第十八話 告白
晩餐会を後にした瑠璃と奏多は、思い出のクレープ店へ立ち寄っていた。
「なあ、瑠璃。この間の話の続きなんだけど」
夜の商店街。とっくにシャッターが下りた店が並ぶ中、あのクレープ屋だけがぽつんと灯りをともしている。店長の菅元が「お前らまた来たのか」と呆れ混じりに笑いながら焼いてくれた、チョコバナナ。
「んむ?なんれふの?」
口いっぱいにクレープを詰め込み、リスのように頬を膨らませた瑠璃が首をかしげる。月光と店の照明に照らされた金髪が、夜風にふわりと揺れた。
「……んぐっ。はぁ、美味しい。で、なんですの?この間の話ってどの話ですの?」
ベンチに並んで座る二人の距離は、肩が触れ合うほど近い。瑠璃のスカートの裾が風に持ち上がり、白いリボンがひらひらと舞った。
「俺が瑠璃のことをどう思ってるのか……その返事、まだしてなかったよな」
ぴたり、と瑠璃の動きが止まった。
クレープにかぶりつこうとしていた口が、そのまま宙で静止する。
「……へ?」
サファイアブルーの瞳が、まんまるに見開かれた。クレープが傾き、クリームが指に垂れたことにも気づいていない。
「え、あ、あの、それって……あの時の……?」
突然の大雨に打たれたあの夜、今度会った時に直接伝えると言われた、クレープ屋でのあの約束。
そして奇しくも今回もあのクレープ屋だ。
「ま、待ってくださいまし、心の準備が……」
瑠璃はクレープをそっと膝の上に置くと、両手で自身の胸を押さえた。どくどくと暴れる心臓の音が、静かな夜の空気に溶け出していく。
「わ、わたくしから先に言ってもよろしくて!? あの、わたくしは奏多様のことが大好きで……いえ、大好きなんてものじゃなくて、宇宙で一番愛しておりまして……!」
早口でまくしたてながら、ちらちらと奏多の顔を窺う。目が潤み、不安と期待がぐちゃぐちゃに混ざった表情。
奏多は不意を突かれたように目を見開き、耳まで真っ赤に染め上げた。手元のクレープの包み紙を、少しだけ力強く握りしめてしまう。
(……やられた。まさか、先手を打たれるとはな)
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。奏多は必死に照れ隠しをするように視線を夜空へ逃がすと、観念したように短く息を吐き出し、瑠璃に向き直った。
「……奏多様は? わたくしのこと……どう、思ってますの……?」
その真っ直ぐな問いかけに、奏多はもう逃げ道がないことを悟った。彼はクレープの包みを置くと、瑠璃の震える手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
奏多は、瑠璃の震える手を自分の両手でそっと包み込んだ。
自分自身の鼓動よりも、彼女の小さな掌から伝わる体温の方がずっと激しく伝わってくる。
「……瑠璃。俺も同じだ。いや、それ以上かもしれない」
奏多は一度だけ視線を落とし、迷いを飲み込むように深く息を吐いた。彼の言葉は、瑠璃の真っ直ぐな愛に対しては、あまりにも臆病で、不格好なものだった。
「俺にとって、瑠璃は守りたくて、触れたくて、どうしようもなく愛おしい存在だ。瑠璃が俺を見てくれるだけで、どれだけ救われてきたか……」
奏多は苦笑する。それは、自嘲と、どうしようもない切なさが混ざり合った笑みだった。
「でもな。……俺は、ただのしがない一般人だ。瑠璃が本来いるはずの、煌びやかで高潔な世界。……俺は自分がそこから一番遠い人間だっていうのは痛いほど分かってる」
奏多は瑠璃の指先に触れ、名残惜しそうに、けれど慎重にその手を離した。
「今すぐ『恋人になってくれ』なんて言えるほど、俺は傲慢になれない。……そんな言葉で、瑠璃の未来を狭めてしまうのが怖いんだ」
瑠璃が息を呑むのが分かった。
「好きだ、瑠璃。」
奏多は彼女の瞳を見つめ、願いを込めて言葉を紡ぐ。
「だから今は、この『好きだ』という言葉だけで許してほしい。……瑠璃を想っている俺を今はただ側に置いてもらえないかな?」
それは告白でありながら、同時に奏多が自分自身に課した「境界線」だった。瑠璃を愛しているからこそ、まだその先の約束を口にできない。
そんな、奏多らしい不器用な誠実さが、夜の空気に静かに溶け込んでいった。
夜のクレープ屋の前。街灯のオレンジ色の光が、ベンチに座る二人の影を長く引き伸ばしていた。
奏多の言葉のあと、瑠璃は動かなかった。「好きだ」と言われたのに、その先には踏み込まない奏多の境界線。その意味を、十七歳の少女なりに必死に咀嚼していた。
「……ばか」
ぽつり、と一言。震えた声だった。
「……ばかですわ、奏多様」
瑠璃は持っていたクレープを、ベンチに叩きつけるように置いた。べちゃり、と無残な音を立ててソースが広がる。
もったいない――そんなことなど、今の瑠璃にはどうでもよかった。
「煌びやかな世界? 高潔な世界? そんなもの、わたくしがいつ望みましたの!?」
声が裏返る。瑠璃は立ち上がり、座り込んだままの奏多を見下ろした。
「犬カフェでくしゃくしゃになって笑ってる時が一番幸せだって、何度言えば分かりますの!? 奏多様は遠い場所いるですって? じゃあ、わたくしがそっちに行けばいいだけの話でしょう!?」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。今度は喜びではなく、自分の想いが届かないことへの怒りの涙だった。
「『側に置いてもらえないかな』って……それ、お願いするのはわたくしのセリフですのよ……! わたくしから離れないでって、毎日毎日、叫びたいくらいなのに……!」
ぐしっ、と袖で乱暴に涙を拭う。それでも瞳の光は少しも曇っていない。瑠璃は奏多の目の前でしゃがみこみ、ずいっと顔を寄せた。鼻先が触れそうなほどの距離。
「……『好き』だけで許してほしい? 許しませんわ。そんなの全然足りません」
瑠璃は潤んだ瞳で、奏多の逃げ場を塞ぐように強く言い放つ。
「良いですわ!今すぐ言えないなら、言えるようになるまで待ちますわ。一年でも十年でも。でも……『ただの好き』で終わらせるつもりなら、わたくし、絶対に許さないですわよ……?」
奏多は深い溜息と共に肩の力を抜いた。
「……参ったな。瑠璃には、一生勝てそうにない」
張り詰めていた自意識が、瑠璃の真っ直ぐな言葉に溶かされていく。
「……瑠璃の言う通りだ。臆病だったのは俺の方だったな。瑠璃が望む幸せを、勝手に俺の物差しで制限してた」
奏多は瑠璃の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返し、震える手で彼女の頬を優しく撫でた。
「……一年でも十年でも待ってくれるなら、その間のすべてを、俺に預けてくれないか」
彼は一度言葉を切り、喉の奥で高鳴る鼓動を抑えるように小さく息を継ぐ。
「瑠璃の隣に立つ資格……死ぬ気で、手に入れてみせるから」
夜風がふわりと吹き抜けた。街灯の光が瑠璃の金髪を黄金色に染め上げ、涙で濡れた頬に細い髪が張り付く。
けれど、彼女の表情に先ほどまでの怒りはなかった。そこに浮かんでいたのは、冬の雪解けを告げるような、満開の花の笑顔だった。
「……っ!」
瑠璃は返事を待つことすらせず、弾かれたように顔を輝かせた。
「はいっ! ……はいっ、はいっ!」
何度も何度も頷く。その勢いは止まらない。
「全部、全部預けますわ! 今この瞬間から、わたくしのすべては奏多様のものですの!」
がばっ、という効果音が聞こえそうなほど、瑠璃はベンチから飛び上がった。
彼女の細い体が、奏多の胸板に全力で突き刺さる。抱きつかれた衝撃に、奏多の背中がベンチの背板に押し付けられた。瑠璃は顔を奏多の胸にぐりぐりと押し付け、服に涙を染み込ませていく。
「えへへ……えへへへへ……」
泣きながら、笑っている。感情が混濁した、ひどく忙しい表情だ。
「死ぬ気で手に入れるって……もう、そんなこと言われたら……好きが止まらないですわ……」
ぎゅう、と腕に力がこもる。華奢なはずの彼女の腕が、奏多の背中に回って離すまいと必死に締め付けていた。その体温は、冷えた深夜の空気に反してひどく熱い。
やがて、瑠璃はゆっくりと顔を上げた。
サファイアブルーの瞳が、涙と月明かりで濡れ、潤んでいる。彼女は至近距離から、逃げ場のない視線で奏多を捉えた。
「……ねぇ、奏多様」
上目遣いに、甘い声が洩れる。
「さっき……『触れたくてどうしようもなく愛おしい』って、仰いましたわよね?」
瑠璃はいたずらっぽく、それでいて情熱的ににっこりと微笑んだ。
「……触れて、いいんですのよ? 今なら、誰も見てませんし……」
その時だった。
しんと静まり返った夜の商店街に、不釣り合いな重低音が響き渡る。路地の向こうから、漆黒のリムジンが音もなく滑り込んできた。
「……あー」
奏多の背中に冷や汗が流れる。
停車したリムジンの運転席の窓が、ゆっくりと下がった。そこには、表情を極限まで消した綾部が座っている。
「……お迎えに上がりましたが」
綾部は二人の密着した姿を一瞥すると、何の感情も読めない声で言い放った。
「タイミングが最悪でしたね。……申し訳ありません。どうぞ、続けてください」
静寂が戻る。
「……続けてください、じゃありませんわ!」
瑠璃が顔を真っ赤にして叫ぶ。奏多もまた、不意を突かれた動揺を隠すように、乱暴に髪を掻き上げた。
「……あの、綾部さん。いつからそこにいたんですか」
奏多の問いかけに、綾部は淡々と眼鏡の位置を直す。
「エンジン音を消して、こちらの角で待機しておりました。……おかげで、お二人が『すべてを預ける』だの、『触れていい』だのといった、非常に興味深いやり取りを拝聴することができましたが」
「っ……!」
瑠璃の顔が限界まで赤く染まる。奏多は「拝聴」という言葉の破壊力に、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……そ、それは、あまりに趣味が悪いのでは……」
「いいえ。執事として、お嬢様の感情の起伏を把握しておくのは義務ですので。……して、奏多様」
綾部はスッと奏多の懐へ踏み込むようにして、逃げ場のない問いを投げかけた。
「私が到着した際、お嬢様は『触れていい』と仰っていましたね。……奏多様は、そのご提案にどう応えるおつもりだったのですか?」
「そ、それは……っ、そんなこと、答えられるわけないでしょう!」
奏多の顔が、瑠璃に負けないほど真っ赤に染まる。いつもは強気な奏多が、綾部の冷徹な追及の前にしどろもどろになっている。
「まさか、私が空気を読まずに現れなければ、この公道でそのまま続きを……?」
「ち、違います! そういうわけじゃ……!」
綾部は涼しい顔で、その動揺を柳に風と受け流す。
「はぁ。……おふたりとも、息が合っていますね。それでは、お乗りください。奏多様もご自宅までお送り致します。夜風が冷えて参りました」
「……綾部さん冗談がすぎます」
「……もう、雰囲気台無しですわ!」
瑠璃はくーっと悔しげに唇を噛み、奏多は完全に調子を狂わされたまま、リムジンのドアをエスコートする。
「奏多様、お顔が真っ赤ですよ。……お嬢様の熱が伝染しましたか?」
「……う、うるさいです。黙って運転してください」
奏多の弱々しい反抗を、綾部は珍しく微笑みながら聞き流し、静かに車を走り去らせた。




