第二十話
一先ず、外でお話しするのも……ということで、少しだけ家へ招待すること運びとなった。
古びたアパートの203号室。六畳一間に小さなキッチンと風呂トイレ。天宮家の応接間と比べたら犬小屋のようなものだが、清潔に整えられた生活感のある部屋だった。
母親が慌てて麦茶を出そうとした、その時。
「あの、お母様。もしよろしければ、お手土産をお渡ししたいのですけれど」
どこから出したのか。いつ用意したのか。玄関の外で控えていた綾部が、恭しく差し出したのは「パティスリー・ラ・クレール」の菓子折りだった。一箱数万円は下らない代物だ。
しかも瑠璃が「あ、これもですわ」と追加で取り出させたため、計三箱。冷蔵庫の容量を明らかに超過していた。
「や、やだ、冷蔵庫に入らない!」
母親が悲鳴を上げた。古い二ドアの冷蔵庫は、すでに麦茶のパックと昨日の残りでパンパンだった。そこに高級菓子折り三つは物理的に不可能だ。
「あら、まあ……!」
瑠璃は本気で困った顔をしている。悪気はゼロだ。財力で解決できない問題に直面したことが人生でほとんどない少女の、貴重なフリーズ顔だった。
「……だから言ったんですよ。一般家庭の冷蔵庫事情を考慮しろと」
廊下から聞こえてくる綾部のため息。ちなみにこの菓子折りは、瑠璃に「手土産はどうしましょう!」と聞かれた綾部が「コンビニの羊羹で十分です」と答えたのを、完全に無視して用意されたものである。
「あ、あなたこれ……どこの……? なんか箱のロゴがすごく高そうなんだけど……!」
「お母様のご家族の分もございますの。ご兄弟は何人いらっしゃいますの?」
「姉と弟が一人ずつだけど、そういう問題じゃなくて……!」
完全にパニック状態の母親をよそに、瑠璃はしゃがみ込んで冷蔵庫の中身を真剣に覗き込んでいた。「ここに詰め込めば……いけるかしら」と呟く姿は、まるで爆弾処理に挑む新人兵のようだった。
そして狭い台所で、てんてこ舞いの攻防戦が繰り広げられていた。
「いいから、一旦その箱を開けてバラで入れよう。そうすれば冷蔵庫に入るから」
奏多が必死の形相で提案するが、瑠璃は頑として譲らない。
「いけませんわ! 『パティスリー・ラ・クレール』の菓子折りを箱から出すなんて、格式が……! 中身が空気に触れて湿気てしまいますわ!」
「そんなことより、あんたたちまずは座って! 立ち話なんていいから!」
母親が二人の間に入り、物理的に瑠璃の背中を押してちゃぶ台へ誘導しようと必死だ。浮世離れした令嬢と、必死な庶民親子。その滑稽な様子に、普段は鉄面皮を貫く綾部も、思わず口元を緩めていた。
「……ふっ」
笑った。あの綾部が。
玄関口で口に手を当て、肩を小刻みに震わせている。十年間瑠璃の傍に仕えてきて数々の珍事を見てきたが、この庶民の台所でわたわたと翻弄される主は初めてだった。高級ホテルのスイートルームでは完璧なお嬢様が、六畳間ではバターを冷凍庫へ放り込もうとしている。ギャップが凄まじい。
「綾部! 笑っていないで助けなさい!」
「……失礼。ですが瑠璃様、バターは冷蔵保存が基本です。冷凍すると脂肪が結晶化して味わいが……」
「そういう話ではなくてぇ!」
母親はもう涙目だった。嬉しいのか困っているのか自分でもわからない。とりあえず座らせようと、母親は瑠璃をちゃぶ台の前へと誘導し、座布団を二枚重ねて敷いた。
「はい、座って!お嬢さんも、とりあえず!ね!?」
「は、はい……」
おずおずと正座する瑠璃。しかし、膝が座卓の角にぶつかった。
「いたっ……」
「あーもう、正座しなくていいのよ、足崩して!」
この母親、いつの間にか肝が据わっていた。さすがは奏多を女手一つで育てただけのことはある。瑠璃を見る目が「とんでもないお嬢さんだけど、どうやら悪い子じゃなさそうね」という、母親特有の温かな眼差しに切り替わりつつあった。
「……いい家族ですね」
誰にも聞こえない声量で、綾部はそう呟いた。
「……で、あんたたち!」
母親はバタバタと食器棚からコップを取り出すと、人数分を乱暴に並べた。
「せっかく来てくれたんだから、口の中を湿らせなさいよ。高級なお菓子には合わないかもしれないけど、うちの麦茶は世界一よ。……たぶんね」
瑠璃は目を丸くした後、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。
「……嬉しいですわ。お母様の淹れてくださるお茶、ぜひいただきたいです」
さっきまでの格式へのこだわりはどこへやら、瑠璃は少しだけ緊張を解いて、ちゃぶ台の上のコップを両手で包み込んだ。
一時間が、あっという間に過ぎた。
最初はガチガチに緊張していた母親も、いつの間にか「瑠璃ちゃん」と呼ぶまでに至っていた。
話題は奏多の中学時代の恥ずかしいエピソードから始まり、高校受験の裏話、反抗期の暴言集、そして母の手料理自慢。瑠璃は目をキラキラさせて聞き入り、時折「まぁ!」と声を上げて笑った。
「お母様、この肉じゃがのレシピ……本当に教えていただけますの?」
「いいけど、百均のお鍋で作るのよ? 瑠璃ちゃんのお台所じゃ無理かもねぇ」
「百均……! わたくし、行ったことございませんわ!」
そんな和やかな空気の中、時計は二十三時を回りかけていた。
「瑠璃様。そろそろお時間です」
玄関で控えていた綾部がスッと現れた。手には瑠璃のコートと帽子が用意されている。
「えぇー! もうですの!?」
案の定、瑠璃は駄々をこね始めた。靴を履くのを拒否して奏多にしがみつき、「あと五分……いえ十分……三十分!」と交渉を試みたが、綾部に首根っこを掴まれて見事に引き剥がされた。
「奏多様~! また明日! 絶対ですわよ!?」
ずるずるとリムジンに引きずり込まれながら叫ぶ瑠璃。その声が静かな住宅街に響き渡り、向かいの部屋の明かりがカーテンの隙間からちらちらと揺れた。
「……賑やかなお嬢さんねぇ」
見送りに出ていた母親がぽつりと言った。テールランプが角を曲がって消えるまで、その目差しはどこまでも温かかった。
一方、リムジンへと押し込まれた瑠璃は、まだ名残惜しそうに窓ガラスにへばりついていた。車が走り出してからもしばらく手を振り続け、ようやく満足したのか、ふうと大きく息を吐いてシートに深く沈み込んだ。
「……綾部」
「何でございましょう」
「あの『百均』とやらのお鍋。至急、最高級のものを手配なさい。いえ、あのお鍋そのものが必要ですわ。お母様が使っていたのと同じものを、全種類揃えてちょうだい」
(……『百均』で最高級??)
綾部は一瞬、言葉に詰まった。フロントミラー越しに、瑠璃の真剣な横顔を見る。どうやら本気らしい。
「……かしこまりました。調査の上、最も近い質感のものを手配いたします」
「ええ、頼みますわ。わたくし、完璧な肉じゃがを作れるようにならないといけませんの。お母様から直伝のレシピで!」
ふふふ、と幸せそうに夢見心地で微笑む瑠璃。
綾部は小さくため息を吐くと、遠い目をして夜の街を見つめた。
(……『百均』を、わざわざ調査して取り寄せですか。この方、本当に料理が出来るようになるのでしょうか……)
護衛の仕事に加えて、今後は「庶民文化の再現」という難題まで増えそうな予感に、綾部の肩の荷はますます重くなる一方だった。




