第二十五話 ハートアイランド編
「ま、待ってください! 今夜に既成事実って…………! でも、瑠璃は絶対に他の奴になんて渡しません……っ!」
リビングが静まり返った。シーリングファンの回る音だけが、やけに大きく響いている。
奏多自身、自分が何を口走ったのか一瞬遅れて理解した。カッッと自分の顔に一気に血が上っていくのがわかる。
「……え」
瑠璃が、まるで本物の石像のように固まっていた。口が半開きのまま、瞬きすら忘れている。「他の奴になんて渡しません」――その言葉が頭の中で何度もリフレインしているのだろう、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げていく。
「……あら」
麗華の手元で、ティーカップの動きがピタリと止まった。
「今のって、プロポーズかしら?」
「ぷ、ぷろ……っ!?」
「…………」
綾部は無言でスッと顔を背けた。その肩が微かに震えている。笑いを堪えているのか呆れているのか、今の彼には判別がつかなかった。
「いいじゃない! ママ、すごく感動しちゃった! ねえ瑠璃、聞いた? この子、今すっごいかっこいいこと言ったわよ?」
「は、はひ……き、聞きまひた……」
完全に噛みまくっている。麗華の登場以来、お嬢様の気品は完全に崩壊していた。
「じゃあ、もう決まりね。今夜――」
「お、お母様っ!」
瑠璃がガタンと勢いよく立ち上がった。その拍子に椅子が後ろへ倒れる。
「わ、わたくしも……! お母様に申し上げておきますわ!」
涙目になりながらも、そのサファイアの瞳には強い決意の炎が灯っていた。瑠璃は奏多の隣に立ち、母である麗華を真っ直ぐに見据える。
「わたくしは、奏多様以外の物になんて絶対になりませんわ! 他のどこの馬の骨とも知れない王族や御曹司のところのお嫁になんか絶対に行きません!」
ぷるぷると言葉を震わせながらも、お嬢様としての意地と、奏多に対する一途な愛を叫ぶ瑠璃。その気迫に、麗華はわずかに目を丸くした。
「わたくしは、奏多様のものですわ……っ! だから、勝手に政略結婚とか決めないでくださいまし……っ!」
言い切った瞬間、恥ずかしさが限界を超えたのか、瑠璃は自分の両手で真っ赤になった顔をパッと隠すように覆った。
金髪が波打つように広がり、小柄な体からは想像もつかないほどの強い意志が放たれていた。
天宮瑠璃、17歳。恋愛経験ゼロの天然お嬢様が今、実の母親の前で堂々と啖呵を切っている。
「……ふぅん」
麗華はグラスの縁を指でなぞりながら、まっすぐに娘を見つめた。数秒の沈黙のあと、彼女はふっと艶やかに笑う。
「言うようになったじゃない」
「本気ですわ! わたくし、本気ですの!」
「わかった、わかった。じゃあ聞くけどさ、具体的にどうするつもり? パパを説得できるわけ?」
痛いところを突かれた。瑠璃の父親がどれほど厳格で、どれほどの格式を重んじる人物か――。想像するだけで、胃のあたりがキリキリと痛み出す。
あの圧倒的な家格の壁を前にして、「娘さんをください」などと言ったところで、門前払いどころか一瞬で消されても文句は言えない。
そんな現実に打ちのめされ、納得させられる未来がどうしても想像できなかった。
「……一つ、よろしいでしょうか」
静まり返った壁際から、綾部が静かに口を開いた。リビングにいる全員の視線が一斉に集まる。
「そもそも、お二人の関係はまだ『交際』にすら至っていないわけですが。告白も済んでいないのに、既成事実も何もないかと存じますが」
あまりにも冷静で、容赦のない正論がリビングの空気を切り裂いた。
「……あ」
瑠璃がハッとしたようにバッと振り返る。
そういえばそうだ。お互いに「好きだ」と伝え合ってはいたものの、肝心の「お付き合いしてください」というフレーズを、2人とも一度も口にしていなかった。
勢いで、最も肝心なステップを華麗にすっ飛ばしていたのだ。
「あはははは! 綾部ちゃん、最高! 確かにねぇ!」
麗華が堪えきれずにお腹を抱えて笑い出す。
「う、うぅ……っ! だ、だって順番がどうとか考えてるうちにですわね……!」
瑠璃の顔が、赤いを通り越して紫になりかけている。恥ずかしさと焦りで、すでに目にうっすらと涙が溜まり始めていた。
そして、彼女は意を決したようにガバッとこちらを振り返った。
「か、かかかか奏多様っ!」
もはや叫びに近い。両手を突き出し、半泣きになりながら奏多に詰め寄る。
「わ、わたくしと……! お、お付き合いしてくださいましぃぃーーっ!!」
その必死でストレートすぎる愛の告白は、広大なヴィラの吹き抜けリビングを抜け、窓の外のインフィニティプールに浮かぶ水鳥たちをも驚かせて一斉に飛び立たせるのだった。
泣き叫ぶような瑠璃の告白の余韻が残る中、麗華はフッと優雅に微笑み、グラスをテーブルに置いた。
「――でもね」
母親としての、そして一代で財閥を築き上げた女傑としての鋭い眼差しが、再び奏多に向けられる。
「友達でも恋人でもないなんて、そんな中途半端な関係をいつまでもダラダラ続けるのは良くないわよ。……ねえ、奏多くん。あなた自身は、この状況でどうしたいの?」
核心を突く問いかけだった。格式の壁も、政略結婚の影も、すべてが重くのしかかる。
しかし、奏多の中で迷いは消えていた。彼はゆっくりと顔を上げ、麗華の目を真っ直ぐに見据えた。
「……瑠璃は、俺の初恋です」
その言葉に、瑠璃が息を呑んで目を見開いた。
「家柄や格式……もし彼女を幸せにするためにそれが必要だというなら、命をかけてでも……いつか必ず俺がすべてをこの手で掴み取ってみせます」
それは身の丈に合わない大言壮語かもしれない。だが、そこには偽りのない本物の決意と覚悟が満ちていた。
奏多の強い決意の籠もった言葉を聞いても、麗華の表情は微動だにしない。彼女は冷徹なまでの眼差しで、まっすぐに奏多の奥底を見据えた。
「……口だけなら誰にでも言えるわ。綺麗事だけでこの子の隣に立ち続けられるほど、現実は甘くない。私たちの世界は、あなたが思っている以上に残酷よ。それでも覚悟はあるの?」
ひりつくような緊張感がリビングを支配する。麗華からの容赦ない釘刺しに、瑠璃が「お母様……!」と不安そうに息を詰まらせた。
だが、奏多は一歩も引かなかった。麗華のプレッシャーを真正面から受け止め、さらに強く拳を握りしめる。
「……覚悟ならできています。だから……まずはお母様だけでも、俺たちがここで正式に付き合うことを認めてください」
――数秒の、永遠にも思える沈黙。
麗華は奏多の瞳の奥に宿る揺るぎない光を見届けると、ふっと力を抜き、それから今日一番の美しい笑みを浮かべた。
「……いいわ。合格よ」
麗華はスッと立ち上がり、真っ赤になって固まっている娘の肩に優しく手を置いた。
「ママ公認のカップル誕生ね。おめでとう、瑠璃。よかったじゃない」
お母様っ……! と、瑠璃は感極まったように麗華に抱きつき、そしてすぐさま恥ずかしそうに頬を染めながら奏多へと振り返った。
感動の余韻に浸る瑠璃の瞳を見て、奏多はハッと息を呑み、そして自身の不甲斐なさを恥じるように小さくかぶりを振った。
今まで「身分の違い」「お互いの家柄」と、もっともらしい言い訳をして彼女を待たせ、踏み込むことから逃げていたのは自分自身だ。
麗華に一喝され、自分の情けなさと、同時にこの手で彼女を守り抜くという強い覚悟がようやく定まった。
奏多は改めて背筋を正し、少し照れくさそうに、しかしどこまでも真っ直ぐな瞳で瑠璃を見据える。
「……待たせて、ごめんな。今まで自分の身分とか、色んな言い訳をして……ずっと不安にさせてた」
奏多の突然の真剣なトーンに、瑠璃が「え……?」と驚いたように瞬きをする。
「でも、もう逃げない。お母様の前であんな大口叩いたんだ、これからはどんな壁が立ちはだかろうと、俺が全部ぶっ壊してやるよ」
奏多はすっと瑠璃の目の前まで歩み寄り、その小さな両手をしっかりと包み込んだ。手のひらから伝わる温もりが、お互いの緊張を少しだけ和らげていく。
「……好きだ、瑠璃。今度こそ、ちゃんと言わせてくれ。俺の恋人になってくれ」
そのストレートすぎる言葉に、瑠璃の瞳はみるみるうちに大粒の涙で潤んでいった。嬉しさと愛おしさが限界を超えたのか、彼女は「……はいっ、喜んで……!」と声を震わせ、自分から奏多の胸へと勢いよく飛び込んでいく。
「……あの、奏多様。わたくしたち……これで、本当に恋人同士、ですわね?」
胸に顔をうずめたまま、トロンとした甘い声で問いかける瑠璃の瞳には、嬉し涙がきらきらと輝いていた。
奏多は優しく彼女の背中に手を回し、愛おしそうにその金髪を撫でながら力強くうなずく。
「あぁ……よろしくな、瑠璃」
奏多が改めて差し出した手に、瑠璃はまるで宝物を扱うようにそっと自分の小さな手を重ね合わせる。
壁際では、綾部が「やれやれ」と小さく呟きながらも、どこか温かい目でその初々しい二人を見守っているのだった。




