第三十話 ハートアイランド編最終
BBQの片付けが終わり、波の音だけが聞こえるようになったヴィラ。限界まで遊び尽くした瑠璃と奏多は、ベッドに入るなり泥のように眠りに落ちた。昨晩のように夜更かしをする余力すら残っていなかったのだ。
そして、最終日の朝。
目覚めると、窓の外には昨日と変わらないエメラルドグリーンの海が広がっていた。だが、あちこちに広げられていた荷物が綺麗にまとめられた部屋には、出発を告げるどこか寂しげな空気が漂っている。
「ふぁぁ……っ」
瑠璃が小さなあくびを噛み殺しながら、とろんとした目で起き上がる。いつもなら「奏多様ぁ〜!」とダイブしてくるところだが、寝起きのせいか、それとも帰るのが名残惜しいのか、珍しくしおらしい様子でベッドの端に座り込んでいた。
「奏多様……もう東京に戻る時間ですのね。なんだか、この島にいた時間が夢みたいで……あっという間でしたわ」
そう言ってシーツの端をギュッと握りしめる瑠璃に、奏多は優しく苦笑いを浮かべながら近づく。
「だな。最初はまさかトローリングで大物を釣ったり、あんなデカい高級魚を食いまくったりするとは思わなかったけどさ……。本当に、夢みたいな二日間だったよ」
奏多が瑠璃の頭をポンポンと撫でると、瑠璃は少しだけ嬉しそうに目を細め、やがて名残惜しそうに彼の服の裾をそっと掴んだ。
「……帰りたくありませんわね。ずっとこうして、二人でのんびりしていたいですわ……」
着替えを済ませ、トランクのジッパーを重い足取りで閉めたところで、部屋のドアが規則正しいリズムでノックされた。音もなく開けて入ってきたのは、いつものように完璧なスーツ姿の綾部だった。
「おはようございます。出発のスケジュールにはまだ余裕がありますが、お二人の名残惜しさに付き合って遅れるわけにもいきません。準備はよろしいですか?」
相変わらず隙のない物言いだが、綾部の瞳は、どこかこの別れを惜しむような穏やかさを携えていた。
「プライベートジェットの離陸許可はすでに下りています。車もエントランスに回してありますよ。忘れ物がないか、もう一度よく確認してください。特に瑠璃様、またお気に入りのアクセサリーをどこかに置き忘れて泣きつかれても、帰りの便を引き返したりはしませんからね」
「もー、綾部は最後まで一言多いんですの! そんなにうっかり屋さんみたいに言わないでくださいまし! ……ちゃんと、昨日いただいたお土産も全部持ってますわ!」
ぷうっと両頬を膨らせて抗議する瑠璃。だが、その声のトーンはどこか上ずっており、寂しさが隠しきれていない。
そんな主人の様子を横目で見つつ、綾部は手元のタブレットから目を離し、静かに奏多へと視線を向けた。
「奏多様も、よろしいですね。……東京に戻れば、またあの慌ただしい日常や、学生としての現実が待っていますよ。束の間の現実逃避はここまでです。今のうちに、この南国の眩しい空気をしっかりと胸に吸い溜めしておいた方がいいんじゃないですか?」
皮肉めいた、けれどどこか温かみのある言い回し。それは、二人の間に流れる名残惜しい空気にそっと寄り添うような、綾部なりの不器用な優しさだった。
奏多はクスリと笑い、トランクの取っ手をしっかりと握りしめる。
「はい、十分すぎるくらい充電できましたよ。……それに、ただ日常に戻るだけじゃないですし」
その奏多の揺るぎない眼差しを見て、綾部は小さく満足げに口角を上げた。
「……頼もしいことで。それでは、行きましょうか。皆様、お迎えの準備ができております」
綾部に促され、二人は名残を惜しみつつも、しっかりと手を繋ぎながらヴィラの扉をあとにするのだった。
ヴィラのテラスをあとにし、私物とトランクを持ってエントランスへと向かう。
南国の潮風を含んだ空気から、冷房の効いたホテルのロビー、そして眩しい日差しが照りつける敷地内を、カートが静かに滑っていく。
「……本当に、もう帰ってしまうのですね」
瑠璃は名残惜しそうに、窓の外に広がる青い海を何度も振り返っていた。その小さな手を、奏多がしっかりと握り返して歩調を合わせる。
少し前を歩く綾部は、タブレットを片手に淡々と先導しながらも、時折後ろの二人の様子を無言で見守っていた。
やがて、エントランスを抜けてその先に待つ専用リムジンへと乗り込み、一行は海沿いのプライベート飛行場へと向かう。
見渡す限りの青空の下、滑走路の端には白亜のプライベートジェットが優雅に翼を休めていた。その巨体に圧倒されつつも、タラップを駆け上がり、重厚なハッチをくぐって機内へと足を踏み入れる。
行きと同じく贅沢な空間だったが、流れる空気は全く違っていた。
瑠璃は窓際に座り、遠ざかる島を名残惜しそうに見つめている。その隣に座る奏多は、どこか真っ直ぐな視線で前を見据えていた。
少し離れた席では、綾部がノートパソコンを開いて何やら作業をしている。キーボードを叩く規則的な音だけが、静かな機内に響いていた。
やがて、ジェット機は滑走路を滑らかに走り出し、轟音とともに大空へと飛び立った。
そしてあっという間に離陸して東京へ向かうジェット機の中で、奏多はある決意を固めていた。
沈黙を破ったのは、奏多だった。
「なぁ、二人とも。ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」
その声のトーンに、瑠璃が弾かれたように振り返る。パソコンに向かっていた綾部の手もピタリと止まった。
「え……どうしたんですの?」
「……嫌な予感しかしませんが。何ですか?」
二人の視線が奏多に集中する。奏多は、瑠璃の瞳を真っ直ぐに見返し、それから綾部の方へも視線を向けた。そして、はっきりと口を開いた。
機内の空気が張り詰める。エンジンの低い唸りだけが足元から響く中、奏多は一度大きく息を吸い込んだ。
「――東京に着いたら、行かなきゃいけない場所がある」
そして、その言葉が放たれた。
「天宮会長のところに、挨拶に行く」
奏多の口から出たのは、短く、しかし明確な宣言だった。
「……え?」
瑠璃の目が丸くなる。言葉の意味を咀嚼するのに数秒かかった。
「……は?」
綾部のパソコンが膝から滑り落ちそうになった。かろうじて片手でキャッチするが、瞳は大きく見開かれている。あの鉄壁の無表情が崩れかけるほどの衝撃だった。
「い、今なんとおっしゃいましたの……? お父様に……直接、ご挨拶……?」
瑠璃の声が裏返った。無理もない。相手は天宮翔。
あの晩餐会の夜、電話の向こうから響いてきた、有無を言わせぬ冷徹な声と圧倒的な威圧感。
あの時は、身分違いの恋愛を説教しようとした父親に対し、瑠璃が一方的に奏多の惚気話を浴びせ倒すという力技で煙に巻いたものの……直接顔を合わせるとなれば話は全く別だ。
「……正気ですか?」
綾部の声から、いつもの気だるさが消えていた。代わりに滲むのは、純粋な困惑と、彼女なりの現実的な忠告。
「あの人に直接会うということがどういう意味か、わかって言ってます? 確かに会長は、瑠璃様の今までにない様子に呆れ半分、興味半分で今はあえて静観しているようですが……だからといって、今の奏多様の立場でノコノコと会いに行って、すんなりと交際を認めてもらえるほど甘い相手じゃありませんよ」
だが奏多の目は揺るがない。バカンスの甘い余韻の中にあって、眼差しだけは鋭く研ぎ澄まされていた。
瑠璃を守るために。
瑠璃のお母さんには交際を公認してもらった。次は、自分たちを静観しているあの父親に正面から向き合い、逃げずに筋を通す――今までに誓った言葉に嘘はないと証明するために。
「分かってますよ。俺なんかが行ったところで、簡単に認めてもらえるなんてこれっぽっちも思ってない。……でも、逃げてたって何も始まらない。瑠璃の隣で胸を張って立つためには、いつかは絶対に越えなきゃいけない壁ですから」
その覚悟に満ちた横顔を見て、瑠璃の胸が熱くなる。
数時間後、プライベートジェットは空港の専用ターミナルに静かに滑り込んだ。南国の太陽と潮風に包まれていた数日間から一転、東京の空はどんよりとした薄雲に覆われ、ビル群のシルエットが無機質にそびえ立っていた。
雲を抜けるまでの間、機内はどこか静まり返っていたが、奏多は揺れるシートの上でじっと窓の外を見つめながら、頭の中で何度も言葉を組み立て直していた。どんなに冷酷な言葉をぶつけられようとも、逃げ出さない。その覚悟を研ぎ澄ますには、十分すぎる時間だった。
タラップを降りると、そこには綾部の手配した数台の黒塗りの車が待機している。黒スーツの男たちが一斉に頭を下げた。夢のような非日常から、天宮グループという現実の重力が一気に押し寄せてくる。
「奏多様……」
車の前で、瑠璃が不安げに奏多の袖をきゅっと掴んだ。機内で聞いた「直接挨拶に行く」という決意は、まだ彼女の中で処理しきれていない。父の厳しさを誰よりも知っているからこそ、その手がかすかに震えていた。
「本当に……よろしいんですの? お父様、とても厳しい人ですわ。奏多様、わたくし少し怖いです……」
「瑠璃様の言う通りです」
綾部はスッと前に進み出ると、車のドアを開けたまま、冷ややかな視線を奏多に向けた。
「アポなしで会える相手ではありません。それに、今のあなたは天宮家にとって『歓迎されざる客』。下手をすれば門前払いどころか、二度と瑠璃様に近づけないよう徹底的に潰されますよ。……それでも行くというなら、止めはしませんが」
警告というよりは、最後の確認のような口調だった。だが、奏多はその震える瑠璃の小さな手を包み込むようにしっかりと握り返し、まっすぐに綾部を見据えた。
「怖くないなんて言ったら嘘になりますけど……。でも、ここでビビッて逃げ出したら、俺はいつまで経っても瑠璃の隣に並べない。それに……俺を信じてくれてる瑠璃のためにも、俺自身の言葉でちゃんと筋を通させてください」
その力強い瞳と揺るぎない覚悟を見て、瑠璃は胸が熱くなり、思わず潤んだ瞳で彼の胸元にぎゅっとしがみついた。
「もう……! どこまでカッコいいこと言うんですの、奏多様は……っ!」
「おっと、ベタベタするのは他所でお願いします。ここは空港ですので、邪魔になります」
淡々と割り込んだ綾部だが、そのサングラスの奥の目はどこか満足げに細められていた。奏多は意を決したように、頭を深々と下げる。
「あの、綾部さん! ……その、天宮会長へのアポなんですけど……俺一人じゃ連絡先も分からないし、取り合いもしてもらえないと思うんで……その、アポを取るのを手伝ってもらえませんか……!」
さっきまでの壮大な宣言はどこへやら、一気に現実に引き戻されてタジタジになる奏多の姿に、綾部はあきれたようにやれやれと肩をすくめた。
「はぁ……。あんなに盛大に男気を発揮しておいて、結局は私頼みですか。本当に調子のいい人ですね」
「い、いや、そこは有能な執事の腕の見せ所というか……!」
「……まったく。これだから素人は困ります」
ぶつぶつと言いつつも、綾部は手元のタブレットを取り出し、軽快なフリック操作で画面を叩き始める。
「安心しなさい。奏多様に言われなくても、こういう事態に備えて会長秘書とはいつでも連絡が取れるように手はずは整えてあります。……もっとも、あの方は文字通り目が回るほどの多忙を極めていますからね。スケジュールが取れるかどうかは向こうの都合次第ですし、いつになるかはまったく分かりませんよ」
「そ、そうだよな……天下の天宮グループの会長だし……」
冷や汗を拭う奏多を横目に、綾部は冷ややかに、しかし手際よくタブレットを操作しながら告げた。
「まぁ、明日には先方から返事は頂けるでしょうから、決まり次第またこちらから連絡します。……どうせ、奏多様が一人で突撃しても警備員につまみ出されるのがオチですし、私の顔に泥を塗られても困りますからね」
「さ、流石は綾部さん……! 足向けて寝られません!」
「……ほら、感心している暇があったら荷物を持ちなさい」
ピシャリと言い放つと、綾部はタブレットをスライドさせてポケットにしまい込んだ。そのやり取りの最中、取り残された瑠璃は急に不安が募ってきたのか、慌てて声を上擦らせた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし! まだ心の準備も何もできておりませんわ!」
「お一人で勝手にパニックを起こさないでくださいまし、と言いたいところですが……。ほら、いつまでも空港の駐車場を占拠しているわけにはいきませんよ」
綾部がパンと軽く手を叩いて周囲を促す。黒スーツの男たちがテキパキと動き始めた。
「今日は各自解散とします。奏多様、あまり思い詰めて胃に穴をあけないように。……連絡が入るまで、心して待つことですね」
呆れ顔を装いながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべる綾部。
ガチャリと高級車の重いドアが開き、夢のような南国のバカンスから現実世界へと引き戻される別れの時間がやってきた。
奏多は不安そうな瑠璃の手をもう一度ギュッと強く握りしめ、「大丈夫だ」と力強く微笑んでみせるのだった。
その後、奏多も綾部の配る車の一台に乗り込み、無事に自宅へと送り届けられた。
ガチャリと自宅のドアを開けると、そこには南国の潮風の匂いではなく、いつもの使い慣れた部屋の空気が広がっていた。
床には、楽しかった旅行の余韻を残したままのトランクがぽつんと置かれている。
「……ふぅ。本当に、帰って来たんだな……」
服を脱いでベッドの上に放り出すと、どっと全身に疲労が押し寄せてきた。
頭の中では、羽田の空港で交わした綾部とのやり取りや、天宮会長と直接対峙するという大きな壁のことがグルグルと回り続けている。
だが、いつまでもボーッとしているわけにはいかない。旅行バッグから砂のついたサンダルを取り出して洗い、洗濯機を回し、お土産の整理をする。
慌ただしく部屋の片付けを進めているうちに、時計の針はとうに夜の九時を回っていた。
ひと通りの家事を終えてソファに深く腰掛けたとき、スマートフォンが静かに震えた。画面を見ると、発信者は――瑠璃だった。
奏多が慌てて通話ボタンを押すと、少しだけ息を潜めたような、それでいて待ちわびていたような瑠璃の甘い声が耳に飛び込んでくる。
「……奏多様? まだ起きていましたの?」
「うん、ちょうど片付けが終わって一息ついてたところだよ。瑠璃こそ、もう大丈夫なのか?」
「もう、心配性なんですのね。ベッドルームでパジャマに着替えて、すっかり落ち着いていますわよ……ただ……」
電話の向こうで、瑠璃が小さくため息をつく気配がした。
「やっぱり、あのヴィラと違って、自室のベッドはなんだか少し広すぎて……寂しいですわね。隣に奏多様がいませんし……」
その少し甘えるような、切なげな声を聞いただけで、今日一日の緊張や疲れが嘘のように溶けていく気がした。奏多は思わず苦笑いを浮かべ、スマホを耳に強く押し当てる。
「俺もだよ。東京に戻ってきていきなり現実につきつけられたけど……こうして瑠璃の声を聞いたら、やっと帰ってきたんだなって実感が湧いた」
「ふふっ……本当に、急に大きなことを言い出すんですもの。お父様へのご挨拶のこと、今でも心臓がバクバクしてますわ……」
「だな。綾部さんに頼み込んだときは我ながら冷や汗もんだったけど……でも、決めたからさ。怖くないと言ったら嘘になるけど、瑠璃と一緒にいるためにも避けて通れないだろ」
「……奏多様」
電話の向こうの瑠璃が、愛おしそうに息をのむ音が聞こえた。
「ありがとうございます……。わたくし、本当に奏多様を好きになって良かったですわ。……あ、お父様のスケジュール、明日には連絡が来るって綾部が言ってましたから、心構えだけはしておいてくださいましね!」
「ああ、心して待つよ。……そっちも、今日は色々あって疲れただろ? 早めに休むんだぞ」
「そうですね……。奏多様ゆっくり休まれてくださいまし。おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ、瑠璃」
通話が切れ、静かになった部屋で、スマートフォンを握りしめたまま奏多は深く息をついた。
窓の外を見上げると、東京の夜空には星は見えない。だが、胸の奥にはあの南国の海のような、どこまでも澄んだ強い決意がしっかりと灯っていた。
明日はどんな連絡が来るか分からない――。
だが、覚悟を決めた足取りに迷いはなかった。
奏多は大きく伸びをすると、明日への活力を養うために、ゆっくりとベッドへと潜り込んだ。




