第十六話 晩餐会3
「……綾部さんも、ずっと悔しかったはずです。命令に、どうしても従うしかなかったことに」
奏多の声には、一点の曇りもなかった。それは綾部の十年という歳月を、深い敬意を持って受け止める響きだった。
「なら、今回は俺という『カード』を使ってください。瑠璃を自由にする。……あなたの十年という歳月もここで一緒に報わせましょう。最高の晩餐会にします。三人で力を合わせて」
その声から漂う絶対的な自信に、電話を挟んだ二人の女性が同時に反応した。
「さ、最高の晩餐会……! 奏多様と綾部とわたくしの三人で……!」
目をきらきらと輝かせ、布団の上で正座をする瑠璃。さっきまでの湿っぽい空気など、もうどこにも残っていない。彼女は今、奏多という希望を全身で受け止めていた。
「……あなた、正気ですか」
対照的に、綾部は眉間を指で押さえ、やれやれと溜息をついた。だが、その口元は微かに緩んでいる。長年、冷徹な仮面の下に押し殺してきた情熱が、奏多の言葉によってようやく顔を出したのだ。
「相手は氷室を筆頭に、東条、皇、神楽、桐生。全員が年商数千億を動かす名家の跡取りです。対してこちらは一般人の大学生が一人と、ポンコツお嬢様と、毒舌執事。……戦力差が酷すぎて笑えてきますね」
「ポンコツって言いましたわね今!?」
「事実です」
ぎゃんと噛みつく瑠璃を片手で軽くいなしながら、綾部はゆっくりと立ち上がった。窓際まで歩き、夜景を背に振り返る。
その姿は、先ほどまでの気だるげな姿ではない。獲物を見定めた猟犬のような、冷たく研ぎ澄まされた瞳が暗闇に光る。
「……ですが、面白い。正攻法で勝てないなら、盤外戦術しかない。奏多様、一つ確認させてください」
綾部が、獲物を狩るための静かな宣告を放つ。
「あなたは瑠璃様のために『道化』になる覚悟はありますか?」
迷わず奏多は答えた
「俺はあの時、逃げないと言った。なんでもするつもりです。」
「いい返事ですね」
綾部がデスクの引き出しからタブレットを取り出す。画面にはすでに複数の資料が整然と並んでいた。この女は最初からこうなることを予測し、用意周到に準備をしていたのだ。
「まず前提を共有します。候補者五名の弱点は把握していますが、今回はそれを使えません。潰し合いに持ち込めば、間違いなく瑠璃様が巻き込まれる」
タップ、タップ。
スライドして表示されたのは、五人の傲慢な顔写真と詳細なプロフィール。綾部はそれを見下ろすように鼻で笑った。
「なので発想を変えます。堂島が用意した『フォーマルな服装』というルール……あれ、逆手に取れます」
「ぎゃくにですわね!」
「瑠璃様は黙っていてください。……奏多様、あなたは当日、わざとラフな格好で来てください」
瑠璃が「えっ」と声を上げかけたが、綾部が鋭い視線を投げかけると、反射的に口を閉ざした。
「堂島はあなたに恥をかかせたいはずです。なら、その恥の方向性を我々でコントロールしてやればいい。……ただし、ただのラフではダメです。彼らが想定する『無知な場違いの庶民』ではなく、もっと斜め上の……」
綾部の表情には、長年の鬱憤を晴らすために振り切れたような清々しさがあった。
「彼らの土俵を根底からひっくり返す『何か』が必要です。……奏多様、何か心当たりは?」
少し間をあけて奏多は一言。
「一つ考えがあります。」
それから晩餐会までの数日間は、綾部と瑠璃に色々と手を回してもらう為に連絡を取り合っていた。
そして、晩餐会前夜に最後の作戦会議の日、綾部と奏多は会議室で打ち合わせを行なっていた。
綾部がタブレットを閉じ、奏多を見つめる。その瞳には、かつてない期待が宿っていた。
重いカーテンが閉め切られた部屋には、タブレット端末が発する冷ややかな青白い光だけが浮かんでいた。
机の上には、晩餐会会場となる天宮家の本邸の広大な見取り図と、招待客の膨大な個人データが乱雑に散らばっている。
「これが晩餐会という舞台を、相手の底の浅さを暴く品評会へと変貌させる。俺の考えた最高のシナリオです。綾部さん、協力してください」
奏多の声は、この夜の静寂を切り裂くように滑らかだった。迷いなど微塵もない。まるで、これから始まる壮大な舞台を脳内で完成させている演出家のように、自信に満ちた瞳で夜景を見下ろしていた。
綾部がタブレットを閉じ、奏多を真っ直ぐに見つめる。その鋭い瞳には、これまで奏多に向けてきたそれとは違う、かつてない期待と熱が静かに宿っていた。
「……その服装で乗り込むつもりですか。完全に、周囲の反感を買うための格好ですね」
綾部が皮肉っぽく口元を歪める。しかし、その声には、奏多の無謀さをむしろ楽しんでいるような響きがあった。
「ええ。最高でしょう。あの特権階級の連中達を俺のこの無防備な格好で笑い飛ばしてやりますよ」
「……そうですね。では、私はその『笑い』が会場中に響き渡るよう、裏で準備を整えておきます。……奏多様、せいぜい彼らの鼻を明かして差し上げてください」
綾部は無駄のない所作で立ち上がり、いくつかのファイルを奏多の前に滑らせた。紙が擦れる乾いた音が、部屋の静けさを強調する。
そこには、候補者五人が今までひた隠しにしてきた、社会的な破滅を招きかねない「綻び」の数々が記されていた。
綾部が窓際に歩み寄り、カーテンをわずかに開く。外では冷たい夜風が吹き荒れているが、彼女の表情は不思議なほど穏やかだった。
「奏多様、一つだけ。彼らは全員、プライドだけは異常に高い。あなたが『道化』を演じれば演じるほど、彼らは自身の優越感に溺れ、自分たちの醜い部分を自ら晒すことになるでしょう」
「ええ、分かっています。彼らが俺や瑠璃に向けた視線そのものが、そのまま彼らの首を絞めるロープになる」
奏多は資料を手に取った。その横顔は、学生のそれではなく、獲物を追い詰める捕食者のように研ぎ澄まされている。
「当日、瑠璃には少し怖い思いをさせるかもしれない。……でも、終わった後、瑠璃が笑っていられる未来だけは絶対に保証しますよ」
「……私もです」
綾部は深々と頭を下げた。それは天宮家の執事としてではなく、一人の共犯者として奏多に捧げた敬意だった。
「この十年、私はこの邸の中で息を潜めてきました。ですが、やっと……堂々と呼吸ができる日が来そうです。」
「最高の晩餐会になります。きっと……」
二人の視線が交差する。その瞬間、夜の静寂の中に、これから始まる波乱の予感が静かに満ちていく。
氷室たちがどれだけ金を積んでも決して手に入らない、奏多と綾部の二人で作った勝利の設計図。それは、どんなに強大な権力も、人間の心の自由までは支配できないという証明書でもあった。
作戦会議を終えた翌日の昼下がり。屋敷の廊下で、綾部は一人たたずむ瑠璃を見つけた。晩餐会の時間までもうすぐだ。
瑠璃は時間と共に押し寄せる不安を抱きながら、庭の景色をぼんやりと眺めている。綾部は静かに歩み寄ると、一礼してから穏やかな声で語りかけた。
「瑠璃様、本日の晩餐会について……奏多様から、瑠璃様を必ず自由にするという伝言を預かっております」
瑠璃が弾かれたように振り返る。その瞳が、不安で揺れ動く。
「綾部……いったいどうなさるのですか? 奏多様は一体、何をしようとしているのか……」
綾部はふっと微笑んだ。彼女は瑠璃の腹芸ができない純粋さをよく知っている。ここで複雑な計画を伝えてしまえば、瑠璃の動揺が氷室たちに隙を見せてしまうだろう。
「……詳細を申し上げれば、瑠璃様を無用な緊張に晒すことになります。ですので、作戦の全貌は伏せさせていただきます。ただ、一つだけ申し上げられるのは、奏多様は瑠璃様の心を守るためなら、どんな火の中にも飛び込める方だということです。瑠璃様は、ただ奏多様を信じて、彼に身を任せていればそれで良いのです」
綾部の言葉は、瑠璃にとって何よりも強い薬となった。
「わたくしは奏多様を……信じて、任せる。……それだけで、よろしいのですわね?」
「ええ。彼を信じ抜くこと。それが、瑠璃様にしかできない唯一にして最強の作戦です」
瑠璃は深く頷いた。彼女の表情から不安が消え、奏多を想う真っ直ぐな瞳だけが残る。彼女は、奏多の作戦がどれだけ危険で、どれだけ奇抜なものかなど知る由もない。
ただ、「彼がそう決めたのなら、きっと大丈夫」と、根拠のない、しかし揺るぎない信頼を奏多に預けたのだ。
その様子を、物陰から見ていた奏多の胸に、熱いものが込み上げた。
(あいつ、何も聞かずに俺を信じてくれている……)
作戦の細部までを計算し、打算と罠を張り巡らせていた奏多にとって、瑠璃のその無垢な信頼は、何よりも眩しく、愛おしいものだった。彼女が自分を信じてくれるというその事実だけで、奏多の中にある迷いは全て霧散した。
奏多は拳を強く握りしめ、覚悟を固めた。
瑠璃が預けてくれた「心」という名の希望に応えるためにも。
奏多は静かに瑠璃の前に現れた。
「瑠璃、そろそろ会場に行こっか」
物陰から犬カフェに行った時の服装で笑いながら奏多は現れると
一瞬、その服装に面食らったが奏多を信頼して瑠璃は何も言わなかった。
そっと奏多は瑠璃の手を取り歩き出す。




