第三十五話
瑠璃が持ってきた豪華な二段重を開けると、中にはプロの料理人が作ったような彩り豊かな弁当が綺麗に並べてあった。
「わ……すごいな、これ。毎日こんなの持ってきてくれるのか?」
「もちろんですわ! 腹が減っては戦はできませんし、それに……わたくしが作ったわけではないですが、シェフに特別にお願いして、奏多様の好みを詰め込んでもらったんですから!」
胸を張る瑠璃の姿に、奏多は思わず苦笑しながらも箸を取る。
「ありがとう、いただきます。……うん、めちゃくちゃうまいよ」
奏多が美味しそうに頬張るのを見て、瑠璃は満足げに花を咲かせたような笑顔を浮かべた。
そんな二人の様子を、綾部はマグカップのレモン茶を一口飲みながら、冷ややかな、しかしどこか温かい目で見守っている。
「食事の時間はそこまでにしておきましょうか。のんびりしている暇はありません」
綾部はスッと表情を引き締め、先ほどの話題の続きへと戻った。
「先ほどお話しした、あなたに興味を示している『御子柴グループの会長・御子柴重蔵』ですが……なぜあえて彼を最初のターゲットに選んだのか、その理由をお話します」
タブレットを操作し、綾部は御子柴重蔵のプロフィールやこれまでの動向を示すデータをホワイトボードの横に映し出した。
「御子柴会長は、重工業を中心に手広く事業展開してグループを統率する、業界でも轟く大物です。表向きは天宮グループのライバルですが、実は彼は数年前から『全く新しいジャンルのリゾート事業や海洋開発』への参入を水面下で模索していました」
綾部はスライドを切り替え、さらに言葉を続ける。
「ですが、自社のイメージや既存のしがらみがあって、なかなか思い切った一歩が踏み出せずにいた。そこに、あの『ハートアイランド』です。天宮の名を使わず、完全に手付かずの自然が残る聖域でありながら、最高級のフィッシングリゾートとしてのポテンシャルを秘めている。これを見せれば、ライバル企業である天宮を出し抜く好機として、彼が食いつく可能性は十分にあります」
「なるほど……。ただ興味を持たれてるってだけじゃなく、向こうのビジネス的な野心にもガッチリ噛み合うってわけですか」
奏多が納得したように頷くと、綾部は真剣な眼差しを向けた。
「ええ。単なる資金調達の相手としてだけでなく、うまく交渉すればこのプロジェクトの強力な協力を仰ぐことができます。……ただ、相手は百戦錬磨の経営者です。ただの大学生であるあなたが直接アプローチしても、まともに取り合ってもらえないでしょう」
綾部は不敵に微笑むと、手元の画面をさらに操作した。
「そこで、御子柴会長が今週末に都内の会員制クラブで開かれる非公式のチャリティパーティに顔を出すという情報を掴みました。関係者以外は立ち入れない場所ですが、私の人脈を使えば、あなたを『私のアシスタント兼、プロジェクト代表』として潜り込ませることが可能です」
その言葉に、瑠璃がスッと手を挙げる。
「じゃあ、わたくしも一緒に行きますわ!」
瑠璃の勢いに、綾部は即座に首を横に振る。
「……いいえ、瑠璃様はダメです。あなたが同行すれば、一発で天宮の関係者だとバレて、御子柴会長に警戒されます。あくまで動くのは、奏多様と……私、補佐役の綾部のみです」
綾部の正論に、瑠璃は「むぅ……」と小さく頬を膨らませるが、すぐに真剣な表情に戻ってうなずいた。
「……わかりましたわ。でも、失敗したら許しませんからね! 奏多様、しっかり頼みましたわよ!」
瑠璃の力強い励ましを受け、奏多はぐっと拳を握りしめた。
「ああ、任せてくれ。どんな手を使ってでも、あの男の心を掴んでみせるよ」
窓際の小さなオフィスで始まった、逆転のための第一歩。天宮のライバルを巻き込む危険な賭けが、いよいよ幕を開けようとしていた。
オフィスでの作戦会議を終えた翌日。奏多は、かつて自分が働いていた地元のスーパーに足を運んでいた。
自動ドアをくぐり抜け、バックヤードへ向かう通路には「営業再開に向けた特売チラシの確認」「発注数の再計算」といったホワイトボードの文字が並び、社員たちがテキパキと指示を飛ばし、忙しそうに動き回っている。
少し前まで、瑠璃が引き起こした「全商品買い占め事件」のせいで臨時休業に追い込まれていたとは思えないほど、活気を取り戻した現場だった。
事務所のドアを軽くノックして中に入ると、忙しく資料に目を通していた店長が、柔らかい笑みを浮かべて顔を上げた。
「おっ、奏多くん。どうしたんだい? 臨時休業でしばらくシフト入ってないはずだけど」
優しげな声音で迎えてくれる店長に、奏多は脱帽して一礼し、用意してきた封筒を両手で丁寧に差し出した。
「店長、お忙しいところすみません。……突然で本当に申し訳ないんですが、こちらのスーパーを退職させてください」
差し出された退職届の文字を見た瞬間、店長は少しだけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みに戻ってそっとそれを受け取った。
「退職、か……。あの令嬢様の一件があってから、奏多くんの周りが急に慌ただしくなったのは知っていたけれど……いざこうして言われると、やっぱり寂しいものだな」
店長は椅子に深く腰掛けると、真摯な眼差しで奏多に向き直った。
かつてアルバイトとして採用したときから、奏多がどれほど真面目に、どんなときも責任感を持って働き続けてくれたかを思い出しているような、そんな温かい目だった。
「これまでどんなに忙しいシフトでも嫌な顔ひとつせず、バイトの仲間たちや客層のケアまで完璧にこなしてくれた。奏多くんには本当に助けられてばかりだったよ。だからこそ、ここで引き止めるのは君の未来に対して不誠実ってものだね」
「ありがとうございます。ここで店長や皆さんと働かせてもらった時間や経験は、俺にとって本当に大切な財産です。急な申し出で、しかも営業再開に向けて一番人手が欲しいこの時期に抜けること、本当に申し訳ありません」
深く頭を下げる奏多に、店長は優しく首を横に振った。
「謝る必要なんてないよ。それに、次のステップに進もうとしている若い目を、大人が邪魔しちゃいけない。手続きの方はこちらで責任を持って、会社に無理を言ってでも最速で進めておくよ。今日付けですぐにでも新しい道に集中できるように手配するから安心していい」
「……ありがとうございます。本当に、何から何までお世話になりました」
店長の細やかな配慮と温かい言葉に、胸が熱くなる。
その後、引き継ぎの段取りやロッカーの私物の整理についても、周囲の社員の迷惑にならないようしっかりとスケジュールを組み、滞りなく済ませた。
スーパーの制服を丁寧にたたみ、ロッカーに納めて私服に着替える。見慣れたバックヤードの景色に一礼し、表に出る。
スマホの画面を開くと、第七管理室のチャットグループには綾部からの冷徹で的確な資料の数々と、瑠璃からの「今日も一日頑張ってくださいまし!」という元気な応援メッセージが届いていた。
生活の基盤であったアルバイトを円満に、そして誠実に卒業し、プロジェクトに全身全霊で集中できる土壌はすべて整った。
覚悟を決めた奏多は、スマホをしっかりとポケットにしまい、差し込む光の中へ前を向いて歩き出した。




