第十二話
奏多は慣れた手つきで鉄板に生地を広げ、薄く均一に伸ばしていく。トーンという軽快な音とともに生地を裏返し、チョコレートソースとバナナを配置して丁寧に巻き上げた。
「……よっしゃ、完成」
「菅元店長、お世話になりました!……それとこれ、お代です」
「おっと、金なんていらねえよ。半年ぶりの奏多のクレープが見られただけでお釣りが出るわ!」
「そういうわけにはいきませんよ。次はまた客として来ますから」
奏多は店長と力強く握手を交わし、瑠璃を連れてキッチンカーを後にした。
少し歩いた先にある小さな公園のベンチに、二人は腰を下ろす。夕日が街路樹の隙間から差し込み、オレンジ色の光がクレープの上のチョコレートソースを艶やかに照らしていた。
「一番の人気商品のチョコバナナだ。……ほら」
奏多が差し出すと、瑠璃はクレープを両手で受け取り、愛おしそうにじーっと見つめた。
「……これ、奏多様の愛がこもってますわよね?」
言ってから、瑠璃は自分で顔を真っ赤に染め上げた。どうやら自分で言って自分で照れてしまうタイプらしい。
「い、いただきますわ!」
ぱくっと一口。バナナとチョコクリーム、そして出来立ての生地が口の中で混ざり合った瞬間。
「……んんっ……!!」
瑠璃の動きがピタリと止まった。サファイアブルーの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「お、おいひい……ですわ……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。それは単なる味の感動だけではない。
「だって……だって、わたくし……誰かに手作りのものをもらうの……初めてで……」
天宮グループの一人娘。欲しいものは何でも手に入った。最高級のブランド品も、豪華な邸宅も、私有の島すらも。
しかし、誰かが自分のためだけに手間暇をかけて何かを作ってくれるという経験だけは、どんな大金でも手に入れることができなかったのだ。
「……そっか。そんなに喜んでくれるとは思わなかったよ」
奏多が少し照れながらハンカチを差し出すと、瑠璃はぐすぐすと鼻をすすりながら、それでもクレープにかぶりついた。
「おいひい……世界一おいひいですわ……!」
夕日に照らされたベンチで、涙を流しながらクレープを頬張る美少女。その様子を、通りすがりの人々が驚いたように二度見していく。
そして茂みの奥から、かすかに「カシャッ」とシャッター音が響いた。綾部がいつの間にかスマホを構えていたのだ。彼女は満足げに画面を閉じ、無線へ小さく呟く。
「……瑠璃様に異常なし。非常に幸福そうでいらっしゃいます」
綾部は少しだけ口元を綻ばせ、二人の幸せな夕暮れを見守り続けていた。
(……あの時、わたくしは)
ベンチでクレープを一緒に頬張る奏多様の横顔を見つめながら、わたくしは静かに記憶の扉を開く。
天宮の令嬢として、世界はわたくしの足元に広がるおもちゃ箱のようなものでしたわ。でも、その箱の中に、心から信頼できる「人間」はいなかった。誰もがわたくしの名前や肩書きを見て、その奥にあるわたくし自身を見ようとはしなかったから。
初めての奏多様とお会いした日。三つ星シェフが作った絶品のお弁当を忘れ、空腹に耐えられず、わたくしは1人落ち込んでいましたわ。
そんなわたくしに気づいた奏多様はただ一言、「これ、あげる」と焼きそばパンを差し出してくださった。
衝撃でしたわ。わたくしが天宮瑠璃だと知っても、あの人は他の人とは違った。
身分を明かして、何も持っていないから改めてお礼がしたいと伝えたときも、あの人はただ「別に、そんなお礼なんて気にしないで」と、あっさりと背を向けて去っていったのですわ。
普通なら、驚くか、必死に擦り寄ってくるか、あるいは邪な下心を見せるもの。けれど、奏多様にはそれらすべてが欠落していた。
そう思っていたら、去り際、わざわざ戻ってきて飲み物まで手渡してくださったの。
「いつか俺がお弁当を忘れて困ってる時にたまたま会ったなら、何か恵んで?」
なんて、おどけた冗談を残して。
きっと奏多様は、もう覚えていらっしゃらないでしょうね。見返りなんて微塵も求めていない、あの純粋な優しさ。
あの日、あの時、
わたくしが泣いていたのは、
わたくしの胸に刺さったのは、
空腹でも焼きそばパンの味でもなくて
本当は奏多様の「分け隔てない心」でしたの。
令嬢という立場ゆえに、これまでどれほど汚い欲望に晒されてきたか……
あの人はきっとご存じないでしょう。だからこそ、わたくしの中で何かが音を立てて崩れ、そして、芽生えたのです。
この人を、もっと知りたい。
この人を、ずっと見ていたい。
気がつけば、わたくしは夢中で彼を探していましたわ。今日、こうして奏多様の隣にいられる奇跡の重みを噛み締めながら、わたくしは心の中で、あの日見つけた恋の続きをそっと誓う。
(……そうだわ)
わたくしは、溢れ出る愛しさをそのまま形にしたくて、奏多様を見つけたあの日と同じようにこの言葉を
『明日はリムジンでお迎えに行きますわ!』
「……はあ? 突拍子もないことを言うな。やめてくれ」
隣で呆れたように笑う奏多様の横顔を見て、わたくしは思わず口元を緩める。
あの時は拒絶されて悲しかったけれど、今はこうして隣でクレープを食べている。
あの日の焼きそばパンから始まった奇跡が、今もこうして続いているのですわ。
「……おい、なんでニヤニヤしてる?」
「いえ、何でもありませんわ。……奏多様が、わたくしのために焼いてくださったこのクレープの味が、世界で一番美味しいというだけですわ」
何度拒絶されても構いませんわ。
この純粋な優しさを、わたくしはわたくしの全てをかけて守っていきたいんですの。




