第十五話 晩餐会2
その頃、奏多は決心していた。
俺がスーツを身に纏って、慣れないフォークとナイフを扱って、彼らと同じ土俵で競う必要なんてない。俺がやるべきことは一つ。瑠璃のその晩餐会を『楽しい思い出』に変えてやることだけ
自室のベッドに腰掛けた奏多は、天井をじっと見つめていた。部屋には安いパイプベッドと小さなデスク、壁には何も飾られていない。金も家柄もない、ごく普通の大学生の部屋だ。
しかし、その目には迷いがなかった。
「フォーマル」という指定は、堂島が仕掛けた罠だ。慣れないマナーで恥をかかせる、候補者たちに嘲笑される姿を瑠璃に見せ、幻滅させる。又は俺のメンタルを潰す。そういう筋書きなのだろう。
だが、奏多は知っている。昨日の犬カフェで瑠璃が何に笑い、何に心から喜んだのか。ゴールデンレトリバーに顔を舐められて目を白黒させたこと、ダックスに頭を占領されて困ったように笑ったこと。そして、クレープのクリームを鼻につけたまま屈託なく笑ったこと。
あの笑顔を引き出せるのは、高級スーツでもダイヤのネックレスでもない。
奏多はスマホを開き、連絡先をスクロールした。監視役だと言われた綾部の名で指が止まる。彼女はいつも、二人を見守るような目をしていた。あれは本当に、単なる監視だったのか。
(いや、違う。今、俺が頼るべき相手は……)
奏多の視線は、瑠璃の名前の上で止まった。
内密にするよう釘を刺されていたが、このまま独りで戦うつもりはない。堂島が「隠せ」と命じたということは、瑠璃が知れば何かを変えられる可能性があるということだ。
時刻は午後十一時。普通の高校生ならもう寝ている時間だが、奏多は迷わず瑠璃の番号に発信した。
コール音が三回、四回。さすがに寝ているかと思った五回目で繋がった。
「奏多様ぁ!?」
完全に起きていた。しかもこの反応速度、おそらくスマホを握りしめていたに違いない。
「えへへ、こんな時間にお電話なんて……もしかしてわたくしのこと考えて眠れなくなりましたの? それとも夜のデートのお誘い? ヘリで迎えに行きましょうか!?」
いつも通り矢継ぎ早にまくし立てる瑠璃。背景からは何やらガサゴソと音がする。おそらくベッドの上で転がり回っているのだろう。だが、奏多が口を開いた瞬間、その空気が変わった。
「瑠璃、夜遅くに悪いな。今日の話の続きは、必ず会ってするつもりだ。……だけどその前に片付けないといけない問題ができた。瑠璃に伝えておかなきゃならない大事なことがあるんだ」
「大事な……話?」
奏多はそのまま落ち着いて話を続ける。
「ああ。実は今日、堂島と名乗る執事統括から連絡があった。来週の晩餐会に、俺を招待したいそうだよ。……瑠璃には内緒にするよう釘を刺されていたが、俺は、瑠璃との間に隠し事はしたくないんだ」
受話器の向こうで、瑠璃が息を呑む気配がした。
「……晩餐会……」
さっき綾部から聞いたばかりの話題。瑠璃が一瞬で静まり返った。
「……堂島に、言われましたの?」
声のトーンが下がっている。甘えた響きが消え、代わりに冷たい硬さが滲んでいた。
「わたくし、あの晩餐会……大嫌いですの。毎回同じですわ。知らない男の人たちがずらっと並んで、わたくしを見て品定めをして。お父様は『将来のためだ』って言うだけで……」
布団をぎゅっと握りしめる、布の擦れる音が聞こえる。
「しかも今回、候補の方が五人もいらっしゃるって……。綾部が言うには、全員わたくしと婚姻を結ぶ気満々だとか……」
瑠璃は一呼吸おいて、震える声で尋ねた。
「……綾部に聞きましたわ。…奏多様も、本当にそこに来るんですの?」
瑠璃の不安が伝わってくる。奏多はスマホを握りしめ、まるで目の前にいる彼女の肩を抱くように、力強く答えた。
「ああ、行くよ。俺が瑠璃の側にいる事が『相応しくない』と証明するためのテストらしいが……あいつらのシナリオ通りにはさせない。俺は瑠璃の友人として、堂々とその場に立ってみせる。……だから、お願いだ。その時は、俺の隣にいてくれないか?」
電話越しに、息が止まるような気配がした。
「……え」
数秒間の完全な静寂。そして。
「奏多様の、隣にわたくし……?」
瑠璃が布団から跳ね起きたのだろう。がたん、と何かが倒れる音がした。おそらくベッドサイドのテーブルだ。
「います! いますわ! いますとも! 当たり前ですのよ!!」
さっきまでの沈んだ声はどこへやら、瑠璃の声は一瞬でフルボリュームに復活した。
「わたくしが奏多様のお隣から離れるわけないじゃありませんの! むしろ腕にしがみついて……いえ、抱きついて、一歩も離れませんわ!」
だがふと、彼女の声が小さく、湿り気を帯びたものになった。
「……でも、本当に大丈夫ですの? あの人たちは本当に怖いですわよ。……あの、候補者の中にね、氷室財閥の御曹司がいらっしゃるんですの」
氷室。国内最大手の製薬会社を傘下に持つ、天宮グループに匹敵する巨大な名家だ。
「氷室様は……。とても冷たくて、意地悪で。わたくしのこと、心のない『商品』のようにしか見ていなくて……。でもお父様も、その方との縁談を一番推しているみたいで……」
瑠璃が心細そうに呟いた。
「もし晩餐会で、わたくしが氷室様に決められてしまったら……奏多様と、もう会えなくなってしまうの……?」
迷いのない声で奏多は答え始めた。
「……瑠璃は誰かの持ち物じゃない」
それはただの強がりではなく、瑠璃という一人の人間に対する純粋な思いだった。
「あいつらは、瑠璃をどう扱うかばかり考えているようだけど、俺は違う。瑠璃に必要なのは、誰かに決められた未来じゃなく、自分で選んだ明日だろ」
奏多は一度言葉を切り、喉の奥で高鳴る鼓動を落ち着かせてから、静かに、しかし熱を込めて告げた。
「……あいつらの作る舞台なんて、俺がめちゃくちゃにしてやる。……瑠璃の人生の主役は瑠璃自身なんだから、 誰にも奪わせない」
スピーカーの向こう側で、すんっと鼻をすする音がした。
「……っ」
また泣いている。このお嬢様は本当に涙腺が緩い。
「ず、ずるいですわ……っ。そんな、かっこいいこと言って……。わたくし今、もう枕がびしょびしょですのよ……」
ぐすぐすと鼻声になりながらも、瑠璃は必死に言葉をつなごうとしていた。
「わ、わたくし……自分で選んだ明日なんて、考えたことなかったですの。だってずっと、天宮の娘として生まれたからには、決められたレールの上を歩くのが当然だって……そう思って生きてきましたから」
そのときだった。自室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれたのは。
「瑠璃様。夜中に大声で騒がないでください。使用人が全員起きてしまいます」
パジャマ姿の綾部が、ドア枠に肩をもたれかけて立っていた。瑠璃が興奮のあまり叫んでいたのを、部屋の外まで聞きつけたらしい。
「く、綾部! ノックしなさいって、いつも言っているでしょう!」
「三回しました。返事がなかったので」
綾部の紫の瞳が、瑠璃の手にあるスマホへと冷ややかに向けられた。電話の相手が誰か、すぐに察したのだろう。
彼女は気だるげに目を細め、小さくため息をついた。
「……奏多様ですか。こんな時間に瑠璃様を泣かせて、一体何をしているのです?」
「……綾部さん、夜分遅くに申し訳ありません」
奏多の声は落ち着いていた。だが、その言葉一つひとつには、確固たる決意の重みが乗っている。
「泣かせるつもりはなかったんです。ただ、彼女の心が少し揺れてしまったようで」
奏多は一度、スマホ越しに瑠璃の気配を確かめるように間を置いた。
「ずっと瑠璃の傍で、一番の理解者でいたあなたなら分かるはずだ。来週の晩餐会が、彼女の望んでいる場所ではないことくらいは」
奏多は、逃げ場のない問いを投げかける。
「彼女が望んでもいない『お飾りの人生』を送る事を、このまま見過ごすつもりですか? 俺を止めるのか、それとも瑠璃を守るために力を貸すのか……どちらです?」
部屋に重い静寂が落ちた。瑠璃はスマホを両手で握りしめたまま、綾部と、電話の向こうの奏多の気配の間で視線を右往左往させている。
「……」
綾部は壁から肩を離し、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。腕を組み、天蓋付きベッドの端へ腰を下ろすと、長い脚を優雅に組む。その所作の一つひとつに、威圧感が漂っていた。
「見過ごすつもり、ですか」
その声には、いつもの気だるさとは異なる、鋭い棘が潜んでいた。
「私が十年、このバ……っ失礼、瑠璃様の傍にいて、何もしてこなかったとでも?」
「バカ」という言葉が出かけたのを瑠璃がじとっと睨んだが、今はそれどころではない。
「晩餐会は今回で三度目です。過去二回、私がどれだけ手を回したか、想像もつかないでしょう? 候補者の情報を洗い出し、弱みを握り、瑠璃様に近づけないよう裏で泥を被り続けてきた。……それでも、天宮当主の命令には抗えません」
綾部は一度目を伏せ、組んだ指先をじっと見つめた。その横顔には、執事として背負ってきた長い苦悩が滲んでいる。
「私は執事です。主人の決定に背く権限などない。……ですが」
綾部がゆっくりと顔を上げた。あの無機質な仮面の奥で、揺らめく感情の灯が見えた。
「あなたに直接そう問われては、嘘はつけませんね。……力を貸す気があるか、ですって?」
不意に、綾部が口元を緩めた。自嘲でも皮肉でもない。それは、長年重い鎧を着ていた人間が、ようやく小さな隙間から本音をこぼす時の、微かな笑みだった。
「ありますよ。ずっと、ずっと前から」




