第十七話 晩餐会 完
会場へと続く大扉の前。重厚な扉の向こうからは、既に華やかな管弦楽の調べと、無数の社交辞令が混ざり合った、この世の贅を煮詰めたようなざわめきが漏れ聞こえてくる。
「……怖いか、瑠璃?」
奏多がふと足を止め、隣を歩く瑠璃に問いかけた。
瑠璃の白い指先は、奏多のパーカーの袖を白くなるほど強く握りしめている。その小さな震えが、袖を通じて奏多の腕に伝わっていた。
「……わかっていますわ。わたくしが、今日という日のために、どれだけのことを決意してきたか。けれど……」
瑠璃は言葉を切り、扉を見上げた。その瞳には、これから待ち受ける運命への恐怖と、かつて自分を縛り付けていた鎖への忌避感が色濃く混ざり合っている。
「……いざ扉の向こうに行けば、わたくしはまた、あの方たちの都合の良い『お飾り』に戻ってしまう気がして。わたくしの意志なんて、あの華やかな空間の前では消し飛んでしまうのではないかと……」
彼女にとって、この扉は自分の意志を奪われる場所への入り口に他ならなかった。瑠璃が弱々しくうつむいたその時、奏多が彼女の前に立ち塞がるようにして歩みを止めた。
「顔を上げろ、瑠璃」
声は低く、けれど温かかった。奏多は彼女の両肩に手を置き、パーカーの袖から手を離させて、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「瑠璃が今、その扉を開けるのは、誰かに従うためじゃない。……もし、また誰かに何か言われたら、俺が必ず、瑠璃の手を引いて笑い飛ばしてやる」
「……奏多様……」
「俺たちは、怖がることなんて何一つない。俺が傍にいる。綾部も、裏で最高の舞台を用意して待っているはずだ。俺たちは一人じゃない」
奏多のその揺るぎない言葉が、瑠璃の中でくすぶっていた不安を少しずつ溶かしていく。彼女は奏多の手の温もりに触れ、深く、ゆっくりと息を吐き出した。冷え切っていた瑠璃の指先に、じわりと血の通う感覚が戻ってくる。
その表情からは次第に怯えが消え、代わりに、これまでにないほど強く、美しい意志が灯り始めた。彼女は奏多のパーカーを掴んでいた手を離し、代わりに向かい合う奏多の両手を、力強く握り返した。
「……そうですね。わたくし、お飾りになるためにここにいるのではありませんわね」
瑠璃が小さく、しかし確かな自信を込めて微笑んだ。その顔には、怯えはなく、天宮の令嬢としての凛とした気品と、一人の人間としての覚悟が宿っている。
「行きますわ……!」
「ああ。行こう」
奏多が合図すると、会場の係員が恭しく大扉に手をかけた。静かに、しかし重々しい音を立てて扉が開き始める。
会場の天井には巨大なシャンデリアが輝き、重厚なクラシック音楽が、この場の厳格な階級社会を象徴するかのように鳴り響いている。招待客は誰もが最高級の正装を纏い、仮面のような笑顔で社交辞令を交わしていた。
その華やかな空間において、奏多の姿はあまりに異質だった。犬カフェの帰りそのままの、毛玉のついたパーカーに、泥のついたスニーカー。
「……信じられん。なぜ、あのような浮浪者がこの会場に?」
「……いえ、天宮の恥だわ。どこの警備が入り込ませたのかしら」
「……あ、見て。あれが噂の男よ。今度は瑠璃さんの靴を汚さないかヒヤヒヤするわ」
「本当に。あんな掃き溜めから来たような格好で、何を考えているのかしら」
周囲からの冷笑と毒を含んだ囁きが、針のように突き刺さる。瑠璃は奏多の腕にしがみついていた。彼女の肩は目に見えて震えている。
奏多と瑠璃は、会場に並ぶ豪奢な料理の前にいた。テーブルに運ばれる品々はどれも目を見張るほど美しいが、奏多にそれを味わう余裕など微塵もない。
「……周囲の視線が、痛いな」
奏多は小声でこぼし、努めて綺麗に食べようとフォークを操る。しかし、周囲の特権階級の住人たちから見れば、その動作はぎこちなく、ナイフの扱いも不慣れそのものだった。彼らの冷ややかな視線が、奏多の無知を逐一値踏みしているのが肌で分かる。
それを見るたび、隣に立つ瑠璃への申し訳なさが胸を刺した。
だが、視線を横に流した瞬間、奏多は言葉を失った。
瑠璃は、ただそこにいるだけで気高かった。グラスを傾ける指先の角度、ナプキンを拭う所作、微かな首の傾げ方ひとつとっても、一切の無駄がない。
洗練された令嬢の所作は、まるで完成された絵画のようで、周囲の喧騒すら彼女の背景に変えてしまうほどの美しさがあった。
(……すげえな。……いつもの瑠璃を見ていたら忘れそうになるけど、やっぱ本物の令嬢なんだな)
奏多は内心で溜息をつく。これほど美しい女性を隣に連れ歩きながら、自分は無知な男を演じ、白い目で見させている。
だが、今はまだその申し訳なさを押し殺す時だ。
(笑わせておけばいい。今はただの道化になりきる。)
奏多は心の中で静かに牙を研ぎ、フォークを置いた。周囲の嘲笑を糧に、連中が自滅する瞬間をただじっと待ちわびていた。
そこへ、取り巻きの候補者(東条、皇、神楽、桐生)たちが面白半分に奏多の周り集まってきた。
(ついに来たか……)
東条が、わざとらしくぶつかりざまに、奏多の足元に赤ワインを溢した。
「おっと、すまない。床が汚れるのも嫌だが、そのスニーカーが汚れるのは……まあ、どうでもいいか。そもそも汚れきっているようだしな」
皇は瑠璃の方を向き、憐れむような目で見下ろす。
「瑠璃、君は優しいからね。道端で拾った野良犬を放っておけないんだろう。でも、ここは晩餐会だ。ペットは外に繋いでおくのが礼儀だよ」
神楽は品定めするように奏多のパーカーの袖を指先でつまみ上げた。
「化繊の安っぽい匂いがする。……ねえ、君。この会場の空気、君のせいで淀んでいるんだけど、気づいてる? 早く帰った方が、君の身のためだよ。惨めな思いをするのは、もう十分だろう?」
最後は桐生だ。彼は奏多の隣に立ち、瑠璃に向かって囁くように言った。
「瑠璃、そんな男に何を期待してるんだ? 彼は君を『天宮』という肩書きから解放してくれるんじゃない。ただ、君にこの男と同じ『底辺』の泥がつくだけだ。やめておけ」
奏多は、冷ややかな視線を一手に浴びながらも、瑠璃を守るようにただ静かに立っていた。そこへ、氷室がワイングラスを片手に優雅に歩み寄ってくる。彼は奏多をゴミでも見るような目で一瞥し、溜息をついた。
「……瑠璃、いい加減にしたらどうだ。その醜態を晒すのは、お前自身だぞ」
氷室の氷のような視線が、奏多の服装へ、そして彼の立ち居振る舞いへと向けられる。
「フォークの持ち方一つ知らなさそうな。……ああ、失礼。この男には、ナイフとフォークを使う機会など、人生で一度もなかったのかもしれないな。そんな礼儀作法も知らない貧乏人と仲良くするなんて、バカか?」
周囲の有力者たちが追従するように、クスクスと笑い声を漏らす。
「天宮の令嬢という立場を弁えろ。お前がそんな『玩具』を連れ歩くことは、我々全員に対する侮辱だ。……見ていて耐えられん」
氷室はわざとらしく瑠璃の横を通り過ぎる際、奏多のパーカーの肩を強引に突き飛ばした。バランスを崩した奏多を見て、会場の特権階級の住人たちは声を上げて嘲笑う。
瑠璃の顔から血の気が引いていく。
「……奏多様は、玩具じゃありません。わたくしを……わたくしとして扱ってくださる、唯一の方ですわ!あなたたちには分からないでしょうけれど……っ!」
「幻想に浸るな」
氷室が瑠璃の腕を強く掴んだ。
「…っっきゃ!」
瑠璃が小さく悲鳴を上げる。氷室は瑠璃を奏多から引き離し、無理やり自分の隣へ立たせようとする。
瑠璃が拒絶してよろけると、周囲からは「なんて無様な」「躾がなっていない」という罵声が飛ぶ。
瑠璃が屈辱に耐えかねて、瞳に涙を溜めて俯いた。
すると奏多は、氷室に掴まれた瑠璃の腕をゆっくりと、しかし確実な力で引き剥がした。氷室の余裕に満ちた顔に、初めて動揺の色が浮かぶ。
その瞬間、会場の空気が一変した。奏多の表情から、一切の感情が消えた。それは冷たい静寂だった。
(頃合いかな……もうこれ以上『道化』になって付き合ってやる必要もない。反撃開始だ)
奏多は瑠璃を連れて歩き出すと晩餐会の壇上のマイクを手に取ってゆっくりと会場の皆様少しお付き合い下さい。と前置いて話し始める。
「……氷室、あんたは彼女を高く評価しているようだな。血筋、家柄、天宮という看板……。でも、一番肝心なことを知らない」
奏多の低い声が、静まり返った会場に響いた。
「……彼女が一番好きな花は何だ? 悲しい時、どんな風に笑う? 誰にも言えないどんな夢を持っている?」
氷室が鼻で笑う。「そんな下世話な……」
「あんたたちは、価値ある『モノ』の鑑定には詳しいが、隣にいる『人間』のこととなると全く無知だ。……俺は、彼女のそんな些細な欠片をいくつも知っている。あんたたちには、到底見えないものばかりをね」
奏多は、侮蔑の視線を向けていた招待客たちを見回し、呆れたように肩をすくめた。
「素晴らしい晩餐会だ。最高級のワインに、選ばれた特権階級の者たち……だが、どれだけ飾り付けても隠せないものがあるぞ。……あんたたちが必死に守ろうとしているその『格』とやらよりも、彼女が俺と笑い合っている時間の方が、よほど高潔で美しいということ」
会場の視線が奏多に集中する、しかし毅然とした態度で奏多は続ける。
「価値を決めるのはあんたたちじゃない。……彼女自身が、どこで一番自分らしくいられるか。それだけだろ?」
そこまで言い切ると奏多は手を会場のスクリーンに向けて指を指す。
その瞬間カチリ、と硬質な音が会場に響く。綾部が会場のメインモニターを遠隔操作した合図だ。
「いい機会だ。せっかくこれだけの紳士淑女が揃っているんだ。……瑠璃、俺がなによりも大切にしている思い出を、ここで見せてもいいか?」
巨大スクリーンに次々と映し出されるのは、豪奢な晩餐会とは無縁の、あまりに温かな日常だった。ゲーセンでの無邪気な笑顔、プリクラの落書き、ファミレスでポテトを分け合う手元、犬カフェで動物たちに囲まれる瑠璃の素顔。
その中にはあのSNSで奏多と瑠璃がバズった動画の『一般人がヤクザに啖呵を切る』も映し出された時は流石に会場がどよめいた。
その後も延々と続く本物の笑顔が映し出される暖かなスライドショー。
「あんたたちがいくら金で彼女の未来を買い取ろうとしても、その思い出だけは絶対に買えない。……さて、俺たちの知らない彼女の素顔を、あんたたちの中で誰か一人でも答えられる奴はいるか?」
奏多は氷室と、呆然とスクリーンを見上げる社交界の重鎮たちを見据えた。その瞳は冷たく、かつてないほどに力強い。
「……言葉の数じゃない。あんたたちは彼女を『所有』したかっただけだ。だが俺は、彼女を『解放』したかった。……理解の深さなんて、比べるまでもないだろ?」
奏多の最後の言葉が消えた瞬間、会場を支配していたのは、重苦しくも静謐な沈黙だった。
氷室たちは、自分たちの足元が崩れ去る音を聞いたかのように立ち尽くしている。
その静寂を切り裂くように、瑠璃が小さく手を動かした。彼女は瞳に涙を溜め、あふれ出さないように懸命に堪えながら、震える手でゆっくりと、もう片方の手に拍手を重ねた。
パチ……パチ……。
それは決して大きくはない。しかし、今の会場においては、何よりも重い音だった。
その純粋で、ただ奏多という存在を称えるための拍手。それを見た会場の最前列にいた格式高い名門の当主達もゆっくりと立ち上がり、深く頷きながら拍手に加わった。
「あの映像を見た後じゃ、何も言えないな……」
「これが、本当の『価値』か……」
「天宮の令嬢が選んだ道……胸を打たれる」
「愛があるのは、どちら側かは明白だ」
「……彼らを見ていたら、涙が出てきたよ」
「格など無意味だ。あの二人は誰よりも自由だ」
「金で買えるものなんて、たかが知れている」
「……笑えないな。自分たちの惨めさが分かったよ」
「空っぽなのは、私たちの方だったか」
「……やるじゃないか、あの男!」
「拍手をしろ。彼らに相応しいのは称賛だ」
「時代が変わる音がする……」
「誰がなんと言おうと、私はあの二人を支持する」
「見事な反撃だ。痛快だな」
「そうだ、拍手を送れ。これが真実だ!」
「なんて清々しい顔だ……あんな表情、見たことがない」
「彼女は、もう誰の指図も受けないのだな」
「誇り高い姿だ。天宮の姫というより、一人の女性として美しい」
「彼女の選択に、異論などない」
次々と聞こえてくる言葉が、会場の空気を一変させた。
招待客たちが、次々と氷室たちの顔色を伺うのをやめ、心からの拍手を送る。それは、氷室たちの権威に対する同調ではなく、自身を貫いた二人の「選択」に対する敬意の嵐だった。
瑠璃は、目からこぼれ落ちそうになる涙を、奏多に悟られまいと必死に堪えながら、彼を見上げた。その瞳には、今まで見たこともないような、どこまでも澄んだ光が宿っている。
「……瑠璃、行くぞ」
奏多は拍手の雨にも、氷室たちの死んだ魚のような瞳にも目もくれず、ただ柔らかな笑顔で瑠璃の手を引いた。
パーカーの袖が風に揺れる。
会場を彩るどんなに高価な正装を纏った者たちよりも、犬カフェ帰りのラフな服装で笑うこの男の姿に、瑠璃は気高い誇りを感じていた。
(……誰が何と言おうと、わたくしにとっては、彼こそが一番の紳士なのですわ!)
「はい……どこへでも」
瑠璃は奏多の手を強く握り返し、一切の迷いなく大扉へと歩き出す。
背後で、かつての自分を縛り付けていたはずの「晩餐会」の喧騒が、泡のように溶けて遠ざかっていく。
会場を出ると、夜の冷たい空気が二人を優しく包み込んだ。
奏多は綾部に手配して待たせていたタクシーへと瑠璃をエスコートする。
「さて、次はどこへ行こう。……腹減ってない?」
奏多がふと笑うと、瑠璃は堪えていた涙を一つだけこぼし、それを手で拭って、とびきり晴れやかな笑顔を見せた。
「……ええ。奏多様と一緒ならファミレスのポテトでも、コンビニのカップ麺でもアイスでも……例え焼きそばパン一つだって、今のわたくしには、世界で一番贅沢な晩餐に思えますわ」
「はは、じゃあ、全部付き合ってやるよ。今日は贅沢しよう」
二人は煌びやかな屋敷を背に、闇の中へと消えていく。
満天の星空の下、二人は互いの手の温もりだけを道標に、自分たちだけの物語の続きを歩み始めた。




