第二十一話 ハートアイランド編
七月。大学は夏休みに突入した。
蝉の声が東京を覆い尽くす季節。学生たちが「海だ、山だ、リゾートだ」と浮き足立つ中、奏多は自宅のベッドでスマホを握りしめていた。画面の通知バッジには『17』という数字が輝いている。
奏多は重たい瞼をこすりながら、瑠璃からのメッセージを読み始めた。
『奏多様おはようございます!今日の気温38度ですの!熱中症対策にわたくしが開発した特製ドリンクをお届けしますわ!もう持って出ましたの!あと15分で着きます!』
『今日はわたくし、麦わら帽子にワンピースですの♡似合うかしら?♡♡』
『朝ごはんはまだですわよね?』
『綾部に「朝からうるさい」って言われましたの!ひどい!』
「……夏休み初日から過剰すぎだろ……」
スクロールしても終わらないメッセージ攻勢。奏多がため息をついた瞬間、画面が激しく震えだした。今度は通話だ。
『もしもし奏多様!?出てくださいまし!寝てますの!?死んでませんわよね!?』
「……もしもし。生きてるよ。っていうか、まだ朝の七時だぞ」
受話器の向こうからは、車の音が響いている。もうすぐそこまで来ているらしい。
「……奏多様、申し訳ございません。止めたのですが、聞く耳を持たず……」
遠くで、綾部の深い溜息が微かに聞こえた。
奏多がカーテンを少しだけ開けて外を見ると、予想通りの惨状が広がっていた。
路上を完全に塞ぐ白いリムジン。車の横には黒服のボディガードが四人。さらにその後ろには、大きなキャリーケースを引いたメイドが二人。
「綾部さん、お疲れ様です……。とりあえず、その重装備のままうちに来るのだけはやめてくださいって伝えてくれませんか?」
「……善処します」
善処。つまり、無理ということだ。電話越しに綾部が、何かを諦めた気配がした。
「重装備じゃありませんわ!最低限ですの!」
スピーカーから瑠璃の叫び声が響き、奏多は思わずスマホを耳から離した。
「奏多様ぁ!聞こえてますの!?わたくし、今日はすっごい計画を立ててきましたの!」
その時だった。インターホンのけたたましい電子音が鳴り響く。同時に玄関ドアがドンドンドンと激しく叩かれた。近所迷惑という言葉を、彼女の辞書から抹消したかのようなノック音だった。
「少し落ち着け、で……どんな計画なの?」
玄関を開けた瞬間、香水の上品で甘い香りが部屋に流れ込んで来る。
「えへへ、よくぞ聞いてくださいましたわ!」
そこには白いワンピースに大きなサングラス、頭にちょこんと麦わら帽子を乗せた瑠璃が仁王立ちしていた。
「夏休みといえば!海!山!島!ですわよね!?」
三本の指を立てて力説する瑠璃。その後ろで、綾部が静かに額を抑えていた。
「ですので!わたくし、プライベートビーチ付きの無人島をまるごと一つ買い取りましたの!」
さらっと言い放つ。まるで朝食のメニューを読み上げるかのような気軽さだ。
「……は? 島? ……いま、なんて言った?」
奏多は聞き間違いだと思い、思わず二度見した。
「名前は『ハートアイランド』!ハート型の島ですの♡らぶらぶですわよねぇ!」
「……所有権の移転登記、昨晩のうちに済ませておきました」
有能すぎる執事。止める側ではなく手続き側に回っているあたり、もはや共犯だった。
「ちょ、ちょっと待て!買い取るって、いくらしたんだよ!そもそも、そんなところに行ったら俺のバイトはどうすんだ!」
「バイト?そんな細かいことは綾部に全部対処してもらいますわ。さあ奏多様、明日には出発ですわ!こちらでプライベートジェットを手配しますわ!」
「ええっ、明日から!?いや、せめて準備を……!」
「水着は持ってますわよね!?わたくしの選んだ特注品も用意してありますから!」
瑠璃の瞳が爛々と輝いている。
「行くとしても俺だって色々と予定や準備が……とりあえず明日にまた連絡するから、それまでは決められないし待ってくれ」
「では、わたくしも奏多様の為にも準備を進めますわね!明日お待ちしてますわ!」
まだ行くとは言っていないのに、この有様である。
風のように現れて風のように去って行った。
断るという選択肢がこの少女の辞書に存在しないことは、付き合い始めてからの数週間で嫌というほど思い知らされていた。
デートに誘えば「明日から一週間、海外旅行の予約を入れますわ!」と返され(もちろん止めさせたが)、夜道を送れば「わたくしの護衛のために黒服を十人配置しました!」と誇らしげに言われる。
彼女の辞書において「相談」という文字は、単なる事後報告の類義語らしい。
夏休み初日から嵐の予感が舞い込んで来た。
瑠璃が帰ってから予定を確かめて、まずは夏休みの課題に取り掛かる。
一段落ついた頃には日も暮れていたので、奏多は瑠璃に『また明日の朝にはバイトのスケジュールとか確認して連絡する、おやすみ』とだけLINEを送ると早々にベッドに入って眠ることにした。
そして翌朝、奏多はバイト先のスーパーの店長からの電話で叩き起こされた――。
「奏多君……一体何をしたんだ……。昨日、君の『お知り合い』だという女性が来てね。店内の商品をすべて、隅から隅まで買い占めていったんだよ……」
電話越しに聞こえる店長の阿鼻叫喚に、奏多は血の気が引くのを感じた。
「……は? 買い占め……?」
「在庫整理どころじゃない!店が空っぽになったから、ひとまず一週間は臨時休業だ。その後のことはまた追って連絡するから、君も当分店には来なくて大丈夫だ」
電話を切った瞬間、奏多は深々と溜息をついた。
「あいつ、本気でやりやがったのかッ……!」
怒りというよりは、あまりの極端さに呆れと疲労が押し寄せる。好意があるのはわかるが、さすがに加減というものがある。今回ばかりは、きっちりと釘を刺しておかなければならない。
奏多は着替えもそこそこに、瑠璃の屋敷へと向かうタクシーに飛び乗った。渋滞する道路を横目に、彼は窓の外を睨みつける。
彼女の行動はいつも独善的で、悪気がない分だけ質が悪い。
屋敷に到着するなり、奏多は奥へと進んだ。
応接間で優雅に紅茶を飲んでいた瑠璃は、奏多の顔を見るなり、花が咲いたように微笑んだ。
「あら、奏多様!昨日のお買い物、楽しかったんですのよ!これで奏多様がお仕事を気にせず……」
「瑠璃」
奏多の低い声に、瑠璃が紅茶のカップを置く。
「……なぜ店の商品を全部買い占めた?店長も驚いていたし、何より俺はバイトがしたかったんだ。瑠璃に言われるまでもなく、自分の生活は自分で何とかしたいんだよ」
奏多の言葉は静かだったが、瑠璃の心には鋭く突き刺さった。瑠璃の表情から、パッと血の気が引いていく。
「……わたくし、奏多様の役に立ちたくて……余計な心配をさせたくなくて……」
「気持ちは嬉しいよ。でも、自分の都合で周りの生活まで壊しちゃいけない。それは、ただの我儘だぞ」
瑠璃は俯き、小さく震えた。いつも強気で自信満々だった金色の瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。綾部も今は何も言わずにただ頭を下げている。瑠璃は、まるで壊れかけのガラス細工のようだった。
(……相当、ショック受けてるな)
怒りよりも先に、その純粋すぎる愛の形に、奏多は深い溜息をつくしかなかった。彼は屈みこむと、瑠璃の隣に座り、その華奢な肩にそっと手を置いた。
「……一週間。スーパーの臨時休業で、バイトは休みになったよ」
「……っ」
「だからさ。その……せっかくの夏休みなんだし。瑠璃が言ってた『ハートアイランド』だっけ? 行くか」
瑠璃が驚いて顔を上げる。サファイアブルーの瞳が、涙で濡れながらも大きく見開かれた。
「……いいのですか?わたくしの、そんな……」
「ああ。その代わり、次は俺に相談してからにしろよ。いいな?」
「……っ、はい! はいっ! 奏多様、大好きですわ!」
瑠璃は泣き顔のまま、奏多に抱きついた。先ほどの沈んだ空気が嘘のように、瑠璃の瞳に再び光が戻る。
その様子を横で見ていた綾部が、小さく安堵の息を吐き、すぐに表情を引き締めて歩み寄った。
「では、直ちに航空機の手配を。ハートアイランドへ向かう段取りをして参ります」
こうして、強制的に始まった夏休みの「ハートアイランド編」の幕が開いた。




