第二十二話 ハートアイランド編
「では、直ちに航空機の手配を。ハートアイランドへ向かう段取りをして参ります」
綾部のその一言から、驚異的なスピード感ですべてが動き出した。先ほどまで泣き顔でしおれていた瑠璃が「いざ出発ですわ!」とばかりに急に元気を取り戻し、それに引きずられるように周囲の空気が一気に戦闘モードへと切り替わる。
「待て待て、ジェット機っておい、そんな簡単に……!」
奏多が慌ててツッコミを入れる間もなく、綾部のスマホの画面を数回タップする音と、的確な指示を飛ばす低い声が室内に響き渡る。
「――機体の航路申請は急ぎ特急枠で。現地のハートアイランドのリゾートスタッフへは、全館の稼働と最高ランクの歓迎準備を。『瑠璃様のご機嫌が最優先事項』です、手落ちのないように」
『かしこまりました』
電話の向こうの緊迫した返事に、奏多は冷や汗を流す。
「待て、俺の荷物とかパスポートはどうするんだ!?」
「ご安心ください、奏多様。お荷物はすでに専属スタッフがご自宅から回収済みですし、パスポート等の身分証関係も、法的な手続きを含めてすべて先ほど完結させております」
「俺の家に入ったのか!?っていうかどうやって!?」
「不法侵入などとんでもない。瑠璃様の大切な客人を安全かつ円滑にエスコートするための、当家が持つ当然の特権行使にございます」
どこまでも涼しい顔で言い切る執事の姿に、奏多はもうツッコミを入れる気力すら奪われていく。
――まったくもって納得いかない気もしたが、圧倒的な財力と行動力の嵐の前には、個人の意思など木の葉のように軽かった。あれよあれよという間に事態は進んでいく。
用意された特等車の後部座席に押し込まれ、やがて窓の外を流れる景色が首都高から見慣れない専用のVIPターミナルへと変わる。
一般人が何時間も並んでこなす面倒な出国審査や搭乗手続きの列なんてものは彼女たちの辞書には存在せず、黒服たちに丁重に――しかし有無を言わせぬ絶対的なスピード感でエスコートされるがまま、気がつけば目の前には、朝日を浴びてメタリックに輝く巨大なプライベートジェットが鎮座していた。
そして――。
プライベートジェットの重厚なタラップを上がった瞬間、奏多は自分の知っている「飛行機」という乗り物の概念を盛大に踏み潰された。
「……は? なんだこれ……」
そこにあったのは、飛行機の機内というよりも、高級ホテルのスイートルームだった。
程なくして全員乗り込んで着席すると、準備は万全だったのかすぐに離陸して出発する。数時間前までは屋敷だったのにもう雲の上に居てるこの状況を作り出す綾部の手腕には改めて驚かされる。
窓の外には見事な青空が広がっているというのに、足元には高級ペルシャ絨毯が敷き詰められ、奥にはフカフカのダブルベッド、さらには大理石のカウンターバーまで完備されている。飛行機の座席という概念はどこにもない。
「あら、気に入っていただけましたか? 『ハートアイランド』までの三時間、退屈しないようしつらえておきましたの!」
隣で誇らしげに胸を張る瑠璃は、すでに機内用のカジュアルなリゾートドレスに着替えていた。サラリと揺れる金髪と甘い香水の香りが、狭い(といっても普通の飛行機より圧倒的に広いが)空間に満ちている。
「いや、退屈どころか落ち着かねぇよ!なんだこのバーカウンターは……っていうか、どんだけお金かけてんだ……」
「ふふっ、お金のことは気にしなくていいのですわ。それより、奏多様、こちらへどうぞ!」
瑠璃にグイと腕を引っ張られ、奏多はフカフカの特等席のソファーへと強制的に座らされた。
離陸の衝撃がほとんどないまま、飛行機は静かに空へと舞い上がっていく。雲の上に出ると、機内は静寂とまばゆい太陽光に包まれた。
「……さっきは、ごめんなさいね」
ふと、それまでハイテンションだった瑠璃が、すっと目を伏せて小さく呟いた。
ソファーの隣にちょこんと座り、綺麗なサファイアブルーの瞳を少し揺らしている。
「店のこと……迷惑をかけてしまって。後から綾部にも怒られちゃいましたの。わたくし、奏多様が喜んでくれると思って調子に乗りすぎて……嫌われちゃうんじゃないかって気が気でなかったんですの……」
さっきまでの自信満々な女王様っぷりはどこへやら、今はすっかり子犬のようにしょんぼりしている。その純粋すぎる反省の色を見ると、奏多の中にあった呆れなんてものは綺麗に溶けて消えてしまう。
「……瑠璃。」
奏多は苦笑いを浮かべると、隣にいる瑠璃の頭にそっと手を伸ばし、ポンポンと軽く撫でた。
「っ……!」
瑠璃がびくりと肩を震わせ、パチパチと目を瞬かせる。
「怒ってない。ただ、びっくりしただけだ。……なにはともあれ、こうして一緒に旅行に来るの自体は、悪くないって思ってる」
「……奏多様……♡」
瑠璃の顔が一気に真っ赤に染まる。潤んだ瞳で上目遣いに見つめられ、奏多は少し気恥ずかしくなって視線を窓の外に逸らした。
しかし、そんな甘い雰囲気を許さないのがこのお嬢様である。
「もう!そんなこと言われたら、わたくし、胸がいっぱいで……!ねえ奏多様、今すぐこのベッドで……!」
「ちょ、急に距離を詰めるな!まだ昼だぞ!っていうかベルトをしろ!シートベルトを!」
「やだ、奏多様と一緒がいいですの!」
「コラ、暴れるな!危ないだろ!」
ソファーの上でわちゃわちゃとじゃれ合う二人。
その様子をバーカウンターの影から、綾部が淹れたての高級紅茶を片手に、穏やかな微笑みで見守っていた。
タブレットの影で口元がわずかに緩んでいる綾部。この展開を予測していたのか、すでにイヤホンを装着して「聞こえません」のポーズを取っていた。
「えへへ……嬉しい……。これからのことを考えると夢みたいですわ」
さっきのしおらしさはどこへやら。しかし瑠璃は奏多に抱きついたまま、ふと顔を上げた。
「……ねえ、奏多様」
声が少し低くなった。甘えるような、それでいて真剣な目。
「……奏多様のこと、もっと知りたいなって思いましたの」
金髪がさらりと肩から流れ落ちる。
「好きな食べ物とか、嫌いなものとか……子供の頃の話とか。教えてくださいます?」
普段の暴走っぷりからは想像もつかないような真摯な問いかけに、奏多は少しだけ面食らった。
(……なんだよ、急に真面目な顔して)
「子供の頃の話って……別に大したことないよ。普通の学生だったし、好きな食べ物は肉とかオムライスとか、そういう普通のやつだ」
「オムライス……!」
瑠璃の目がきらりと光った。「オムライス」という単語が彼女の中で何かに火をつけたらしい。
「オムライスですのね!ケチャップ派?デミグラス派?中身はチキンライス?それともバターライス?」
矢継ぎ早の質問。距離が近い。近すぎる。鼻先が触れそうなほど顔を近づけて、一言も聞き漏らすまいと目を見開いていた。
「……瑠璃様、質問の圧が強いです。奏多様が引いてます」
「引いてませんわ!ねえ奏多様!」
引いている。確実に引いている。だが瑠璃に構う様子はなかった。
「わかりましたわ。ハートアイランドに着いたら、わたくしがオムライスを作りますの!」
沈黙が降りた。機内の上質な空調の音だけが、やけにハッキリと響いている。
「……は?」
綾部の手が止まった。タブレットをスライドさせる指が完全に凍りついている。
「瑠璃様。料理の経験は」
「ありませんわ!」
「……包丁は握ったことありますか」
「ないですわ!」
「火を扱ったことは」
「キャンプファイヤーなら!」
「それは料理じゃない」
しかし瑠璃はもう聞いていなかった。背後のメイドを呼びつけ、「卵を千個手配しなさい!」「鶏肉は最高級の名古屋コーチンを!」「ケチャップは三種類用意して!」と怒涛の指示を飛ばし始めている。
「奏多様のために初めての手料理……えへへ、成功したらご褒美にちゅ〜してくれます?」
「……死人が出る前に止めた方がいいですかね、これ」
誰にともなく呟く綾部。その端正な顔立ちは、すっかり遠い目をしていた。
「朝はパン派?ごはん派? 好きな恐竜はティラノサウルス?それともトリケラトプス?あと、好きな女性の髪型はロングですか?それともボブ?ポニーテールも捨てがたいですわよね!」
その後も質問のマシンガンが止まらない。恐竜あたりから完全に趣旨が迷子になっていたが、最後の「髪型」の一言だけは、やけに真剣な瞳でじっと奏多の返事を待っている。
「おい、急に質問に恐竜が挟まったり……ってか、髪型にこだわりは特にないかな。でも、その中で強いていうならボブかな……って、なんでそんな真剣な顔してんだよ」
「なるほど……ボブですわね! 完璧にメモしましたわ!」
瑠璃は満足げに頷くと、ポケットから小さな手帳と万年筆を取り出してなにやら猛烈な勢いで書き留め始めた。
と、その時。機内のスピーカーから軽やかなチャイムが鳴り、専属のキャビンアテンダントが姿勢正しく現れた。
「瑠璃様、間もなくハートアイランド上空でございます。ご準備はよろしいでしょうか」
「もう着きますの!?」
窓の外を見れば、雲海の下にぽっかりと緑の島影が見え始めていた。よく見れば、確かに綺麗なハートの形をしている。まさか本当にハート型の島だとは思わなかった。
「奏多様!見てくださいまし!あれがわたくしたちの愛の島ハートアイランドですわ!」
「……不動産登記上の正式名称は『南洋群島第三環礁』ですが」
「黙りなさい綾部!」
ジェット機が滑らかな挙動で徐々に高度を下げていく。眼前に広がるのは、言葉を失うほど透き通ったエメラルドグリーンの海と、どこまでも続く真っ白な砂浜。
そしてその中央には、海外の高級リゾート地をそのまま切り取ったような白亜の巨大ヴィラがそびえている。島丸ごと一個が、完全に瑠璃のプライベート王国と化していた。




