第二十九話 ハートアイランド編
そして翌日、絶景の見える岬や、エメラルドグリーンの海が一望できる丘を巡る。
三日目。この島に来て二度目の朝。もはや朝食の豪華なメニューに驚くこともなくなった奏多は、今日もフルーツの山を黙々と片付けていた。
「今日は島の南東にある岬と、北西の丘を回るルートを組んであります。移動は車です」
黒塗りの車でまず向かったのは、切り立った崖の先端にある岬。眼下には断崖絶壁とその向こうに広がる大海原。白い波頭が岩肌に砕ける様がダイナミックで、風は強いが景色は絶景だった。
「きゃー! 素敵ですわ! 映画みたい!」
強風で瑠璃の金髪がばさばさと舞い上がる。スカートがめくれそうになるのを片手で押さえながら、もう片方の手にはしっかりスマホが握られていた。
「奏多様、こちらを向いてくださいまし!」
岬の先端に立つ奏多を激写。角度を変えてもう一枚。さらに風に煽られて髪を押さえる奏多の横顔を盗撮。完全にカメラマンと化した瑠璃は息つく暇もない。
「次は一緒に撮りますわよ! はい、もっとくっついて!」
二人の自撮り。顔を寄せ合ってインカメラに収まる。瑠璃が加工フィルターを次々と適用していく。「ハッピー」「ラブラブ」「ふたりだけの世界」……。
もはや原型がわからない。
「なぁ、ちょっと加工しすぎじゃねぇか……?」
「何をおっしゃいますの、これくらいが今のトレンドですわよ!」
呆れつつも、嬉しそうにはしゃぐ瑠璃の横顔に、奏多は自然と笑みをこぼす。
「あっ! 見てくださいまし、綺麗なハートの雲!」
瑠璃が指差した空の端に、確かにそれっぽい形の雲が浮かんでいた。インスタ映えの神が微笑んでいるとしか思えないタイミングだ。
「お、本当だな。すげぇ形……」
「これは運命ですわ! 撮らなきゃ!」
夢中でシャッターを切る瑠璃。だが、ファインダーばかり見ていて足元の注意がおろそかになっていた。
「きゃっ!」
岩場の段差に足を取られてバランスを崩す瑠璃。後ろは断崖。落ちたら洒落にならない高さだった。
「っとに……危ないな。」
すっと見越したように優しく奏多が瑠璃を引き寄せる。
ぐらりと傾いた瑠璃の体が、すっと伸びた腕に引き寄せられた。背中が奏多の胸にぶつかり、そのまま後ろから抱きとめられる形になる。まるで落ちることを最初から知っていたかのような、自然で素早い動きだった。
「……ふぇ?」
一拍遅れて状況を理解した瑠璃。自分が崖から落ちかけたこと、そして今奏多に後ろからがっちりホールドされていること。二重の衝撃。
「あ、あぶな……わ、わたくし今落ちかけて……。ひゃ、足がすくみますわ……っ」
ぞわっと血の気が引いたのも束の間、背中から伝わる奏多の心音と体温がそれを上書きしていく。顔の赤さが恐怖から別のものに塗り替わるまで三秒もかからなかった。
「しっかりしろよ、落ちたら洒落になんなかったぞ。」
心配そうに顔を覗き込んできた奏多の瞳に映る自分を見て、瑠璃はさらに顔を真っ赤にする。
「……か、奏多様」
振り返らず、そのまま奏多の腕の中に収まったまま、ぽそりと呟いた。
「……もうちょっとだけ、このままでもよろしいですか?」
「……いや、ここ危ないだろ。 」
崖っぷちで抱き合う二人。足場は決して安全ではないのだが、そんなことを気にする余裕は瑠璃にはないらしい。
少し離れた場所で車のボンネットに腰掛けていた綾部が、双眼鏡越しにその様子を見て深いため息をついた。
「……落ちかけてるのにイチャつき始めた。本当にあのバカは……」
綾部は冷や汗を拭いながら、やれやれと首を横に振るのだった。
崖っぷちでの甘い時間は、綾部の「いつまでやってるんですか、早く戻ってください」という無機質な拡声器の声で強制的に幕を閉じた。
ヴィラに戻ると、今度はテラスに豪華なシーフードが用意されていた。今朝水揚げされたばかりだという伊勢海老やアワビが振る舞われる。
「んー、おいしいですわ! やっぱり獲れたては違いますのね!」
「本当だな、身がプリプリしててめちゃくちゃ美味しい」
午後は、ヴィラのプライベートビーチから小型のクルーザーをチャーターして沖へ出た。目的は本格的なトローリング。船長らしき日焼けした男が操舵室に立ち、デッキには綾部が用意した最新鋭の釣り具がずらりと並んでいた。
「使い方は……そうですね、適当に糸を垂らしていればそのうち釣れる気もしませんが、まあ勝手にやってください」
相変わらずクールにあしらう綾部の声を背に、奏多は「言ってくれるな……」と苦笑いしながら、見よう見まねでルアーを海へと投じた。
最初はリールの使い方にも戸惑い、ルアーがすぐ近くにポチャンと落ちるばかり。それを見て瑠璃がくすくす笑っている。
「奏多様、がんばってー! わたくし、応援してますわ!」
何度か繰り返すうち、ようやくコツを掴んで遠くまで飛ばせるようになった。あとは魚がかかるのを待つだけ……なのだが、そう簡単に釣れるものでもない。退屈な時間が過ぎていく。瑠璃は船べりで足をぱたぱたさせながら鼻歌を歌い始めた。
その時だった。
ぎぎぎぎぎっ!
静寂を破って、奏多の持っていた竿が大きくしなり、リールがけたたましい音を立てて逆回転を始めた。
「きゃっ! きましたわ! きましたわよ、奏多様!」
突然の強い引きに、奏多は「うおっ、なんだこれ……!」と思わず竿を落としそうになる。慌てて両手で握り直し、全体重をかけて踏ん張る。想像以上の力だった。
「す、すげぇ引きだな……! ぐぐ……!」
「すごいですわ! 大物ですわよ! 負けないでください、奏多様!」
隣で瑠璃がぴょんぴょん飛び跳ねて大興奮。数分間の格闘の末、海面に姿を現したのは、銀色に輝く大きな魚体だった。船長がタモですくい上げると、デッキの上でビチビチと跳ねる。60センチはあろうかという立派なシイラだ。
「やりましたわ! すごいですわ、奏多様! 初めてなのに、こんな大きなお魚を!」
奏多の腕に抱きついて、自分のことのように喜ぶ瑠璃。その傍らで、サングラスの奥から冷めた視線を送っていた綾部が、ふっと鼻を鳴らした。
「……まぐれですね。初心者ほど大きな魚を釣るというのはよくある結果です。調子に乗らないことです。」
綾部の毒舌が逆に火をつけたのか、あるいは本当に才能があったのか。その後の奏多は、もはやビギナーズラックという言葉では片付けられないほどの釣果を叩き出した。
立て続けにヒットする竿。今度はさっきよりも手応えがある。格闘の末に上がってきたのは、見事な縞模様のカンパチ。さらにその次は、黄金色に輝くヒラマサ。しまいには、幻の高級魚とまで言われるクエまで釣り上げてしまった。
「また釣れましたわ! 今度はクエですって! 船長さんが幻のお魚だって驚いてましたわよ! 奏多様、すごすぎますわ!」
「いや、俺もさすがにビビったんだけど……。これ、本当に俺が釣ったの?」
瑠璃はもう「すごい」と「奏多様」しか言えなくなっていた。船の生け簀は、あっという間に奏多が釣り上げた高級魚でいっぱいになる。
――……。
綾部は何も言わない。ただ、いつも余裕を崩さないその涼しげな顔に、わずかに亀裂が入っていた。
「……っ。まぐれにしても、度が過ぎますね……。あのポイントの選定も、潮の読みも、素人のそれではない……本当に初心者ですか?」
綾部は小さく呟きながら、サングラスを押し上げて信じられないものを見るような目を隠すのだった。
夕暮れ時。大漁旗でも掲げたい気分のまま、クルーザーはヴィラのプライベートビーチへと凱旋した。
そして夜。ヴィラのテラスは、BBQの準備で活気づいていた。主役はもちろん、昼間に奏多が釣り上げたばかりの魚たちだ。
腕利きのシェフがその場で魚を捌き、一部は新鮮な刺身に、一部は豪快な塩焼きやアクアパッツァに調理されていく。香ばしい匂いが潮風に乗ってテラスに満ちていた。
「奏多様が釣ってくださったお魚……! 格別ですわ! あーん、してくださいまし!」
瑠璃が、綺麗に骨を取り除いたクエの塩焼きの身を箸でつまみ、奏多の口元へ運んでくる。キラキラと期待に満ちた瞳で、その答えを待っていた。
(あーん、か……って、周囲の視線が地味に痛い……)
少し照れくさそうに頬をかきつつも、奏多は素直に口を開けてそれをパクリと食べた。
奏多がパクリと口に運んだ瞬間、上品な脂と圧倒的な旨味が口いっぱいに広がる。
「……っ! なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ……!」
身は驚くほどプリプリと弾力がありながらも、噛むほどに濃厚な甘みがとろけだしていく。自分で釣り上げたという補正を抜いても、人生で食べた魚の中で間違いなく一番の美味さだった。
「えへへ……おいしいですか?」
満足そうに微笑む瑠璃。今度は自分も、と箸を伸ばす。その横で、奏多は空いているトングを手に取った。網の上では、魚だけでなく、霜降りの見事な和牛や、色とりどりの新鮮な野菜も焼かれている。
奏多が手際よく肉を裏返していくと、それを見ていた瑠璃も慌てて隣のトングを掴んだ。
「わ、わたくしもやりますわ! えーっと、このパプリカはもういいかしら? あちちっ!」
慣れない手つきで野菜をひっくり返そうとして、熱い蒸気にあわてふためく。そんな二人の様子を、少し離れたテーブルで見ていた綾部と、他の使用人たちが微笑ましそうに眺めていた。
船長やシェフ、数名の警備スタッフも、今夜は無礼講ということでささやかな宴に参加している。
そんな賑やかな様子を眺めながら、綾部はタブレット端末に目を落とす。
(――あの調子では、瑠璃様は一生ここに居座りかねませんね。それに、奏多様はもてなされている側。だからこそ「帰りたい」なんて口が裂けても言えないでしょうし……)
静かにため息をついた綾部は、すっと席を立ち、二人のテーブルへと歩み寄ると、涼しげな顔のまま現実的なスケジュールを切り出した。
「……いちゃつくのは勝手ですが、現実的なお話もしておきましょうか。奏多様、明日の午後には東京に戻るスケジュールで手配してありますよ」
綾部のその冷静すぎる言葉に、瑠璃は「ええ……もうそんな時間ですの?」と不満そうにほっぺたを膨らべる。
「むぅ、あと一週間くらい滞在したいですわ……。ねえ、奏多様? まだ帰りたくありませんわよね?」
潤んだ瞳で上目遣いにおねだりしてくる瑠璃に、奏多は「おいおい……」と困ったように苦笑を浮かべる。本音を言えば名残惜しいが、招かれている身で「帰りたい」とはなかなか言い出しづらかったのも事実だった。
そんな二人の空気を察したように、綾部は小さく肩をすくめてみせる。
「キリがありませんし、これ以上滞在するとお互いの日常や予定がすべて崩壊しますので。……そういうわけで、本日はその大漁の高級魚たちを肴に、皆さまで盛大に『打ち上げ宴会』としましょうか。明日の帰路に備えて、今夜は思いっきり楽しんでください」
綾部の絶妙なフォローと配慮に、奏多は心の中でこっそり胸を撫で下ろすのだった。
「瑠璃様、お肉が焦げてますよ。まったく、焼くのもまともにできないんですか」
「な、なんですってぇ! 綾部は見てるだけじゃなくて手伝いなさいよ!」
「私は結構です。それより、奏多様が焼いてくださったあちらの肉をいただきますので」
綾部はすっと手を伸ばすと、奏多が完璧なミディアムレアに焼き上げたステーキが乗った皿を、さっと自分の前に持っていった。
「あっ、こら! それはわたくしと奏多様の分ですわよ!」
「早い者勝ちです」
軽口を叩き合いながらも、その場の空気は和やかだった。釣った魚の自慢話で船長が盛り上がり、シェフが料理のコツを語り、瑠璃が奏多の「釣り神様」っぷりを熱弁する。
明日にはこの夢のような島を離れる。その名残を惜しむかのように、最後の夜は賑やかに更けていった。
やがて宴会も終わり、周囲のスタッフや綾部が引き上げると、テラスには波の音と揺れるランタンの明かりだけが残される。
夜空の星をぼんやりと見上げながら、瑠璃は満足感に浸りつつ、そっと奏多の肩に寄りかかった。
「……本当に、夢みたいな二日間でしたわね。美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て……ずっとこうして過せたらいいのにって、少しだけ思ってしまいますわ」
そう言って寂しそうに微笑む瑠璃の横顔を見て、奏多は胸の内でそっと決意を噛みしめる。
(……いつか――いつか絶対に、俺自身の力でこういう場所にこいつを連れてきてあげないとな)
今はまだ、出来なくても、いつか自分の足で立ち、胸を張って彼女をリードできるようになりたい。そんな熱い決意を胸に秘めつつ、奏多は優しく微笑んで瑠璃の肩をぎゅっと抱き寄せた。
「だな。……でも、明日からはまた日常に戻るけどさ。……これからもずっと、こうして隣で笑っててほしいって思ってるよ」
「っ……! もう、急にそんなカッコいいこと言わないでくださいまし……!」
真っ赤になって顔を隠す瑠璃を愛おしそうに見つめながら、二人は最後の夜の甘い余韻の中へと溶けていくのだった。
(――まったく。これだからお嬢様の世話は気が休まりません)
目の前で広がる、紺碧の海とプライベートビーチ。
豪華なヴィラに、チャーターされた最新鋭のクルーザー。億単位の金が動くこの特権階級のバカンスで、我が主人である天宮瑠璃様は、文字通り世界を我が物のように謳歌していらっしゃる。
……だが、その横にいるもう一人の人物。
あの少年の心中がどうなっているかくらい、優秀な執事である私に隠し通せるはずもない。
大富豪の圧倒的な財力を見せつけられるバカンスの中で、奏多が時折見せる複雑な表情や、自分の力ではないもどかしさに綾部は気づいている。
見よう見まねで投げた釣り竿で、まさか幻のクエまで釣り上げてしまうような強運の持ち主でありながらも、彼は決してそれに溺れたりはしない。
(……まあ、普通の大学生がこれだけの特権階級の遊びに付き合わされれば、肩身が狭くなるのも無理はありません。世間知らずなお嬢様の気まぐれに付き合わされていると、被害者意識を抱いてもおかしくない場面だっていくつもありましたからね)
だが、この少年に限ってそれはあり得ない。
彼は出会った頃から一貫して、天宮財閥の令嬢という「看板」ではなく、目の前にいる瑠璃という一人の女性を、打算なく真正面からひとりの人間として扱ってきた。
そして同時に、何事にもまっすぐで、一生懸命に自分を想ってくれる彼女の姿に、彼自身もまた深く心を動かされているのだ。
だからこそ今度は、彼がこの圧倒的な非日常の空間の中で、「自分の力ではない居心地の悪さ」と密かに戦っている。
(……ですが、あの少年の目は腐っていない。あんな風に、瑠璃様の一挙一動を真っ直ぐに受け止め、守ろうとする気概を持っている。……財力でも権力でもなく、ただ一人の人間として彼女に向き合っている。瑠璃様が本気で惚れ込むだけの理由くらい、私にも分かります)
彼女が彼に惹かれたように、彼もまた彼女をかけがえのない存在として大切にしている。
だからこそ今、彼はこの非日常の空間で「自分の力ではない居心地の悪さ」と戦っているのだ。
そして、あのポンコツなお嬢様はといえば。
「帰りたくない! ずっとここにいたいのですわ!」と、この楽園に永住しかねない勢いではしゃぎ回っている。あの調子では、いつまで経っても自分から「東京へ戻ろう」と言い出すことはないだろう。
かといって、招かれているだけの立場の奏多から「そろそろ帰りたい」と切り出すのも、プライドが許さないはずだ。
(……やれやれ、私がいなければこのお嬢様は永遠にこの島で野生化することでしょう。それに、あの少年は優しいからこそ「帰ろう」と言い出せない。……悪者役くらい、この優秀なマネージャーが買って出るとしましょう)
だからこそ、私はあえて冷徹なスケジュールを切り出した。
「明日の午後には東京に戻ります」と。
二人の甘い時間を強制的に終わらせる憎まれ役を演じることになっても彼の肩の荷を下ろし、日常へと連れ戻す。それが、私の仕事だ。
夜のテラス。
魚の塩焼きと極上の肉を囲み、スタッフも交えて賑やかに笑い合う声が響く。
少し離れた席からグラスを傾けながら、綾部はその光景を眺めていた。
(……まったく、青春ですねぇ。……まあ、お似合いの二人です)
ふと、星空の下で肩を寄せ合い、何かを誓い合うように静かに笑い合う二人の背中が見えた。
口ではどれだけ小言を叩こうとも、あの少年の瞳に宿ったあの熱量を知ってしまった今なら、確信できることがある。
――いつか本当に、……いいえ、奏多様なら。
いつの日か、自分の力であのバ……瑠璃様をこういう眩しい場所に連れてくる男になるかもしれない。
(……それまでは、この私がしっかりとサポートしてあげるとしましょうか)
サングラスの奥で小さく息をつき、綾部は手元のワイングラスを傾ける。
明日には、現実の東京へ戻る。
けれど、彼らが紡いだこの島の記憶は、きっとこれからの二人を強く結びつけていく――そんな予感を抱きながら、綾部は静かに最後の夜の終わりを見守ったのだった。




