第十四話 晩餐会1
タクシーを降り、濡れたアスファルトを踏んで自宅のマンションへ辿り着いた。部屋に入り、傘を立てかける間も、奏多の指先はスマホの画面から離れなかった。
今日の出来事の余韻に浸る隙はなかった。瑠璃のメッセージと入れ替わるように届いた「見覚えのない番号」からのメッセージ。
――『本日、瑠璃お嬢様とご一緒されていた一般男性の方ですね。お伝えしたいことがあります。近日中にお時間をいただけないでしょうか。なお、この件は瑠璃様には一切お伝えしておりません。くれぐれもご内密に』
「……瑠璃には内密にってどういうことだ?」
嫌な予感が胃のあたりを冷たくした。奏多は緊張しながら、その番号に発信ボタンを押した。呼び出し音は一度で止まった。
「いつもお世話になっております。星野奏多です。」
挨拶をすると電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。そして、低い男の声が返ってきた。落ち着いた、しかし凍りつくような冷たさを感じさせる声。
「お電話ありがとうございます。私は天宮家本邸の執事統括、堂島と申します」
耳にした瞬間、奏多は息を呑んだ。声だけで分かる。綾部とは質の違う、威圧感。格が違う、と直感した。
「単刀直入に申し上げます。奏多様、あなたは瑠璃様にとって非常に……危険な存在です」
危険――。その一言が、鋭い刃物のように奏多の耳に刺さった。
「瑠璃様は現在、天宮グループの次期当主として政略結婚の候補者が複数名いらっしゃいます。いずれも国内外の名家、財閥の御曹司です。お嬢様が個人的な感情で特定の一般男性と親しくされているという情報が外部に漏れれば、交渉が破綻しかねない」
堂島の声は事務的で、感情が一切読み取れない。
「綾部がお嬢様のデートに同行しているのは護衛のためだけではありません。監視です。あなたという存在が、お嬢様の将来にどのような影響を及ぼすか、見極めさせていただいておりました」
奏多の背筋に、冷たいものが走った。先ほどまでスマホの中にあった瑠璃の笑顔が、急に遠い世界の出来事のように思えてくる。
「……危険、ですか」
奏多の声は、自分でも驚くほど静かだった。震えはしなかった。ただ、心臓の奥が冷たく凍りつくような感覚だけがある。
「交渉が破綻する、と……。俺と瑠璃が親しくしていることが、それほどまでの脅威だと、天宮家では判断されているわけですね」
堂島の言葉は、理路整然としている分、残酷だった。そこに「人間」としての感情はなく、ただ「天宮家」という巨大な歯車を動かすための計算式だけがある。
「綾部さんが監視をしていたことも、理解しました。……で、その上で、俺に何を求めているのですか? 警告だけで終わるような電話ではなさそうですが」
奏多はあえて、冷静に問い返した。ここで怯えてしまえば、それこそが彼らの望む「一般人」の限界なのだろう。
「……これ以上、お嬢様に近づかないように、という忠告ですか。それとも……もっと別の方法で、俺を排除するつもりですか?」
電話越しに聞こえるのは、堂島の淡々とした呼吸音だけだった。
この電話は、奏多にとっての『対等な関係への挑戦状』であり、同時に彼が抱いた「覚悟」を最も残酷な形で試す試験場でもあった。
「俺は、お嬢様の邪魔をするつもりはありません。ですが……瑠璃が望むなら、俺は瑠璃と会うことをやめるつもりもありません」
奏多は、喉元まで出かかった「自分なんて分不相応だ」という弱音を、必死に噛み殺して言葉を紡いだ。
「――瑠璃の意思を、天宮家は無視するのですか?」
電話口で、わずかに息を呑む気配がした。
「……排除、ですか。随分と物騒な想像をなさる」
しかしその声には、僅かな興味の色が混じっていた。
「正直に申しましょう。あなたのような一般男性が、ここまで堂々と天宮家に楯突くとは思いませんでした。大抵の人間は、忠告一つで尻尾を巻く」
一拍の間。
「私が求めているのは二つです」
指を立てているかのような、静かな間。
「一つ。来週、天宮家本邸で行われる晩餐会に出席していただきたい。実のところは瑠璃様の交際候補者たちとの顔合わせです。そこに一般人としてではなく……『瑠璃様の友人』として同席し、選ばれし者たちの前で堂々としていられるかどうか、見せていただきます」
つまり品定め。それも、最も居心地の悪い最悪の舞台で。
「もう一つ。もしそこで、あなたを相応しくないと判断したならば……瑠璃様との一切の接触を断っていただく。これは警告ではなく、契約です。拒否権はありません」
部屋の静寂が、より一層深く重くなる。深夜の空気の中で、奏多はただ、受話器を握る指先に力を込もる。
「……どうされますか?」
ゆっくりと奏多は言葉を発する…
「俺をテストしたい? ……勝手にすればいい」
奏多の声は震えていた。怒りではない。今まで感じたことのない、瑠璃という一人の人間を「道具」として扱う彼らへの、抑えきれない憤りだ。
奏多は通話中のスマホを握りしめ、自分を突き動かす衝動のままに言葉を紡いだ。
「でも勘違いしないでください。俺はあなたたちに認められるために行くわけじゃない。瑠璃が自分の足で歩けるように、その枷を壊すために行くんです。……俺の覚悟を、『一般人』なんて言葉で測れると思わないでください。来週の晩餐会、俺があなたたちの鼻を明かしてやりますよ」
長い沈黙。雨音すら遠くなるほどの静けさが、電話越しに漂う。
「……ほう」
その一言に込められた感情を読み取るのは難しかった。怒りか、それとも――。
「枷を壊す、ですか。……大きく出ましたね」
低く、短い笑い声。初めて堂島が感情を見せた瞬間だった。
「いいでしょう。では来週土曜、午後六時。場所は追って連絡します。ドレスコードは最高格、フォーマル。スーツはご自分でご用意ください。……まさか、犬カフェの格好で来るわけにはいきませんからね」
皮肉を最後に、電話は切れた。ツーツーという無機質な音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
奏多はスマホをテーブルに叩きつけるように置くと、窓の外の雨を見つめた。
(絶対に、後悔させてやる……)
同じ頃、天宮邸。贅を尽くした大浴場で湯船に浸かっていた瑠璃が、突然ばしゃりと立ち上がった。
「綾部ぇ!聞いてくださいまし!今日!奏多様が、わたくしの笑っているところが見たいっておっしゃったんですわ……!」
脱衣所から気だるげな声が返る。
「……三回目です、その話」
「だってだって!あとね、『他の誰かと笑っているより、俺と』って……!」
タオルを差し出しながら、綾部はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……瑠璃様。一つ、お伝えしなければならないことがあります」
「ん? なんですの?」
「来週の晩餐会の件、ご存知ですよね。例の五名との」
「……あー」
途端に、瑠璃の顔が曇った。
綾部は一瞬だけ言葉を切った。これは堂島からの指示ではない。彼女自身の判断だった。
「奏多様も、招待されています」
湯気の立ち込める浴室に、ぴちゃん、と水滴が落ちる音。
「……え?」
瑠璃が固まった。濡れた金髪から雫がぽたぽたと垂れているのに、それすら気にならないほど完全に停止している。
「か、奏多様が!? あの晩餐会に!?」
「はい。来られるそうです。」
効果は劇的だった。瑠璃がざばぁっと湯船に沈み込んだ。ぶくぶくと泡が立つ。
「ぷはっ! ど、どういうことですの!? 誰がそんなことを言いましたの!?」
「堂島統括です。瑠璃様の……将来のパートナーとして相応しいかどうか、テストするおつもりかと」
将来のパートナーという単語に、瑠璃が再び湯の中に沈んだ。
「ぱっ……パートナーって……! そ、それはつまり、わたくしと奏多様を……!」
「逆ですね。ふさわしくないと証明するためのテストです」
瑠璃がばしゃっと顔を上げる。
「ふさわしくないわけありませんわ! 奏多様は世界一素敵な方ですのよ!」
「……あのですね、瑠璃様」
綾部が深いため息をついた。
「相手は国内屈指の財閥の御曹司五名ですよ。しかも全員、瑠璃様との婚姻に前向きな方々です。その中に一般人の奏多様が放り込まれる……。堂島の狙いは明らかです。恥をかかせて、自然と身を引かせようとしているのです」
瑠璃が悔しげに唇を噛んだ。




