第二十七話 ハートアイランド編
浴場を出て合流すると、綾部の提案で明日に備えてこれから寝室に移動して各自休むことになった。
案内された寝室は、ヴィラの最上階にふさわしい贅沢な空間だった。だが、そこに用意されていたのは――キングサイズのベッドが二つ、綺麗に並んでいる……わけではなかった。
あるのはただ一つ。しかもやたらと広い。大人が四、五人はゆったりと寝転がれるほどの特大サイズのベッドが、部屋の中央に堂々と鎮座している。
「えへへ、同じお部屋ですわね♡」
当たり前のように同室を手配したのは、言うまでもなく瑠璃である。
一歩遅れて部屋に入ってきた綾部が何か言いかけたが、「恋人同士なんだから当然ですわ!」という瑠璃の強い一言によって瞬時に封殺された。
風呂上がりの瑠璃は、ふわりと軽やかな薄いシルクのワンピース姿をしていた。しっとりと濡れた金髪からは、上品で甘いシャンプーの香りがふわりと漂い、室内の空気をやわらかく染めている。
瑠璃は大きなベッドの上にぺたんと可愛らしく座り込むと、明日の予定が書かれたパンフレットを嬉しそうに広げた。
「明日はですね、島の北側に隠されたような美しい無人ビーチがありますの!二人っきりで思いっきり泳げますわ!その次は満天の星空ツアーで、夜は——」
胸を高鳴らせながら、瑠璃がパンフレットの最後のページをめくった瞬間。――その手がピタリと止まった。
「初夜におすすめ♡ ロマンティックキャンドルナイト……」
おそらく、宿泊プランを仕込んだメイドが気を利かせて挟み込んだのだろう。ハートマークだらけの甘い特集ページに、なぜか刺激的でセクシーなランジェリーの広告まで堂々と載っている。
「は、はつ……っ!」
青ざめた瑠璃の手から、パンフレットがばさりと無様に床へと落ちた。
「かかかか奏多様っ! これ、これは違いますの! わたくし、そんな深い意味があってこの部屋を……その、違いますわーっ!」
顔をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げ、瑠璃は両手を必死にぶんぶん振って全力で否定する。しかし、その最高潮に慌てふためいている姿こそが、何よりも無言の説得力を放っていた。
――まさにそのタイミングだった。ゴン、と軽い音を立てて、寝室のドアがノックすらなしにスライドして開いた。
「失礼します。お着替えの補充を——」
すっと入ってきた綾部の足が、ドアの前でピタリと止まった。
目の前に広がっているのは、風呂上がりの男女が大きなベッドに並んで座っているという刺激的な光景。そして、足元に無残に散らばった「初夜特集」のページ。
…………。
部屋の空気が凍りつくような、三秒間の完全なる沈黙。
「……ごゆっくり」
表情を一切変えぬまま、綾部はすっと静かにドアを閉めようとした。だが、その冷徹なはずの瞳の奥だけが、面白すぎる特ダネを見つけてしまったと言わばかりにギラリと怪しく光っている。
「ま、、、まだ、俺らには早いよなっ!」
奏多は冷や汗を拭いながら、必死に声を裏返して誤魔化す。
「そ、そうですわ! 早いですわ! まだ心の準備というものがですね……!」
瑠璃もそれに便乗して、上ずった声でまくし立てる。
そんな二人の必死すぎる弁解の声を、閉まりかけたドアの隙間から綾部がじっと覗き込んでいた。
「まだ……?」
容赦なく、冷徹で鋭い指摘が飛んでくる。
「『まだ』ということは、いずれする前提なんですね」
「そそそそ、そ、それは! !」
慌てすぎて奏多も瑠璃も言葉を失っていた。
「まあ、どちらでもいいですけど。とりあえず、これを置いていきますので」
綾部はベッドサイドのテーブルに、茶色い紙袋をぽんと置いた。中身が少し覗いている。アロマキャンドル、それから――どう見てもお揃いの、ピンクのハート柄がプリントされたペアパジャマだった。
「瑠璃様の趣味です。私は一切関与していません」
「か、可愛いでしょう? ペアルックですのよ♡」
袋の中にはもう一つ、小さな箱が入っていた。黒い包装に金のリボン。やけに高級感がある。
「……それは瑠璃様からのプレゼントだそうです。私は中身を知りません」
そう言い残して綾部は今度こそドアを閉めた。足音が遠ざかっていく。
部屋に二人きり。波音と虫の声だけの静寂。さっきまでの騒がしさが嘘のように、急に空気が変わった。
ひんやりとした夜の静けさの中、鼓動の音だけがやけに大きく響く。
「……あの、奏多様」
声のトーンが違う。いつもの天真爛漫さではなく、どこか緊張を含んだ掠れるような囁き。
瑠璃が膝の上で指を絡ませながら、落ち着かない様子で、ちらちらと奏多の横顔を窺っていた。
「その……開けてみて、くださいません?」
「俺にプレゼント……?」
少し緊張しながら黒い箱を開けると、中にはどこにでもあるような、普通の紙製のミニアルバムが収まっていた。
高級ブランドの品とは程遠い、手作り感のある素朴で簡素な一品だ。
瑠璃のことだから、もしかしてものすごく高価な宝石やブランド物だったりしないだろうか……と身構えていた奏多は、思わず拍子抜けしつつも、どこかホッとしたように息を吐き出した。
「あの……がっかりしちゃいました……?」
不安そうに上目遣いで、潤んだサファイアの瞳がこちらを覗き込む。
奏多は慌てて首を横に振った。
「馬鹿言うなよ。高価なブランドとか高価なアクセサリーなんかより、よっぽど嬉しい。……なんか、瑠璃らしくて良いな。こういうの、大事にしたくなるしさ」
そう言って照れくさそうに笑うと、瑠璃の頬にパッと華やかな朱が差した。
そして促されるままに奏多がアルバムの最初のページをめくると、そこに貼られていた1枚の写真が目に飛び込んできた。
それは、以前ふたりで訪れた犬カフェでのものだった。まだお互いの距離感がぎこちなくて、隣に座る瑠璃も奏多も互いに視線を逸らし、引きつったようなぎこちない笑顔を浮かべている。
「……覚えてます? あの時、お互いたくさんの犬に顔をべろべろ舐められて大変でしたわよね」
くすくすと上品に笑う瑠璃。
「わたくし、あの写真が一番好きなんですの。だって……奏多様が自然に笑ってたから」
サファイアブルーの瞳が潤んでいた。けれど涙ではない。アルバムを持つ奏多の手の上に、そっと瑠璃の指が重ねられた。
「明日からも、たくさんの思い出をここに詰めていきたいんですの。……二人で」
窓から差し込む優しい月明かりが、アルバムの表紙をそっと照らし出していた。ページはまだ真っ白。これから先、何枚もの最高の笑顔で埋まっていくのだろう。
その健気で温かい言葉に、奏多の胸が熱く満たされる。
「当たり前だろ。これ一冊じゃ足りなくなるくらい、思い出をいっぱい作ろう。」
奏多がしっかりと頷き返すと、瑠璃は嬉しそうにふっと微笑んだ。
「……ね、奏多様。記念すべき最初の一枚、今ここで撮りませんこと?」
そう言って、いつの間にか瑠璃の手にはスマホが握られていた。すでにカメラは起動済み。満面の笑みを浮かべている。
「はい、くっついてくださいまし! もっと近く! ほっぺくっつけるくらいですわよ」
「はい、チーズ!」の掛け声と同時にシャッターが押される。その瞬間、左頬に柔らかく湿った感触が伝わった。
「っっ……!?」
一瞬の出来事に、奏多は思わず自分の頬を押さえてフリーズした。
「えへへ♡ 撮れましたわ!」
スマホの画面には、突然のことに目を見開いて固まる奏多と、その頬にキスをしたまま満面の笑みでピースを決める瑠璃が映っている。見事な不意打ちショットだ。
「ちょっと待て瑠璃! 今、なんか当たったぞ……!?」
「きゃー! 奏多様のびっくり顔、最高ですわ! 待ち受けにしますわね!」
「おい、勝手に待ち受けにするなよ! っていうか、今の絶対狙っただろ!」
焦ってツッコむ奏多だったが、当の瑠璃はふと自分の唇にそっと指先を当て、動きを止めた。そしてその指を見つめたまま、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染まっていく。
「……あ。わたくし、今……キス、しましたの?」
「……? 自分からやっておいて今気づいたのかよ!?」
どうやら完全な無意識だったらしい。普段の大胆不敵なスキンシップ魔が、本当にキスしてしまったことに自分自身で猛烈に動揺し始めている。
「い, いいいい今のはノーカンですわ! 事故ですの! 不慮の事故ですわーーっ!」
「事故ってなんだよ……俺の方が恥ずかしいんだけど……!」
両手で顔を必死に覆い、ベッドの上をごろんごろんと転がり回る瑠璃。シーツがぐしゃぐしゃになっていく。月明かりの下で金髪が乱れ散る様は、まるで絹糸の海に溺れているようだった。
散々転がったあと、瑠璃はふと動きを止め、そっと指の隙間から片目だけを覗かせた。
「で、でも……奏多様、その……嫌でした……?」
声が急にか細く、小さくなる。
「……嫌じゃなかったら、もう一回……次はちゃんとしても、よろしいですか?」
上目遣いで不安そうに窺ってくる瑠璃を見て、奏多は胸の奥がギュッと甘く締め付けられるのを感じた。
(……いつも突拍子もない行動で、自分からまっすぐに気持ちをぶつけてくれるのは瑠璃だ。だけど……今日くらいは、俺から行かなきゃだめだろ)
奏多は深く息を吐き出すと、少し照れくさそうに笑いながら彼女に歩み寄った。
「瑠璃。……少し、こっち来て」
「こっち来て」。その落ち着いた優しい声に、瑠璃はドキリと心臓を跳ねさせながらも、言われるがままにゆっくりと体を預けた。
奏多は震えている瑠璃の小さな肩にそっと手を添え、愛おしそうにその身体を引き寄せる。
「……奏多様……」
「いつも瑠璃にばっかり積極的に来てもらってるし、今日くらいは俺から行かなきゃな」
やさしく囁くような低い声に、瑠璃の息が詰まる。
奏多は優しく瑠璃の頬に手を添えると、そのまま真っ直ぐに見つめ合いながら、おやすみを告げるようにふわりと優しく自分の唇を重ね合わせた。
深い熱を帯びたものではなく、ただ愛おしさを確かめ合うような、柔らかくて短いソフトなキス。
離れていく温もりに、瑠璃はぽかんと目をパチクリさせていた。
唇が離れた瞬間、夜の静けさが戻ってきた。ほんの数秒、触れ合っただけ。それだけなのに、空気の温度がまるで変わってしまったようだった。
瑠璃がゆっくりと目を開ける。
………………。
ぱちり。ぱちぱち。瞬きが三回。四回。五回。
………………。
口元に手を当てる。指先がまだ熱い。脳が状況を処理しようとして完全にフリーズしていた。そして。
——っっっ!!!!
顔面が沸騰した。比喩ではなく本当に湯気が出そうなほど真っ赤だった。トマトとかそういう次元ではない、完熟のマグマである。
「き、きききキス……しましたわよね? 今? しましたわよね!?」
正座のまま後ずさりしてベッドから落ちそうになる。
「あっ、愛おしさを確かめ合うような……って、なんでわたくしこんなに冷静に分析して……違う! 冷静じゃないですわ! 全然冷静じゃありませんわ!」
枕を掴んで顔を埋めた。足をばたばたさせてベッドが揺れる。もはや十七歳の財閥令嬢の姿はどこにもなく、初めてのキスに大パニックの少女がそこにいた。
そんな彼女の姿に、奏多は思わず吹き出しそうになりながらも、愛おしさがこみ上げて優しく微笑んだ。
「そんなにパニックになるなよ。ほら、落ちるぞ」
「うわーん、頭がどうにかなりそうですわーっ!」
枕をギュッと抱きしめたまま、ジタバタと暴れる瑠璃。しかし、バタバタさせる足をぴたりと止めると、彼女は恐る恐る、真っ赤に染まった顔をゆっくりと持ち上げた。
潤んだサファイアの瞳が、恥じらいと切なさを滲ませて奏多を見上げる。
……もっかい。
枕の奥から、蚊の鳴くような声。
もっかいしてほしいですわ……。
枕に顔を埋めたまま、恥ずかしさのあまり消え入りそうな声でそうねだる瑠璃。その可愛すぎる破壊力に、奏多は思わず苦笑いを浮かべた。
「……さすがに調子のんなよ。今日のところはここまでな」
そう言いながら、奏多はぐしゃぐしゃになった瑠璃の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「えーっ……! そこは流れでこう、男気を見せるところではありませんこと……?」
顔を真っ赤にしたまま不満そうに頬を膨らませる瑠璃だったが、その瞳にはどこか満ち足りたような甘い光が宿っている。
「はいはい、明日も朝早いんだし、もう寝るぞ。ほら、パジャマに着替えてこいよ」
綾部が置いていったピンクのハート柄のペアパジャマを指さすと、瑠璃はさらに顔を赤くして
「っ……!」と身を縮こまらせた。
――それから少しして。
お揃いのパジャマに着替えた二人は、広すぎる特大サイズのベッドの端と端……ではなく、いつの間にか自然と距離を縮め、並んで横になっていた。
窓の外からは、穏やかな波の音と、南国の夜風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえてくる。
「……おやすみ、瑠璃」
「……おやすみなさいませ、奏多様」
電気を消した暗い部屋の中、そっと繋がれた指先から伝わる温もりは、明日への期待を胸に膨らませるには十分すぎるほど甘く、優しかった。
――こうして、ドキドキの初日の夜は静かに更けていき、二人はそれぞれの明日に備えて深い眠りへと落ちていくのだった。




