第二十三話 ハートアイランド編
三時間のフライトはあっという間だった。
着陸態勢に入ると、眼下に海が見えた。透き通ったエメラルドグリーン。白い砂浜が弧を描き、その先にハートの形をした島が浮かんでいる。本当にハート型だった。自然の造形とは思えないほど綺麗なハート。
「着きましたわーっ!ハートアイランドですの!」
小型のプライベート飛行場が島の東側に設けられていた。滑走路は一本。周囲はヤシの木と白い砂丘。そしてその奥に見えるのは――。
ヴィラだった。ヴィラというより宮殿だった。白亜の建物が木々の間から顔を覗かせ、プールの水面が太陽を反射してきらきらと光っている。
「着きました。足元にお気をつけて」
タラップが降ろされる。熱風が機内に吹き込んできた。南国の湿った空気、潮の香り、鳥の声。完全なるリゾート。
「さあ奏多様!手を!」
先に降りた瑠璃が手を差し伸べている。リゾートドレスの裾が風にふわりと舞い上がった。その後方では黒服のボディガード四人が周囲を警戒し、メイド二人が日傘を構えて待機。さらにその後ろで、シェフらしき男が巨大なクーラーボックスを運んでいた。
そして、砂浜の先から一人の女性が歩いてきた。
「……瑠璃様」
「ん?」
「誰か先客が居ます…」
綾部の視線の先、水着姿の女性がこちらに手を振っている。褐色の肌に長い金髪にブルーサファイアの瞳、モデルのようなスタイル。
女性はサングラスを外しながら、にこやかにこちらへ歩いてくる。
背後には黒いスーツを纏った無機質な男たちが数名、まるで影のように静かに従っている。彼らの洗練された立ち振る舞いから、ただの観光客ではないことは一目瞭然だった。
その威圧感は、こののどかな南国の風を凍りつかせるほどだ。
女性の顔立ちは、確かに瑠璃に似ていた。だが、纏う雰囲気は正反対。大人の余裕と、すべてを支配してきた者だけが持つ底知れぬ色気が全身から滲み出ている。
「……え?」
瑠璃も固まった。聞かされていなかったらしい。
「……っ!?まさか、あの方は……」
綾部が息を呑み、わずかに冷や汗を伝わせる。完璧主義の執事にとって、この予想外すぎる来訪者は最大の動揺を誘うものだった。
女性が立ち止まると、背後の護衛たちは一糸乱れぬ動きでピタリと静止する。彼女は豊満な胸の前で腕を組み、豪快な笑みを浮かべた。
「瑠璃ちゃーん!会いたかったわぁ!」
声まで瑠璃そっくり。ただし音域が低く、鳥肌が立つほど艶がある。その声を聞いた瞬間、瑠璃は目を丸くしてフリーズした。
「え、え、えええ!?お、お母様!?」
その言葉に、今度は奏多が盛大に息を呑んだ。天宮グループ総帥の妻である天宮麗華。世界経済の裏で影の皇帝とすら囁かれる女帝が、なぜか南の島で水着姿で待ち構えていたのだ。
「やだもう、ママって呼んでって言ってるでしょ? それより……」
麗華の鋭い眼光が、タラップの上の奏多を捉えた。世界を牛耳るトップの視線に、奏多の背筋が凍りつく。
しかし、次の瞬間。麗華はふっと人懐っこい笑みを浮かべ、上から下まで舐め回すように見つめてから、にんまりと口角を吊り上げた。
「ふぅん。これが、うちの頑固な娘が選んだ『奏多くん』ねぇ?」
タラップを降りた奏多は、目の前に立つ圧倒的なオーラを放つ女性に気圧されつつも、逃げ出したい衝動をぐっとこらえてしっかりと背筋を伸ばした。ここで失礼な真似をすれば、今後どうなるか分かったものではない。
「は、初めまして!お嬢様とお付き合いさせていただいております、奏多です!いつもお世話になっております!」
声が盛大に裏返った。しかし、本人としては精一杯の礼儀を尽くしたつもりだった。
麗華は腰に片手を当て、じーっと奏多を見つめた。三秒、五秒。永遠にも感じる沈黙が南国の風に揺れる。
「ぷっ」
吹き出した。
「あはははは!やだ、緊張してる!かわいー!」
腹を抱えて笑っている。
先ほどまでの圧倒的な威圧感が、一瞬でどこかへ霧散した。その豪快な笑い方は瑠璃とそっくりで、「あはは」の血筋は完全に母親譲りらしい。
「お、 お母様!?なんでここに!?」
瑠璃がドレスの裾を揺らしながら、駆け寄ってきて母親に詰め寄る。
「なんでって、娘が男の子と島で二人っきりなんて聞いたら、母親が駆けつけるのは当然でしょ?」
麗華は涼しい顔で肩をすくめてみせた。
「……つまり、こちらの網を掻い潜って尾行していたということですか」
綾部が麗華の背後に目を向け、わずかに目を細める。
「尾行なんて人聞きの悪い。愛よ、愛」
「プライベートジェットの航路情報までハックして……」
うちの情報網なめないでくれる?と、麗華は悪びれもせずにウィンクを飛ばす。
綾部のこめかみに青筋がピクリと浮いた。鉄壁のセキュリティを軽々と突破された専属執事としてのプライドが、音を立てて崩れていく。
「もうっ!ママったら!せっかくの二人旅がぁ!」
「二人旅?綾部ちゃんや使用人達だって同乗してるじゃない。それにね……」
麗華がすっと目を細め、視線を再び目の前の奏多に戻した。
「ママも奏多くんのこと、自分の目でちゃーんと見極めないといけないから。ね?」
艶やかな笑み。だが、その瞳の奥は一切笑っていなかった。
「……ま、礼儀正しさは合格ね。いい子そうじゃない」
麗華はそう言いながらも、値踏みするような視線を崩さない。ヒールのないビーチサンダルだというのに、圧倒的な存在感で周囲の空気を支配していた。
「お、お母様!聞いてませんわ、わたくし何も!」
「だって言ったら逃げるでしょ?」
「ぐっ……」
図星だったのか、瑠璃は悔しそうに唇を噛み締めて言葉に詰まる。
そんな娘を横目に、麗華はふっと艶やかな口元を緩め、さらに一歩奏多へと歩み寄った。
「ねえ、奏多くん。単刀直入に聞くけど」
首を傾げ、金色のウェーブヘアを揺らしながら、彼女はこともなげに言い放った。
「うちの娘と、もうヤッたの?」
その瞬間、南国の空気が凍りついた。
背後のボディガード四人が同時に直立不動の姿勢をとり、メイドが手から日傘を取り落とし、綾部が持っていたタブレットを握り潰しそうになる。
「おおおおおお母様ぁぁぁ!?!?何を言い出すんですの!?」
「っぶ、げほっ、ごほっ……!なっ、何を……!」
瑠璃は真っ赤になってひっくり返りそうになり、奏多はあまりの直球すぎる質問に盛大にむせ返って咳き込んだ。
「……開口一番それですか。さすが瑠璃様の血筋ですね」
「何よ綾部ちゃん、大事なことじゃない!ママは早く可愛いお孫ちゃんの顔が見たいの♡」
麗華はにっこりと微笑む。その悪意ゼロの笑顔が、周囲の人間をさらなる絶望へと叩き込むのだった。




