第三十二話 天宮翔
奏多は一度深く息を吸い込み、逃げ出したい衝動をねじ伏せるように拳を強く握りしめた。
「返す言葉もありません。俺が無力で、綺麗事しか言えないガキなのは事実です。ですが、資産や家柄の力で固められた縁談が、本当に瑠璃さんを幸せにしますか?会長が言っているのは『天宮家の利益』であって、瑠璃さん個人の幸せじゃない」
奏多の声は決して大きくはなかったが、冷徹な静寂に支配された会長室にはっきりと響き渡った。
天宮翔の表情は変わらない。だが、その瞳の奥にわずかに波紋が走る。
「だからこそ、ここで引き下がるわけにはいきません。力がないなら、これから泥水をすすってでも這い上がります。天宮の看板に頼らなくても、瑠璃さんを隣で支えられる男になってみせます」
奏多はプレッシャーに膝が折れそうになりながらも、一歩も引かずに翔の目を見据え続けた。
「今の俺は莫大な資産なんて持ってないけれど……少なくとも、彼女を人形のようには扱いません」
言葉を言い切った瞬間、ピタリと室内の空気が止まったような重い沈黙が落ちる。
翔は組んだ手の上に顎を乗せ、瞬きひとつせずに奏多を見据え続けている。数十秒にも感じられる長い時間の後、やがて翔がふっと短く息を吐いた。
「……青臭い。実に青臭い反論だ」
その声の温度は変わらないが、先ほどの突き刺すような殺気はわずかに薄れていた。
「泥水をすすって這い上がる、か。大抵の人間は、その泥水の味を知った途端に逃げ出すものだがな」
翔はゆっくりと立ち上がり、再び窓際へと歩いていく。背を向けたまま、眼下の巨大な東京の街を見下ろした。
「綾部も面白がるわけだ。馬鹿正直で、計算高くない。……瑠璃が惹かれるのも、無理はない」
独り言のように呟き、そしてすっと振り返る。その足音は、静寂の部屋に冷たく響いた。
「晩餐会の事といいよく回る口だが、言葉だけでは何も覆らん。私の決定は天宮の決定だ。お前のその覚悟を、私が試してやる」
翔の目が、再び氷の刃のように奏多を射抜く。
「瑠璃との交際を一時的に黙認してやる。ただし、条件がある」
冷たく言い放つと、翔はデスクへ戻り、引き出しから一枚の黒いカードキーを取り出した。
それを無造作に手に持ち、奏多の座るソファのテーブルへと歩み寄る。
カチャリ。
カードキーが、冷たい音を立ててテーブルの上に投げ出された。
「天宮グループが投資している、ある新規事業の末端組織だ。経営は悪化し、いつ潰れてもおかしくないような部署。お前はそこに入り、半年以内に結果を出せ」
翔は冷ややかに見下ろしたまま、低い声でトドメを刺すように告げる。
「学生の遊びの延長ではない。実社会で、天宮の名を使わずに、お前の言う『這い上がる力』とやらを証明してみせろ。できなければ、その時は二度と瑠璃に近づくことは許さん。……どうする?」
奏多が迷いなく手を伸ばし、テーブルの上のカードキーを力強く掴み取った。
「半年あれば十分です。最高の結果に導いてみせます。……あなたを驚かせてみせます、覚悟していてください」
その決断の速さ、そしてまっすぐに見据えてくる眼差しに、翔はほんの一瞬だけ、わずかに目を見開いた。冷徹な仮面が、ほんの少しだけ揺らいだ瞬間だった。
だが、それはすぐに元の厳しい表情へと戻る。
「……大口を叩く。その威勢がどこまで持つか、見物だな」
翔は小さく鼻で笑うと、再びデスクの席へと戻り、手元の書類に目を落とした。
「話は終わりだ。詳細な手続きは綾部に指示しておく。……せいぜい、無様に這いつくばって泥水をすするんだな」
それ以上は語るつもりはないという、明確な拒絶のサイン。奏多は深く一礼し、会長室の重厚な扉を開けて外へと出た。
扉の外では、綾部が壁に背を預けて待っていた。奏多の姿を見るなり、その端正な瞳がわずかに見開かれる。
「……五体満足で出てきましたね」
綾部の視線が、奏多の手にしっかりと握られたカードキーに向けられる。
「それは……?」
奏多から事情を聞いた綾部は、絶句した。
「はあ!? 会長が、あなたに投資先の立て直しを!? 正気ですか、あの部署は……!」
いつもの冷静な綾部が、思わず声を荒らげていた。彼女はその部署がいかに絶望的な状況かを知っているようだった。だが、奏多の表情に迷いや後悔はない。
綾部は小さくため息をつくと、姿勢を正し、奏多に向かって深々と頭を下げた。
「まったく……とんでもない貧乏くじを引かされましたね。ですが――」
綾部は穏やかな、しかし確かな敬意を宿した笑みを浮かべる。
「瑠璃様のために、そこまで。専属執事として、心より礼を言います」
そして、二人が乗ったエレベーターが1階へと到着した時。
エレベーターの扉が開き、ロビーの端で落ち着かない様子でうろうろしていた小さな影が、弾かれたようにこちらへ駆け寄ってきた。
「奏多様……っ!」
息を切らせて駆け寄ってきたのは瑠璃だった。その翡翠色の瞳には、言いようのない不安と心配の色が浮かんでいる。
彼女は奏多の顔や服装を上から下まで必死に確認し、無事を確認してようやくふっと息を吐き出した。
「よかった……本当に、無事ですのね……?」
「ああ、心配かけてごめん。ほら、無事に戻ってきたよ」
奏多が優しく微笑むと、瑠璃はホッとしたように胸をなでおろした。だが、その視線が奏多の手に握られた黒いカードキーへと移った瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。
綾部が代わるように、冷ややかな声音で答えた。
「会長から言い渡された罰ゲームのようなものですよ。……天宮グループが投資している、あの窓際部署の管理権限です」
「窓際……? まさか、あの…… 『天宮リゾート開発・第七管理室』ですの!?」
瑠璃の顔からサーっと血の気が引くのが分かった。彼女は信じられないものを見る目で、奏多とカードキーを交互に見つめている。
「なによそれ……! あそこは観光地開発しようとしたのにまともなPRもできなくて客を呼べず……維持費がかさむという理由で、取り壊し寸前まで放置していた最低な部署ですわ!」
「……瑠璃。そこの部署のこと、やけに詳しいんだな」
奏多が呆気に取られて尋ねると、瑠璃はハッと息を呑み、それから得意げにふんっと胸を張った。
「知っていますわよ! あそこは――私が最近、その取り壊し寸前の状態から買い取って、あなたと二人でバカンスを楽しんだあの島、『ハートアイランド』の元々の管理部署ですわ!」
それを聞いた綾部が、小さくやれやれと頭を振った。
「……最悪です。赤字を垂れ流し続けた挙句、瑠璃様がポケットマネーで島を買い取ったせいで、現在あの部署は管理する物件すら一つもない『窓際中の窓際』です。そこに配属されるなんて……会長は最初から、あなたに不可能な課題を押し付けただけです」
綾部の冷酷な事実の提示に、奏多は小さく眉をひそめる。
だが、その言葉を聞いた瑠璃の翡翠色の瞳が、突然カッと力強い光を帯びた。
「奏多様……っ! わたくし、思いつきましたわ!」
瑠璃が勢いよく一歩踏み出し、奏多の両手をぎゅっと力強く握りしめる。
「あの島は今、わたくしのものです! ですから、わたくしがあの島をその部署に……つまり、奏多様に運用を委託しますわ! そして、あの島を『恋人たちの聖地』として生まれ変わらせるんですの!」
興奮気味にまくし立てる瑠璃の表情は、どこまでも明るく前向きだった。
「わたくしたちが過ごしたヴィラを最高級のハネムーンスイートにして! 星空ツアーも、クルーザーでの釣りも、全部パッケージにして売り出しますわ! インスタ映えするスポットもたくさんありましたし……絶対に大ヒット間違いなしですわ!」
あまりのトーンの変わりように、奏多はわずかに目を丸くしながらも、その突拍子もないアイデアの面白さに引き込まれていく。
「ちょっと待ってください。瑠璃様の私物を事業に流用するなんて、会長が認めるわけが……」
綾部が眉をひそめて難色を示すが、瑠璃はまったく怯まない。
「お父様は『天宮の名を使わずに結果を出せ』と言っただけですわ! わたくし個人の持ち物をどうしようと、わたくしの勝手ですわよね、奏多様! これで大逆転ですわ!」
熱っぽく見上げてくる瑠璃の顔を見て、奏多の胸の内でモヤがかかっていた霧がすっと晴れていく。
(……そうか。会長は俺にただの罰ゲームを与えたつもりだったかもしれないけど……この島があれば、まだ勝負できる)
奏多は彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、力強く頷きながら笑みを浮かべた。
「ああ、乗った。あの島を世界中で一番愛される場所にしよう」
天宮翔からの理不尽な試練は、二人の絆と計画によって、最高すぎる反撃の狼煙へと姿を変えた。




