第十九話
綾部の車に乗り込む二人。
奏多は小さくため息をついて、ハンドルを握る運転手に声をかけた。
「今日の綾部さんは意地悪です」
「そうですか? 私は通常運転ですが」
バックミラー越しにちらりと奏多を見る綾部。その紫の瞳には、明らかに隠しきれない愉悦の色が宿っていた。
「ただ……十年間、あのバ……瑠璃様の世話をしてきて。ようやくまともな相手が見つかったとなると、少しくらいからかいたくもなります」
リムジンの後部座席では、瑠璃がまだ奏多の右腕にぴったりとくっついて離れない。先ほどの宣言通り「全てを預ける」という伏線を、全力で回収している最中だった。
「ねぇ、奏多様ぁ。綾部ったらひどいんですの。わたくし達の大事な瞬間を邪魔しておいて、この態度……!」
「門限はとっくに過ぎています。お嬢様がいつまでも帰ってこないから、私が探しに来たんですよ。感謝してほしいくらいです」
「うぐっ……」
正論の追撃が綺麗に刺さり、瑠璃がしゅんと小さくなる。だが、すぐに奏多の方を向いてぱぁっと表情を輝かせた。切り替えが早すぎる。
「……でもでも! 今日は記念日ですわ! 奏多様がわたくしに『好き』って言ってくださった日! 明日から毎月この日は祝日ですわ!」
「国家権力を何だと思っているんですか」
はぁ、と深いため息をつきながらも、ハンドルを握る綾部の横顔は、どこか穏やかな温かみを帯びていた。
すると突然車内に響く、上品な着信音。画面に表示された「お父様」の文字を見た瞬間、綾部が露骨にハンドルから手を滑らせかけた。
「……最悪のタイミング」
綾部が小声で呟いたが、もう遅い。瑠璃が嬉々として通話ボタンを押した。
低く威厳のある声が、車内に響き渡る。天宮グループ現当主、天宮翔。五十代半ばにして財界の重鎮、鉄の意志で知られる男だ。
『……久しぶりだな瑠璃。晩餐会でのあの騒ぎ、耳に入っているぞ。あの……奏多とかいう男、度胸だけはあるようだが、一体何が良くてお前はそこまで執着しているんだ?家柄も、実績も、お前には到底釣り合わないだろう』
翔の声は冷静だったが、「釣り合わない」という単語が出た瞬間、車内の空気が凍りついた。
「えっ?」
瑠璃の大きな瞳がぱちくりと瞬いた。一拍の沈黙。そして。
「……ぷっ」
堰が切れたように、瑠璃が弾ける。
「何を仰いますの、お父様!何が良いなんてそんなの、数え始めたら明日になってしまいますわよ!?」
怒涛の惚気が始まった。
「まずですね、奏多様ったらわたくしと同じで犬が大好きなんですわ!犬カフェでダックスフンドを抱っこしている時のあの優しい目!普段クールなくせに小動物の前だけふにゃってなるんですの!あと、クレープを食べる時にクリームが唇につくのを全然気づかないところ!それとそれと……!」
止まらない。完全に暴走機関車だ。
「あとですね、意外と不器用なところがありますの!そう!ボタンを留めるのに三回失敗したり!でもそういうところも愛おしくて……あ、そういえば奏多様の右手の爪の形が……!」
翔は黙っていた。いや、黙るしかなかった。
「娘の恋愛の質の低さ」を指摘し、論理で諭すつもりで電話をかけたはずが、逆に「娘がこんなにも一途に狂わされている相手」をまざまざと見せつけられている。
しかも娘の語彙力は壊滅的で、出てくるエピソードがことごとくしょうもない。
三分経過。五分経過。
「それだけじゃないですわ!お父様、この前なんて……!」
まだ続く。十分後。翔は深く長いため息を一つついた。怒る気力すら奪われていた。呆れを通り越し、悟りの境地に達した男の声が響く。
『……もういい。勝手にしろ。また連絡する』
ぶつり、と通話が切れた。
「あっ、お父様!? もしもし!? ……切れちゃいましたわ」
きょとんとした顔でスマホを見つめる瑠璃。
「……瑠璃様。今の、許可されたんではなくて諦められたのですよ」
「同じことですわ!」
「全然違います」
こめかみを押さえる綾部と、にこにことご機嫌な瑠璃。奏多はその間で、ただ苦笑いするしかなかった。
「……奏多様」
赤信号で車が停まった。綾部はバックミラーから目を逸らし、珍しく真っ直ぐ前を見据えたまま口を開いた。いつもの気だるげな様子は消え、そこには側近としての冷徹さと、僅かな情が同居していた。
「一つ、お伝えしておきたいことがあります」
ハンドルの革を親指でなぞりながら、綾部は言葉を選ぶように間を置いた。
「瑠璃様のお父上、旦那様のことです。……ああ見えて、非常に娘想いの方ですので。長年、瑠璃様を狙う不純な輩や、打算まみれの縁談からお嬢様を守り続けてきました」
淡々とした口調。しかし、その一言一言には、十年の歳月で積み重ねた実感が滲んでいる。
「瑠璃様の未来を案じるのが『父親』としての義務だと信じている。晩餐会の件も、旦那様なりの、娘を守るための防波堤だったのでしょう」
ちらり、とミラー越しの視線が奏多を射抜いた。
「ですが、旦那様の懸念は『身分』だけではありません。庶民である奏多様が、この閉鎖的で冷酷な上流階級の海で、瑠璃様を本当に護り抜けるのか。……父親として、その一点を危惧しているだけなのです」
車内が静まり返る。瑠璃もいつの間にか奏多の腕からそっと身を離し、じっと綾部の言葉に耳を傾けていた。
「まあ、先ほどの電話を聞く限り……旦那様も『瑠璃がここまで幸せそうなら、もう口出しは無用か』と、呆れつつも多少なりとも安心したはずですよ」
ほんの一瞬、綾部の口元がかすかに緩んだ。
「……瑠璃様のあんな顔、私も十年仕えてきてほとんど見たことがありませんから」
信号が青に変わる。アクセルを踏みながら、綾部はぽつりと付け足した。
「だからこそ、中途半端は許しません。もし瑠璃様を泣かせたら……その時は私が、相応の対処をしますので」
綾部の警告が車内の空気を引き締めた。奏多は外を流れる街灯の明かりを眺めていたが、やがてゆっくりとバックミラーの紫の瞳を見つめ返す。
外の喧騒が遠のき、エンジン音だけが一定のリズムを刻む中、奏多は静かに息を吸い込んだ。
「……厳しい忠告、ありがとうございます。でも、安心してください。綾部さんがそれほどまでに瑠璃を大切に想っているなら、俺と綾部さんの目指すゴールは同じですから。俺も、あなたが守り続けてきた瑠璃の笑顔を、これから先はずっと隣で見ていたいんです」
綾部の眉がわずかに動いた。
「……ゴールが同じ、ですか」
ハンドブレーキを引く音。リムジンが静かに停車した。窓の外には古びたアパートの外壁が広がっている。築三十年は超えているだろうか。天宮家の豪邸とは天と地ほどの差があった。
「……」
瑠璃が無言で車の窓に顔を近づけた。サファイアブルーの目に映る景色をまじまじと見つめている。別に蔑んでいるわけではない。ただ純粋に、ここが奏多様の家なのかと確認しているだけだった。
「ここが奏多様のおうち……!」
「瑠璃様、顔が近いです。窓が曇ります」
ドアを開けようとした奏多を、瑠璃が腕を掴んで引き留めた。
「待ってくださいまし! せっかくですし、ご挨拶を……!」
「こんな時間にですか。近所迷惑という概念をご存知ですか」
「うぅ……でも……」
名残惜しそうに指を絡めてくる瑠璃。その時、階段の上から足音が響いた。
現れたのは、エプロン姿の中年女性。奏多の母親だろうか。ゴミ袋を片手にぶら下げて降りてきたところで、目の前に停まっている黒塗りのリムジンを見て固まった。
目玉が飛び出るほど見開かれた視線の先には、息子と、金髪ウェーブのとんでもない美少女と、黒服の長身の女性。状況が理解できず、持っていたゴミ袋がずるりと手から滑り落ちた。
中身が少し散らばったのも気づかないまま、母親は立ち尽くす。
奏多が気まずそうに「母さん……」と口を開きかけた、その時だった。
瑠璃が流れるような動作でリムジンから降り立った。
先ほどまでの甘えた声色は消え去り、その背筋は氷の彫刻のように凛と伸びている。彼女は優雅にスカートの端をつまみ、完璧なまでのカーテシーを披露した。
「ごきげんよう、お母様。突然の訪問、大変失礼いたしましたわ。わたくし、奏多様とお付き合いさせていただいております、天宮瑠璃と申します」
凍りつくような品格と、花が咲き乱れるような極上の微笑み。
「え、あ、え……?」
「今宵は奏多様の素晴らしい一日を祝う記念日でございましたので、ご挨拶もそこそこに押しかけてしまい、申し訳ございません。もしよろしければ、この後少しだけお時間、頂戴してもよろしいでしょうか?」
瑠璃はゴミ袋が落ちていることなど目に入っていないかのように、完璧な社交術で母親の思考回路を完全に焼き切った。
「る、瑠璃……あの、俺の母さん、びっくりしすぎて腰抜かしちゃうから、もう少し落ち着いて……」
奏多の必死のフォローなど、今の瑠璃には一切届かない。
後ろで綾部が小さく、「あーあ、案の定ですね」と深いため息をつきながら、落ちたゴミ袋を運んでいた。
奏多の母親、星野佳代子。
彼女は口をぱくぱくと開閉させていた。まるで酸素を求める金魚のように。目の前の光景が、脳の処理能力を完全に超えていた。
「あ、あ、天宮……?」
その名を知らない日本国民はほぼいない。テレビをつければCMが流れ、新聞を開けば株価欄に必ず載っている、あの天宮グループ。
「あ、あんた……奏多! あんた天宮のお嬢さんと付き合って……!?」
振り返って息子を睨む。声が裏返っていた。
「母さん、とりあえず落ち着いてくれ。状況を説明するから……」
奏多が必死に手を挙げて割って入るが、今の佳代子には息子の声など届かない。
「……」
綾部は車のボンネットに軽くもたれかかり、腕を組んでこの修羅場を観察していた。口元に薄い笑みが浮かんでいる。実に楽しそうだ。
「え、ちょっと待って、ちょっと待ってね? お母さんちょっと心の準備が……!」
エプロンで手汗を拭きながら後ずさる母親。しかし瑠璃はにっこりと微笑んだまま、令嬢のたしなみである優雅な足取りで一歩前に出た。
「お母様、どうぞご安心くださいまし。わたくし、奏多様を心からお慕いしておりますの。身分など関係ございませんわ」
その一言が母親にトドメを刺した。「身分など関係ない」。庶民感覚からすれば、あまりに非現実的なその言葉に、佳代子の感情のダムは決壊寸前だった。
「……関係あるわよ! テレビの向こうの人だもの!」
「大丈夫です、お母様。わたくし、奏多様のためなら何だって乗り越えてみせますから!」
(もうダメだ、この人たち通じ合ってない……)
奏多は頭を抱え、天を仰ぐしかなかった。




