で帝国を築いたが、『誰も踏み込めない真の楽園』のオーナーになったことはないはずです。……この計画がどうなったか、覚えていますか?」
画面に映し出されたのは、かつて御子柴が若き日に夢見ながらも、資金繰りと天宮の妨害によって頓挫した幻の海洋リゾートの設計図だった。その封印された過去のデータを突きつけられ、御子柴の目が鋭く細められる。
「天宮が手を出せない聖域に、今度こそあなたの名前の旗を立てる。――どうでしょう、最高にゾクゾクするギャンブルだとは思いませんか?」
奏多が鮮烈な笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねる。
「それに、あの海の魚を熟知し、世界のVIPの舌をうならせる腕を持つ『職人』たちは、金だけでは動きません。すでに我々は、彼らと水面下でガッチリと手を取り合っている。御子柴会長、あなたがいくら巨費を積もうとも、我々を通さなければあの島で最高峰の体験は絶対に手に入らないのです」
奏多の挑発的かつ確信に満ちた言葉に、御子柴の葉巻を持つ手がピタリと止まった。
かつて御子柴重蔵が若き日に夢見ながらも、資金繰りと天宮の妨害によって頓挫した幻の海洋リゾート計画。
その封印された過去すら見抜かれていたことに、御子柴の目が細められる。
そして、絶妙なタイミングで綾部が動いた。彼女は音もなくテーブルに近づき、用意していた保温トレイからいくつかの小皿を並べる。
「……試食、というには少々粗末な場ではありますが」
蓋が開けられると、スモークの香りと共に、熟成された高級魚の刺身や、極上の仕立てが施されたカルパッチョが姿を現した。
それは、あの島で瑠璃と奏多達を唸らせたシェフが、船長が釣り上げた『奇跡の海』の魚を使って、この日のために特別に仕込んだ品だった。
「彼らは、ただ金で雇える人間ではありません。この島の海を愛し、その価値を本当に理解する者としか仕事をしない。……我々はすでに、彼らと確かな信頼関係を築いています。天宮の力でも、御子柴の金だけでも、この味と体験は手に入らない」
奏多は、御子柴の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたに足りない『真の楽園』のピースは、すべてここにあります。天宮の庭で、天宮の手が届かない楽園を共に創り上げる。……このギャンブル、乗ってみませんか?」
沈黙がVIPルームを支配する。御子柴は小皿の料理をじっと見つめた後、フォークを手に取り、無造作にカルパッチョを口に運んだ。
ゆっくりと咀嚼する。その表情からは一切の感情が読み取れない。綾部がわずかに息を詰める中、御子柴はグラスのコニャックを傾けて喉を潤した。
「……ふん。」
御子柴はフォークを置き、ソファに深く背中を預けた。
「味が濃すぎるな。酒が足りなくなる」
そう言った彼の口元には、先ほどまでの冷徹な経営者のものではなく、血湧き肉躍る闘争を求める『ギャンブラー』の笑みが深く刻まれていた。
奏多の澱みないプレゼンテーションが続く。用意された事業計画書の数字ではなく、ビジネスの核心を突く鋭い言葉が、御子柴の鼓膜を直接打った。
「収益のメカニズムは三つです。第一に、一日の数量限定という排他性を武器にした『超高額な会員権と年間ロイヤリティ』。客単価の限界を突破させます。第二に、我々しか提供できない船長やシェフの体験に紐づく、外部資本ゼロの『高利益ラグジュアリー消費の独占』。そして最後に――この聖域の成功を餌に、後から焦った本家・天宮に『莫大なライセンス料』を払わせて従属させる。初期投資は最小限に抑えつつ、キャッシュとマーケットを総取りする。――構造上、負けのないビジネスモデルです」
さらに、綾部はタブレットを操作し、鮮烈なビジュアルとデータを御子柴の目の前に突きつける。
「トドメの強みは、この地形そのものにあります。ご覧ください――この島の輪郭は、自然が作り出した完璧な『ハート型』です」
画面には、空撮されたエメラルドグリーンの海に浮かぶ、美しいハート型の無人島の全景が映し出された。
「SNSやメディア映えを狙うまでもなく、世界中の富裕層や著名人たちが『恋人との極上のバカンス』を過ごすための聖地として、これ以上ない話題性を最初から持っています。そして、運用面でも死角はありません」
画面が切り替わり、年間を通じたスケジュールと収益予測のグラフが表示される。
「夏季はプライベートビーチと極上のハネムーンスイートを中心とした『バカンスリゾート』として最高値の客単価を叩き出す。そして、観光の閑散期となる秋から春にかけては、世界の愛好家を狂わせる『フィッシングリゾート』として完全稼働させる」
綾部からバトンを受け取るように、奏多が力強く言葉を継いだ。
「季節によって客層を完璧にシフトさせることで、年間を通じて一時の隙もなく利益を生み出し続ける。――これが、俺たちの描く完全無欠のプロジェクトです」
それは、大学生が思いつきで語る夢物語ではなく、綾部の緻密な計算と、奏多の度胸が完全に噛み合った『刃』だった。
「……超高額の会員権。それにハート型の話題性と通年稼働のロジックか。おまけに、最終的に天宮本家からライセンス料を毟り取るとはな」
御子柴は面白そうに喉の奥で笑い声を漏らした。天宮の鼻を明かすだけでなく、その首根っこを掴んで振り回すという構想。
長年天宮の後塵を拝してきた彼にとって、これほど魅力的な提案はない。
「天宮の娘をたらし込んだだけの小僧かと思っていたが、育ちの良さだけが取り柄の二世のボンクラ共とは違う。どうやら見立てが甘かったようだ。お前のその異常なまでの執念……気に入った」
御子柴は葉巻をもみ消し、身を乗り出した。
「投資額は3億だ。初期の施設改修、プロモーション、そして職人どもの囲い込み。それで足りるな?」
綾部がわずかに目を見開く。御子柴が投資するといった金額は彼女の想定していた初期費用の倍近い金額だった。
「だが、条件がある。半年後、このリゾートのオープン記念の初日。最初の客は、この俺だ。もしその日、お前が俺を満足させられなかったら……その時は、投資した全額を耳を揃えて返してもらう。もちろん、天宮の力は一切借りずにな」
それは、成功すれば莫大な利益と『天宮を動かすカード』が手に入り、失敗すれば一生かけても返せない借金を背負う、究極のデスマッチの提案だった。




