第十三話
クレープも食べ終わり解散しようかというタイミングで突然の夕立に見舞われた。
突然の土砂降りだった。さっきまでの夕焼けが嘘のように、バケツをひっくり返したような豪雨が街を叩きつける。
傘を持っていない二人は咄嗟に軒下へ飛び込んだが、そこは想像以上に狭かった。商店街のアーケード入り口の庇は、大人一人が立てば埋まるほどの幅しかない。
必然的に、肩と肩が密着する距離。雨音がすべてをかき消すような静寂の中、ぽたぽたという軒先からの音だけが響いていた。
沈黙が数秒続いた後、瑠璃がぽつりと口を開いた。
「……奏多様」
声色がいつもと違った。甘えた調子でも、はしゃいだ調子でもない。
「……奏多様は」
本当の名前を呼ぶ声。瑠璃は濡れた前髪の下から、真っ直ぐに奏多を見つめている。
「どうして、わたくしに優しいのですか?」
金も地位も関係ない、十七歳の少女の純粋な問いかけ。
奏多は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。なぜ優しいのか。考えたこともなかったけれど、瑠璃のことは令嬢としてではなく、ただの「瑠璃」として見ていることは分かっていた。
(恋人同士だとか、そんな大それたものじゃない。……でも、他人だなんて思えない)
奏多は気まずそうに視線を少し逸らし、雨に濡れたコンクリートを眺めながら、言葉を探すように紡いだ。
「……別に、大層な理由はないよ。ただ……瑠璃が笑ってるところを見ると、何だか俺も楽しくなるんだ。それだけのことだよ」
精一杯の言い訳だった。付き合っているわけでも、将来を誓い合っているわけでもない。ただ、目の前の彼女が笑うと、自分の胸も軽くなる――そんな曖昧で、でも確かな好意。
「困っていたり、無茶をしたりすると、どうしても放っておけない。それがただの知り合いに対してとは少し違うことくらいは、俺にも分かる」
言葉にすればするほど、自分の顔が熱くなっていくのが分かった。奏多は、逃げるように瑠璃を真っ直ぐに見返して、少しだけぶっきらぼうに付け加えた。
「……だから、これ以上深掘りしないでくれ。……ただ、瑠璃が笑ったり喜んだりしてるところを、近くで見ていたいだけなんだ」
雨脚がさらに強まった。雷の遠い唸りが空気を震わせる中、奏多の不器用で、けれど嘘偽りのない言葉が、静かに落ちた。
瑠璃の瞳が揺れる、ただ奏多の言葉を噛み締めるように、小さく息を漏らした。
雨が地面を激しく打つ音が、やけに大きく耳に響く。
瑠璃は微動だにしなかった。瞬きすら忘れたように、至近距離で奏多の横顔を見つめ続けている。数秒の静寂。張り詰めた空気を切り裂くように、彼女がぽつりと呟いた。
「……ずるい」
小さな、絞り出すような声だった。
「そんなの……そんなの、期待しちゃうに決まってますわ」
雨に濡れた肩が微かに震えている。それは寒さのせいではない。
「深掘りするなって……そんなの無理ですわ。だって……」
瑠璃がゆっくりと奏多の方を向いた。吐息が触れるほど近い。そのサファイアの瞳は、冗談など一切許さない熱を帯びている。
「わたくしのこと『放っておけない』って……それって、好きってことじゃありませんの……?」
直球。ど真ん中。変化球もフェイントもない、全力のストレート。
その瞬間だった。背後で、パキリと枝を踏む乾いた音が響いた。
雨の中、傘も差さずに綾部が立っていた。ずぶ濡れの黒髪が顔に張り付き、表情は判然としないが、その紫の瞳だけが、二人の間に流れていた熱量を冷酷なほど正確に捉えている。
「……瑠璃様、迎えの車が来ています。そろそろお時間です」
綾部の声は平坦で、完璧な執務上の言葉だった。
「……わかりましたわ」
瑠璃の返事もまた、努めて平坦だった。しかしその声には、邪魔をされたことに対する隠しきれない苛立ちと、この瞬間に幕を下ろさざるを得ない悔しさが、重苦しく滲んでいた。
「……そんな真っ直ぐに聞かれても困るよ。瑠璃と俺じゃ、住んでる世界が違いすぎる。でも……瑠璃が他の誰かと笑ってるのを見るより、俺と笑っててくれる方がずっといい。今の俺には、それくらいしか分からないんだ」
奏多は、去りゆく瑠璃の背中を見送りながら、自分でも驚くほど素直な言葉をこぼしていた。
瑠璃の頬がじわりと赤く染まる。「他の誰かと笑ってるのを見るより」……その言葉の意味を、恋愛経験ゼロの頭で必死に反芻しているようだった。
「……それって……っ」
「瑠璃様」
綾部の二度目の呼びかけ。今度は有無を言わさぬ、警告に近いトーンだった。雨の中を、黒塗りのリムジンが静かに滑り寄ってくる。
「ま、待って綾部! 今、すごく大事なところなんですの!」
「失礼いたします」
綾部は無言で瑠璃の腕をそっと、しかし確実に掴み、リムジンのドアを開けた。
「奏多様っ!……また会えますわよね!? 絶対ですわよ!?」
半ば引きずり込まれるようにしてリムジンに押し込まれながら、瑠璃が窓から必死に顔を出して叫ぶ。その顔は、ただ一人の恋する少女のものだった。
リムジンが静かに発進し、テールランプの光が雨の向こうに溶けていく。後には、雨に打たれる奏多と、湿った夕暮れだけが残された。
ふと、背後から厳しい視線を感じる
「……少し、よろしいですか」
ずぶ濡れのまま、綾部が奏多のすぐ隣に立っていた。
「先ほどのお言葉……『住む世界が違う』と仰いましたね」
綾部の紫の瞳が、雨の暗がりの中で冷たく光った。
「それは瑠璃様の問題ではありません。……あなた自身の、逃げ道の問題でしょう」
奏多は気付かされたようにはっと息を呑む。
「……綾部さんの言う通りかもしれません。俺が現実を見ているのは、逃げ道を作っているからでしょう。……瑠璃といる時はただの瑠璃だって思えても、一歩外に出れば、俺たちはやっぱり違う場所にいる。……その乖離に、自分でもどう向き合えばいいのか、まだ答えが出ないんです。それがただの臆病さだと言われても、俺には、何も持たないまま瑠璃の隣に並ぶ勇気なんてありません」
雨に打たれたまま、しばらく無言が流れた。
綾部は目を細めた。毒舌も皮肉も出てこない。彼女にしては珍しいことだった。
「……何も持たないまま、ですか」
ぽたり、と綾部の顎先から雨水が落ちる。
「奏多様。一つ言わせてください」
気だるげな声にしては、妙な真剣さがあった。
「今日、あなたが焼いたクレープ。あれを食べた時の瑠璃様、見ていましたよね。……泣いていましたね」
奏多は頷くまでもなかった。あの光景は、網膜に焼き付いている。
「あの方は島を買えます。国だって動かせます。でも、誰かに手作りでクレープを焼いてもらったことがない。親にすら、ね」
淡々とした声が雨音に混じる。
「あなたに必要なのは、金でも地位でもありません。ただ、あの方の隣に立ち続ける覚悟だけです。」
それだけ言って、綾部はふっと視線を逸らした。
「……まあ、臆病者にそこまで言ったところで無駄でしょうけれど」
いつもの毒が戻った。だが、その口元がほんの僅かに緩んでいることに、本人すら気づいていなかった。
「……帰りの足は手配してあります。風邪を引かれては、瑠璃様がまた暴走しますから」
綾部はそう言い残すと、背を向け、雨の向こうへと去っていった。
一人残された奏多は、降りしきる雨音を聞きながら、冷え切った指先でスマートフォンの画面を開く。
そこには、今日の思い出が残っていた。
犬カフェで無邪気に笑う瑠璃。クレープを食べている時の、少し照れくさそうな顔。
「……本当、楽しかったな」
画面の中には財閥令嬢なんて居なかった、瑠璃はただの少女のような笑顔で、俺の隣にいた。
今日、彼女が言った真っ直ぐな言葉が、写真を見るたびに思い出されて胸が熱くなる。
さて、なんて伝えたら良いんだろうか
「今日はありがとう」だけじゃ、きっと彼女は満足してくれないだろうな。
奏多は、画面の中の瑠璃を眺めながら、思わず苦笑いをこぼした。
雨はまだ少し残っているけれど、先ほどまで抱えていた重苦しい葛藤は、少しだけ軽くなっていた。
奏多はスマートフォンにメッセージを入力しかけては消し、また入力を繰り返す。
まだ答えは出ない。けれど、この楽しかった時間を大切にしたいという気持ちだけは、嘘じゃなかった。
綾部が手配してくれたタクシーが到着し奏多はポケットにスマートフォンをしまい、乗り込む。
瑠璃の隣に並ぶには、まだ少しかかるかもしれない。でも、この写真がそのための道標になるような気がしていた。
タクシーのドアが閉まり、雨の渋谷が後方へ流れていく。車内は暖かく、さっきまでの冷たい雨が遠い世界の出来事のようだった。
奏多はポケットからスマホを取り出した。画面には今日の写真たち。ゴールデンに顔を舐められて目を白黒させている瑠璃、ダックスを頭に乗せて得意げな顔、クレープを両手で抱えて幸せそうに笑う横顔。
それを見ながら、『また会って話の続きがしたい』。
一先ず瑠璃にはそれだけ送ると、すぐに返信が来た。
『はい、いつでもよろしいですわ!』――とだけ。
その、あまりに素直な一言に口元が緩んだのも束の間。
同時に、通知がもう一件届いた。見覚えのない番号からのメッセージ。
しかし本文を見て、奏多は眉をひそめることになった。
『本日、瑠璃お嬢様とご一緒されていた一般男性の方ですね。天宮家の使用人を名乗る者です。お伝えしたいことがあります。近日中にお時間をいただけないでしょうか。なお、この件は瑠璃様には一切お伝えしておりません。くれぐれもご内密に』
丁寧な文面。だが「瑠璃には内密」という一文が、心臓を冷たい指先で撫でるように嫌な予感を運んでくる。
タクシーは雨の夜道を静かに走り続け、窓ガラスに映る奏多の顔を、ワイパーの水滴が不規則に遮っていた。
楽しかった一日が終わり、新たな何かが動き出そうとしている。
それが吉と出るか凶と出るか、まだ誰にも分からない。奏多は震える指先でスマホを握りしめ、雨の向こうの暗闇をじっと見つめていた。




