第三十一話 天宮翔
翌日。事態は綾部の予想をはるかに超えるスピードで動いた。
奏多の宣言を受け、綾部は天宮グループ本社へアポイントの打診を入れた。
数週間待ち、あるいは秘書に門前払いされることを想定していた彼女だったが、戻ってきた返答は耳を疑うものだった。
『明日の14時、本社の最上階へ通せ。』
分刻みのスケジュールで世界中を飛び回る天宮翔が、たった一人の大学生のために、翌日のスケジュールをこじ開けたのだ。
「……信じられません」
都内の天宮邸、その一室。綾部はタブレットの画面を見つめたまま、呆然と呟いた。いつも完璧に整えられている彼女のペースが完全に崩れている。
「あの人が、こんな即答で時間を空けるなんて……。何か裏があるとしか思えません」
「本当ですの!? こんな早くにお父様に会えるなんて……!」
隣で瑠璃が両手を合わせてパッと表情を明るくする。だが、綾部の表情は険しいままだった。
「喜んでいる場合じゃありません、瑠璃様。すぐに会うということは、向こうも『すぐに対処すべき問題』として奏多様を認識しているということかもしれません。……徹底的に叩き潰すつもりなんてこともありえます」
綾部はタブレットを閉じ、すぐに奏多へ連絡を入れた。
自宅で心構えをしていた奏多のスマホが、突如として激しく鳴り響く。画面に表示された『綾部』の文字を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
電話に出ると、告げられたのは『明日14時、本社の最上階・会長室』というあまりにも早すぎる指定だった。
スマホを耳にあてたまま、奏多は思わず絶句する。
「……明日、ですか? まさか、いきなり時間を空けてくれるなんて……」
受話器の向こうで、綾部が冷ややかに言い放つ。
「ええ、私だって驚いています。ですが、向こうの秘書室から正式に下りてきた命令です。明日の14時です。場所は天宮グループ本社、最上階の会長室。……逃げるなら今ですよ、奏多様」
綾部の声音には、本当に立ち向かうつもりかという重い問いかけが込められていた。
その圧倒的なプレッシャーを飲み込むように、奏多はぐっと拳を握りしめ、静かに、しかしはっきりと答えた。
「ここまで来て、逃げるなんてないですよ。行きます」
奏多の静かだが電話越しに揺るぎない声が響く。
「……そうですか」
天宮邸の一室で、綾部は短く息を吐き、微かに目を伏せた。呆れと、ほんのわずかな感嘆が混じったような、複雑な表情だった。
「では、手配を進めます。明日は私も同行し、会長室の前までご案内します。……そこから先は、あなたの戦いです」
その言葉の直後、電話の向こうから慌ただしい瑠璃の声が割り込んできた。
「奏多様……!」
瑠璃が弾かれたようにスマホ越しに声を張り上げる。その小さな体は、恐怖と不安で少し震えていた。
「わたくしも……わたくしも行きますわ! 奏多様一人でなんて、絶対に嫌です!」
「ダメです、瑠璃様」
綾部が冷徹な声でピシャリと遮る。
「会長が呼んでいるのは奏多様だけです。瑠璃様がついて行けば、火に油を注ぐだけ。それに……これは奏多様が、ご自身の覚悟を示す場です。瑠璃様が横から口を出せば、それこそ『娘に守られるだけの男』という烙印を押されますよ」
電話の向こうで反論できず、瑠璃はぎゅっと手を握りしめているのだろう。その息遣いまでが伝わってくるようだった。
彼女のそんな不安を断ち切るように、奏多はスマホをしっかりと握り直し、柔らかく、しかし力強い声で語りかけた。
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。いつだってなんとかして来ただろ?」
奏多の優しく、だが自信に満ちた声。その言葉に、瑠璃は天宮邸の自室でハッと顔を上げ、潤んだ瞳でスマホの画面を見つめた。
「奏多様……」
確かにそうだ。今回の麗華の突然の襲来も、SNSの騒動も、晩餐会の時だって、そして何より、お金に物を言わせた彼女自身の暴走ですら、奏多は逃げずに受け止め、その度に最善の答えを出してきた。
「……はい。そうですわね。奏多様は、いつだってわたくしの期待を超えてくださる、世界で一番の殿方ですもの」
瑠璃はぎゅっとスマホを胸に抱きしめるように力を込めた。
「信じて待ってますわ。でも、無理だけはしないでくださいね。もしお父様がひどいことを言ったら、わたくしが天宮グループの株を買い占めて乗っ取ってやりますから!」
「……瑠璃様。天宮の株を瑠璃様の小遣いで買い占めるのは物理的に不可能ですし、そもそもその資金源は会長です。本当にバカなんですか」
綾部の冷ややかなツッコミが入り、電話越しの重かった空気が少しだけ緩んだ。
「まぁ、いいでしょう。明日は13時に車を出します。それまでに、せいぜい身だしなみと覚悟を整えておいてください。……それでは、失礼します」
ガチャリ、と通話が切れる。
電話を切った後、夜の静けさに包まれた部屋の中で、奏多は眠れぬ夜を過ごしていた。
ベッドに横たわっても、天井を見つめながら脳裏によぎるのは明日対峙する天宮グループ会長の姿だ。
世界を股にかける巨大企業のトップ。
自分のような凡人の学生にとって、本来なら一生交わることのない次元の人物。気後れしそうになる自分を戒めるように、奏多は何度も深く息を吸い込み、拳を強く握りしめた。
不安が消えることはなかったが、その胸の奥には瑠璃への想いと、「逃げない」と誓った強い覚悟が消えない炎のように灯り続けていた。
そして翌日、13時。
約束通り、奏多の自宅近くの通りに黒塗りのリムジンが静かに横付けされた。後部座席に乗り込んだ奏多と、助手席に座る綾部。
車が滑るように走り出し、静寂に包まれた車内で、綾部がバックミラー越しに後ろを振り返る。その視線には、昨夜の電話の時とは違う、どこか品定めをするような鋭さが宿っていた。
「……少しは眠れましたか、奏多様。顔色が優れないように見えますが」
綾部の淡々とした声に、奏多は小さく苦笑いを浮かべながら背筋を伸ばした。
「寝不足なのは否定しませんけど……心の準備はしてきました。……ちなみに、会長はどんな方なんですか? 心構えだけでもしておきたいんですけど」
「知ったところで、あなたの心構えが変わるとは思いませんがね」
綾部は冷ややかに言い放つと、前を向き直りながらも、わずかに声を和らげた。
「……あの方は、徹底して合理的で、感情に流されない人物です。ですが、無意味に人を切り捨てるような方ではありません。あなたが示そうとしている覚悟が本物かどうか、その目で真っ直ぐに見極めようとなさるはずです。小細工は一切通用しませんよ」
「……分かりました。真っ直ぐ、自分の言葉でぶつかってきます」
奏多の迷いのない返答に、綾部は小さく鼻を鳴らした。
「……ふ。その意気だけは買っておきましょう」
それ以上の会話はなく、車は都心の中心部へと進んでいく。そびえ立つ摩天楼の中でも一際巨大なガラス張りのビル、天宮グループ本社へと向かった。
専用の地下駐車場から、IDカードがなければ動かないVIP専用エレベーターに乗り込む。階数表示が凄まじいスピードで上昇していく。
重力が体にかかる感覚と同時に、目に見えないプレッシャーが増していくのがわかった。
チン、という静かな音とともに、最上階に到着する。
重厚なマホガニーの扉の前。綾部が歩みを止め、振り返った。
「……ここです」
綾部の冷ややかな瞳が、奏多を静かに見据える。
「中には会長が一人でお待ちです。……健闘を祈ります、奏多様」
「ありがとうございます、では行って来ます」
綾部は一礼すると、扉の横に下がった。あとは、奏多がその扉を開けるだけだった。
深く息を吸い込んで、意を決して奏多は重厚な扉を開け、広大な会長室へと足を踏み入れた。
室内には無駄な装飾が一切なく、冷徹な機能美だけが支配している。全面ガラス張りの窓からは東京の街が一望できる。その窓を背にして、巨大なデスクの前に座る一人の男――天宮グループ会長、天宮翔がいた。
鋭い眼光、威圧感を纏う完璧なスーツ姿。部屋の空気がそこだけ数度低いように感じられる。翔は手元の書類から視線を上げず、ただ万年筆を走らせていた。
「お忙しいところ恐れ入ります。……どんなお言葉をいただく覚悟もして、今日ここに来ました」
奏多が絞り出すように声を張るが、数秒間、重苦しい沈黙だけが返ってくる。
やがて、ペンが紙から離れるかすかな音が響いた。
「……座れ」
低く、腹の底に響くような声。指差されたのは、デスクの正面に置かれた来客用の革張りのソファだった。
しかし、奏多は動かない。それを促すように、翔はゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たい目で彼を見据えた。
「覚悟、と言ったな」
翔は立ち上がり、ゆっくりとデスクを回って奏多の前へ歩み寄る。その足音は一切の無駄がなく、静かだが恐ろしいほどのプレッシャーを放っていた。
「瑠璃が勝手に島を買い、お前を連れ回していることは報告を受けている。綾部の監視下とはいえ、我が天宮の娘とあそこまで関わって……ただで済むとは思っていないだろうな」
翔の目が、値踏みするように奏多を射抜く。
「麗華が何を言ったかは知らんが、あいつの戯言を真に受けているなら愚かだ。お前のような何の後ろ盾もない大学生が、天宮の娘と『付き合う』などという遊びを、私が許すとでも思っているのか?」
奏多は毅然とした態度ですぐに答える。
「『ただで済むとは思っていないだろうな』……その通りです。だからこそ、逃げずにこうして向き合っています。後悔する覚悟も、切り捨てられる覚悟もしてきました。……それでも、俺から瑠璃さんを諦めるつもりはありません。」
奏多の真っ直ぐな言葉が、広大な会長室の冷たい空気に溶けていくように響いた。
天宮翔の表情は、能面のようにピクリとも動かない。だが、その冷徹な瞳の奥で、わずかに鋭い光が走った。
「……諦めるつもりはない、か」
翔は短く鼻を鳴らし、ようやく奏多の正面にある来客用の革張りソファに腰を下ろした。深く背もたれにもたれかかり、ゆったりと足を組む。その所作の一つ一つが、絶対的な権力者の余裕を体現していた。
「若さゆえの蛮勇だな。お前は天宮という名前の重さを何も分かっていない」
翔の声は静かだったが、耳元で刃を突きつけられているような冷たさを孕んでいる。
「瑠璃には、いずれグループの利益となる家との縁談が用意されている。政財界の有力な一族、歴史ある名家……選択肢は無数にある。その中で、お前という存在には何の価値もない。ただのノイズだ」
翔は言葉を切り、値踏みするように奏多の目から決して視線を逸らさなかった。
「愛情だの覚悟だの、口で言うのは簡単だ。だが、現実の世界では何の担保にもならない。お前に、瑠璃を一生背負うだけの『力』があるのか? 莫大な資産を狙う有象無象から彼女を守り、天宮の看板を背負う重圧に耐えうるだけの器が、お前にあるとでも言うのか」
圧倒的な事実の羅列。それは感情的な怒号ではなく、天宮グループのトップとして見据える、変えられない現実そのものだった。
「答えろ。お前のその『覚悟』とやらは、天宮の力を持たずして、どうやって瑠璃を守り抜くつもりなのか。……精神論は聞きたくない」
翔の鋭い追求が奏多に突き刺さった。




